♯29.POPs or High‐tempo R&B (シロー・スナイベルの戦い②)
悪魔卿とは、超越存在である。
有象無象にいる悪魔たちとは違い、この世の現象を根源に生を与えられた。いわば、現象が形になった概念存在。『圧縮』と『拡張』のエドガー・ブラッド卿は。『憤怒』と『炎』のルードヴィヒ・ヴァン・ブラッド卿は。特に、ルードヴィッヒ卿は、生物・無生物に限らずその命を焼き尽くす。やろうと思えば、言語すら燃やせる。
そして、オウガイ・モリ・ブラッド卿は。
『忘却』と『記憶』の悪魔卿。人間に限らず、この世界から『忘却』させることで、存在そのものを抹消することができる。また、自分が愛おしいと思えるものには、一冊の本へと『記憶』して。この世界のどこかにある彼だけの書庫へと保管する。それこそ、彼にとって至上の喜びである。
趣味であった。
面白い人間を収集して、一人で鑑賞することが。
「パパっ!?」
何メートルも吹き飛ばされて、壁に叩きつけられた父親を前にして、ミーシャは悲鳴のような声を上げる。
たった指一本。
まるで、消しゴムのカスを払うかのように動作で、人間一人を弾き飛ばしていた。
これが悪魔卿。
これが超越存在。
「いやー、すみませんね。その人物がいると話が穏やかに進みそうにないので。先に黙らせていただきました」
あぁ、心配いりませんよ。
せいぜい肋骨が砕けて、腕がへし折れているくらいですから。と、オウガイ卿は穏やかな笑みを浮かべていた。
「お初にお目にかかります。某の呼称は、オウガイ・モリ・ブラッドと申します。以後、お見知りおきを」
とても穏やかな表情だった。
そこには憎しみも苛立ちもない。品の良い文学青年。東洋の袴を揺らして、ゆっくりと頭を垂れる。
そんな第一印象に。
騙されないくらいには、彼らは場数を踏んでいた。
「『断罪聖典』開帳! 汝、己の罪を懺悔して、己の罰を受けいれるべし。第72節『悪魔殺しのトール(Hark! The Herald Angels Sing)』ッ!!」
先手必勝。
ミーシャは自身が取りうる最大速度で攻撃を仕掛ける。背後に出現させた巨神による鉄槌の一撃が。目の前の悪魔卿へと振り下ろされていた。
ズシンッ、と地響きのような音が響く。
わずかに地面が揺れて、神の拳が悪魔を叩き潰して、……いなかった。
「やれやれ。気性の荒い少女は趣味ではないのですが」
「受け止めた!? 片手で!?」
これまで様々な悪魔を倒してきた、ミーシャの魔法『断罪聖典』。その中でも、上位の威力を誇る神の拳を、この悪魔は何事もなかったように片手で受け止めていたのだ。そして、軽く手を捻ると―
ッッゥ!?
今度は、拳を放った巨神を軽々と捻り上げる。巨神の顔が驚愕に染まる。腕が引きちぎられて、そのまま薙ぎ倒されて。光の粒子となって消えていく。圧倒的なまでの戦闘能力の差。まさに悪魔卿と呼ぶに相応しい。
「……うそ」
茫然とするミーシャ。そんな彼女に向けて、オウガイ卿は柔らかく微笑む。穏やかな雰囲気からは想像もできない、空気を切り裂くような刺突。
「危ない、ミーシャ!」
「っ!?」
アーサー会長が彼女の腕を引っ張り、その身体を抱きかかえる。悪魔卿の人差し指が、かろうじて目の前で止まる。そのまま悪魔卿から距離をとって、アーサーは静かに睨みつける。
「……淑女に対して手を上げるなんて、あまり褒められた行為ではありませんよ」
「やれやれ。笑って見過ごせないくらいには、殺意に満ちていたと思いますが」
「淑女のわがままを聞くのも、紳士の器というもの。貴卿ほどの御方が、あの程度の攻撃で気分を害するとは思いませんが」
そう言って、アーサー会長はミーシャを地面に下す。
『No.』のリーダーにして、様々な国家組織に顔が利く、アーサー会長。だが、彼自身に悪魔と戦う力はない。悪魔と対峙するとき、彼の最大の武器は言葉であった。
「ですが、まずはご無礼を働いたことを謝罪します。僕の名前はアーサー。どうぞ、お見知りおきを」
「ふむ。礼儀の良い方は嫌いではありません。それに、その礼式は国外の王族相手にでも通ずる最上礼のもの。もしかして、あなたはどこぞの王族に縁のある方ですかな?」
「その話は、後ほど。お時間があるときにでも。……さて、オウガイ・モリ・ブラッド卿。失礼ながら、貴卿にいくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
アーサー会長は礼節を崩すことなく、悪魔との対話を続けていく。
これまでもそうだった。以前、ルーブル美術館で戦ったエドガー・ブラッド卿。
あの『圧縮』と『拡張』の悪魔卿との戦いに幕を下ろしたのが、このアーサー会長の対話であった。ミーシャの魔法でもなく、カゲトラの拳でもない。自分より格上の相手には、力よりも言葉のほうがよほど武器になることを、彼は国家外交に携わる立場から知っていた。
アーサー会長が尋ねたいことは、ただひとつ。
自分たちが忘れてしまった仲間、ナタリア・ヴィントレスのことだ。彼女を救うために、この大聖堂まで来た。自分たちが『忘却』されているならば、彼女の居場所を知っているのは、この悪魔卿しかいない。
「むむぅ、困りましたなぁ。某としては、品のある紳士の言葉には、耳を貸すのが信条なのですが。……あいにく、某には余裕がありませんので」
「余裕が、ない?」
「えぇ、そうです。もっと単純にいえば―」
オウガイ・モリ・ブラッド卿は。
その文学青年のような穏やかな表情のまま、淡々と言い放った。
「……最高に機嫌が悪いんだよ。てめぇらみたいなクソガキの声を聞くだけで、その脳みそをブチまけてやりたいくらいになぁ!?」
瞬間。空気が揺らいで。
オウガイ・モリ・ブラッド卿が、目の前にまで迫ってきていたー