♯30.POPs or High‐tempo R&B (シロー・スナイベルの戦い③)
アーサー会長は危機を肌で感じていた。
だが、行動に移すまでの猶予は、あまりにも短かった。息が止まる。瞬きができない。目をそらした瞬間には、確実な死が待っている。せめて、愛する女性だけでも逃がさないと。そう思い、咄嗟にミーシャの体を突き飛ばそうとする。
それが、正解だった。
彼が伸ばした腕を、ミーシャが掴む。そして、目の前の脅威から遠ざけるように引っ張られる。自分と体の位置が入れ代わる形で。当然、悪魔卿のドス黒い殺意は、ミーシャへと放たれた。
人間の首など、原形がなくなるほどのひと薙ぎが。
空間を歪みながら迫ってくる。
……ミーシャっ!?
アーサー会長は心の中で叫んだ。
命を刈り取る悪魔卿の一撃。オウガイ・モリ・ブラッド卿の狂気とも呼べる手刀を前にして、ミーシャは静かに佇み。
無言で、その手刀を弾き返していた。
「……『断罪聖典』開帳。汝、その罪を聖なる剣にて穿たれるべし。第86節。『悪魔殺しの聖剣(Sir‐Durandal)」
彼女の足元に展開されている、淡い輝きを放つ魔法陣。その右手には、陽炎のような聖なる大剣が握られていた。そこまで見て、初めて状況を把握した。自分は彼女に助けられたのだと。
「悪いけど、私の男に手を出さないでくれる? 芸術家には男色家が多いって聞いたけど、あんたもそのクチなわけ。こいつはね、私のものなの。あんたみたいなゲイ野郎にくれてやるつもりはないわ」
いつになく本気で怒っている。
ミーシャは陽炎の聖剣を放り投げて、再び魔法陣を展開させる。今までにはない、強い輝きだ。
そして、そんな彼女を見て。
オウガイ・モリ・ブラッド卿は、苛立ちを頂点にさせた。
「……いま、なんて言った?」
「はぁ? あんたにこの男をくれてやるつもりはない、って言ったのよ」
「……違う、そこじゃない。某のことを、何と揶揄した?」
「男色家」
感情のない言葉を、ミーシャが言い放つ。
そして、その言葉を受けて、……オウガイ・モリ・ブラッド卿は呻くように頭を抱える。指の隙間から見えた瞳は、真っ赤に血走っていた。
「……こ、このクソガキどもがぁ! よりにもよって、某を男好き呼ばわりとは!? 貴様らは言ってはいけないことを口にした。百合展開ならともかく、男同士の絡み合いとか興味ないんだよ!」
オウガイ卿が苦しんでいる。
まるで、今までも同性愛者じゃないかと指摘されてきたかのように。彼自身、同性愛に対して否定的な考えは持っていない。だが、自分自身がそれと疑われることには我慢できなかった。
オウガイ卿は苦しんでいた。
過去の心の傷に、塩を塗りたくられたみたいに。
「くそぅ、文学好きを舐めとんのか!? お前らもそうだ! 私のものだと!? カーッ、お前の男なんぞ最初から興味なんてねーんだよ! このクソガキがぁ! あー、腹立つッ! めっちゃ腹立つわーっ!」
そもそも某はロリコンなんだよ! 男にも成人女性にも興味はないんだよ!
そんなことを叫んでは、ばりばりばりと頭を搔きむしって、丸眼鏡を地面に叩き割る。整っていた髪は乱れて、着ていた東洋の袴は酷く乱れてしまっている。その外見は、穏やかな文学青年から、売れない文学作家のように変わり果てていた。
「っうか! おめーら、よくもノコノコと面出せるよなぁ?! 人に文句を言いたいんなら、おめーらはどうなんだよ! こっちのモノを勝手に盗んでおいて、この泥棒猫がぁ!」
バーカ、バーカっ!
恥も外聞もなく、じたばたと悪魔卿が地団駄を踏んでいる。まるで聞き分けのない子供、……いや、いつになっても大人になれないダメ人間である。その、あまりの豹変に唖然とするアーサー会長であったが、話を聞いていると違和感のようなものを感じていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕たちが、あなたの大切なものを盗んだと?」
「そーだよ! 早く返せよぉ!?」
「何かの勘違いでは? 僕たちはあなたから何も盗んでいないし、何もしていませんよ」
「あぁん? かー、白々しいわぁ!? お巡りさん、こいつらです。こいつらが嘘つきですよーっ」
「だから、先ほどから言っていますように。僕たちは、あなたに『忘却』させられた、ナタリア・ヴィントレスさんのことを―」
「そう、それだよ! ナタリアたん! おめーら、ナタリアたんをどこに隠したんだよ!?」
……。
……へ?
アーサー会長の思考が停止する。ミーシャも物陰に隠れているジンタも、オウガイ卿が言っていることが理解できない。
この悪魔卿は、何て言った?
ナタリアを、どこに隠した。……だと?
「わーんっ、愛しのナタリアたん! 世界一可愛い女の子ぉ! 最も可憐な姿で『記録』して、某の本棚で数百年くらいかけて愛でてあげようと思ったのに! ちゃんと、ちゃーんと、世界から『忘却』させて、某の手元に置いておいたはずなのに! いつの間にか、どこかに消えちゃっていたんだよぉぉ!?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!? つまり、オウガイ卿。あなたもナタリア・ヴィントレスさんの居場所を知らないと?」
「当たり前でしょうが!? 知っていたら、こちらからお迎えに行っているわ!? ……嗚呼、ナタリアたん。綺麗な銀色の髪。丸い瞳。可愛いお手て。小さな体に、小さなおへそに、小さなくるぶしに、小さな脇。それを見ているだけで、……その、下品ではありますが、某は性的なこうふんを―、ぎゃばっ!?」
突然、一発の銃声がした。
建物の壁に吹き飛ばされていた、シロー・スナイベルが倒れた状態でライフルを撃っていた。その顔には、苛立ちと憎しみが浮かんでいる。
「ちっ、この犯罪者予備軍め。よくもやってくれたな」
シロー・スナイベルはその身体を重そうに起こすと。
凛とした態度で口を開く。
その表情は、まさに戦争の英雄像であった。
「それに、てめぇは聞き捨てならないことをいったなぁ? そのナタリアが世界で一番可愛いだと? ……はんっ、馬鹿馬鹿しい。いいか、よく聞け。そんな女よりも、俺の娘のほうが可愛いに決まっているだろうが!」
何を言っているんだ、この父親は?
「例えば、遠足の前の日は眠れなかったり。大好きなプリンを食べられないようにずっと冷蔵庫の前で見張っていたり。……あぁ、実は中学生になるまで、おねしょが治らなくて悩んでいたこともあったな」
何を口走ってやがる、このクソ親父が!?
ミーシャは顔を真っ赤にさせながら、自身の恥ずかしいエピソードをぶちまける父親に向かって殴りかかる。
だが、それよりも早く。
漆黒の影が驚異的な速度で、シロー・スナイベルへと迫っていた。オウガイ卿だ。彼はぼさぼさになった髪を靡かせて、血走った目から狂気を漂わせる。そして―
「……マジで?」
「あぁ。マジだ。あれだけクールに装っておきながら、寝起きに半べそになっているんだぞ。はぁ、あの頃が一番可愛かったなぁ。いや、今も可愛いが」
じーっ。
じーっ。
シロー・スナイベルとオウガイ卿が並んで、ミーシャのことを見つめる。そして、オウガイ卿はしばらく凝視したあと、……ぐにゃりと含み笑いを漏らした。
「ぐふっ、ぐへへっ。……シロー・スナイベル殿と言ったか。先ほどは失礼した。確かに、貴殿の娘さんもたいへん美しい。それも絶世の美少女と呼ぶべきほどに」
惜しむべきは、あと二年くらい早く出会いたかった。
そんなことまで、オウガイ卿が付け加える。
「わかってくれればいい。どこに出しても恥ずかしくない娘だが、これから嫁に出すと考えると虫唾が走ってな。……まぁ、それはそれとして」
カシャリ、と銃口を悪魔卿に向ける。
「てめぇは、ここでブチのめすけどな」
「まぁ、それは仕方ないですよね」
ズドンッ、という銃声と同時に、悪魔卿が宙を舞う。
シロー・スナイベルの魔法を、世界から『忘却』させて打ち消すと。その喉元に向けて手刀を突き出す。「某が勝ったら、娘さんの幼い時の写真をいただきますよぉ!」「ふんっ、貴様にくれてやる娘の写真などないわぁ!?」銃弾と手刀、魔法と根源がぶつかりあう激しい戦闘の合間に、どうでもいいやり取りが聞こえた気がした。
「よしっ、今だ! シローさんが悪魔卿を引き付けている内に、僕たちは先に進もう!」
アーサー会長は遠くを見るような目で言った。
目の焦点もズレている。
考えることをやめている顔だった。
まだ顔が赤くなっているミーシャと、建物の影から出てこようとしないジンタを引き連れて、アーサー会長は大聖堂の中へと進んでいく。
「……僕は気にしないからね。例え、おねしょ癖が治っていなくても」
「デリカシー?!」
ミーシャの本気の拳が、アーサー会長の顔に突き刺さった。
そんな二人を見ながら、ジンタは疑問に思う。
……それじゃあ、ナタリア・ヴィントレスは。どこにいるのだろうか?