♯28.POPs or High‐tempo R&B (シロー・スナイベルの戦い①)
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「はぁ、はぁ」
「大聖堂まで、あと少しだ。休まず走るぞ」
シロー・スナイベルの無感情の声に、娘であるミーシャがむっとした表情になる。
だが、同時に嬉しくもあった。
遠慮のない言葉とは、裏を返せば信頼されているということ。親に守られているだけの子供もではなく、自分の意思でここにいる一人の人間として認められている。
顔に似合わず過保護で、親バカで。そのくせ嫉妬深いというダメな父親だが。こうやって死線で一緒にいられることが、なぜかとても嬉しい。
「……着いたぞ、ノートルダム大聖堂だ」
シロー・スナイベルが軽く肩で息をしながら、その歴史的建造物を見上げる。
圧倒されるのは、その荘厳さ。
建造されてから数百年が経過しているとは思えない、息の詰まるような存在感。何百年も人々の祈りを捧げられてきた神聖な場所。
そんな場所を、悪魔たちの巣窟にされていると思うと。神様を信じていないミーシャであっても、苛立ちがこみ上げてくる。
「さっさと乗り込みましょう。魔女をボコボコにしてから、ナタリア・ヴィントレスの居場所を吐かせる。悪魔卿と共謀しているだから、知っているはずでしょ」
「おい、ミーシャ。まだ、そんなことを言っているのか? ……そのナタリア・ヴィントレスは、もうどこにもいない。悪魔卿のオウガイ・モリ・ブラッド卿に存在ごと喰われてしまったと」
「そんな話、信じられない」
「信じる、信じないの話じゃない。それが事実だと言っている」
「うるさい! パパだってわかっているでしょ! 本当に世界から忘れられたのなら、どうして私たちの心に、ぽっかりと穴が開いたままなのよ!?」
ミーシャは振り返り、自分の父親へと噛みつく。
そんな彼女に同調するように、アーサー会長も口を開く。
「えぇ、そうですね。『彼女』は間違いなく存在していた。今なら、まだ間に合う。僕たちの細い繋がりを辿っていけば、きっと彼女を救うことができる」
「……俺としては、どっちでもいいんですけどね。そのナタリアさんがいないと、アンジェが不安がって―、あぎゃっ!?」
言い争う様子を見ながら、ジンタだけはボソッと呟く。
そんなやる気のない彼には、ミーシャの拳が突き刺さった。
「とにかく! 私たちにとっては、ナタリア・ヴィントレスの救出が一番大切なわけ! 魔女の退治も、悪魔卿の撃退も。正直なところ、どうでもいい!」
首都の危機を前に、そこまで言うか。
どこか呆れているシロー・スナイベルは、わかりやすく肩を落とした。
「……わかった。お前らは、そのナタリア・ヴィントレスを救出しろ。魔女アラクネも悪魔卿の相手も、俺が一人でやってやる」
彼は手にした狙撃銃の残弾を確認して、再び弾倉を装填する。
すぐ近くに立っているアーサー会長も、ジンタも。どうやって大聖堂に突入するのか考える。やはり、ここは正面突破しかないか、とミーシャが結論づける。
そんな時だった。
ピシリッ、と空間が裂けた。
「は?」
ジンタが惚けた声を上げる。
そこには何もなかった、……はずだった。
夜の闇に包まれていた、……はずだった。
誰一人として違和感を覚えず、ただ当然のように見過ごしていた。
目の前に。
悪魔卿のオウガイ・モリ・ブラッド卿が立っていることに。
その場にいた全員が『忘却』させられていた。
「おや、ようやく思い出しましたか? 他人の名前を忘れることは失礼に当たりますが、他人の存在を忘れることは、その人物の自己主張が乏しいと言われます。なので、ここは某のほうからお詫びを。某のように存在感がない悪魔卿が、あなた方の視界に入って申し訳ない」
和装に丸眼鏡。
文学青年のような穏やかな表情。とある文豪の名を拝借している悪魔卿。オウガイ・モリ・ブラッド卿は、にっこりと笑って。
シロー・スナイベルのことを人差し指だけで弾いて、……その体を壁に叩きつけていた。
がはっ、という嗚咽が聞こえて。
レンガ造りのアパートの壁が、ミシミシと悲鳴を上げた。