♯10.My Foolish Heart①(愚かなり我が心)
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埃臭い匂いが鼻についた。
薄暗い地下酒場。時間がまだ早いためか、彼ら以外に客の姿はない。いや、元々。閉店してまもない酒場なのかもしれない。傷だらけのカウンター席に座ったアーサー会長は、興味深そうに棚に並べられている酒瓶を見る。
「……シャトー・シュバル、アルマン、モエ。……あ、ロマネ・コンティエまであるね。どうやら、僕たちは国境までは越えてないようだ」
国産の酒瓶が並んでいることから、自分たちがどこに連れていかれたのか推察している。
他のメンバーは、というと。何やら難しい顔で悩んでいる、不良少年のカゲトラ。すでに考えることを止めて暇を持て余している、黒髪少女のミーシャ。そして、口から魂が飛び出してしまっている、異世界放浪者のジンタ。こういった現象に耐性がない彼だけが、意識のないまま古びた床の上で転がっていた。
ついさっきまで、学園の時計塔にいたはずだ。
それが、突然。部屋に入ってきた女性。……『S』主任によって、この場所にまで移動してきた。
「と、いうことらしいけど。ミーシャ。君の魔法でもこんなことはできるのかい?」
「馬鹿なことを言わないでよ。こんなことができるなら、わざわざ家出なんてしないって」
まぁ、悪魔をぶち殺すくらいのものよ、とミーシャがため息まじりに答えた。
メンバー内で唯一、魔法による悪魔討伐をしてきた彼女がいうのであれば、これ以上のことはわかるまい。いよいよ、アーサーも思考遊戯を止めて、酒場のカウンターに肘をつく。
その時だ。
酒場の奥へと続く扉が、急に開いた。それまで押しても引いても開かなかったのに。
「やぁ、諸君。暇を持て余させてすまない」
そう言って、酒場に入ってきたのは、あの『S』主任だった。彼女は蠱惑的な笑みを浮かべながら、遠慮のない足取りで歩いてくる。
「……それで? 僕たちに説明してもらえるのかな?」
「ん? あぁ、どうしてこんな場所に連れてこられたかって? ……そうだな。そろそろ話してやってもいい頃合いだろう」
ふふっ、と彼女は笑い。
近くに転がっているイスの上に腰を下ろす。気絶したまま目を覚まさない、ジンタというイスの上に。
「ぐえっ。……あ、でも、ちょっといいカモ」
ぐへへ、と少年がだらしない表情となる。
そんな少年の座り心地を確認しながら、『S』主任はごく自然と話し出した。
「……三日前のことだ。私の部下である、ナタリア・ヴィントレスが姿を消した」
彼女の表情は読み取りにくいが、その言葉からわずかに怒りを感じた。
「あいつは馬鹿だが、勝手に消えるような奴じゃない。そこで調べてみると、奴が関わってきた痕跡の全てが、この世から消えていることがわかった」
書類の報告書や、在籍記録など。
全ての記録から、ナタリア・ヴィントレスという人物が抜け落ちていた。まるで、この世界が。あの少女のことを忘れてしまったかのように。
「他の関係者にも問うてみたが、奴のことを覚えている人物はいなかったよ。この世の全ての記憶、記録から、アイツの存在がきれいさっぱりに消えてしまっているんだ」
「……ちょっと、待ってください。関わってきた全員の記憶から消えているのに、どうして貴女だけが覚えていたんですか?」
堪らず、アーサー会長が問う。
自分自身でさえ、違和感を覚えるのに数日は必要だったのに。その疑問を、『S』主任がさも当然のように答える。
「あぁ、それは簡単だ。私は、お前たちと違って特別なんだよ」
「……特別?」
「うむ。私の見た目は、それは誰もが羨む絶世の美女であるが。この世の人間と比べると、明らかに異質な存在なのだ」
これでも貴様たちの何倍も生きているんだぞ、と軽い口調で言った。
「他にも、覚えている人物はいないのかと探してはみたが、あまり芳しい成果はなかったな。常連だったはずの銃職人の爺も、すっかり忘れていたよ」
「それで僕たちのところに来たわけですね。その少女、ナタリアさんについて何か覚えていないかと?」
「いや。最初から、貴様たちのところへは行くつもりはなかったぞ」
アーサーの確認するような問いに、『S』主任はあっさりと否定する。
意外そうな顔になるアーサーだったが、その答えはすぐに帰ってきた。
「仮にも貴様たちは、悪魔と戦う側の人間だ。すぐにでも、私の部下を救出しにいくものだと確信していたのだけど。……まさか、呑気に茶を啜っているとはな」
失望したよ、と『S』主任は言葉には出さないが冷たい視線を向ける。
何か反論しようとするが、結局、アーサーは口を噤んでしまう。
「そのまま放置していてもよかったんだが。まぁ、仮にも私の部下が世話になっていたからな。あいつも随分と気に入っていたみたいだし。気まぐれだが助けてやることにしたのさ」
「……それがわかりません。僕たちは何の説明もなく、この場所へと連れて来られましたが。それが、どうして僕たちを助けることになるんですか?」
「ん? あぁ、それはなぁ」
彼女が口を開く。
その時だ。それまで閉まっていた扉が、新たな来客を告げる。床の転がっている扉のベルを蹴り飛ばして。その男は、不機嫌そうに口を開く。……楽器が入っていそうな、細長い頑丈な鞄を持って。
「そこからは、俺が説明しよう。どうやら、俺も無関係ではないみたいだからな」
不愛想な態度に、わずかに伸びた無精ひげ。
年齢は、二十代後半か。一見すると平凡なサラリーマンのようにも見えるが、その瞳に宿しているのは、もっと鋭利な感情。
獲物を狩る狩人。
いや、孤高の狙撃手の目をしていた。
「ふむ、久しぶりだな。臆病者のホワイトフェザー。こうして顔を合わせるのは、東西の合同軍事訓練の時か?」
「学生時代のあだ名で呼ぶな。東側陣営の女スパイが」
不機嫌を顔中で表現したような男。
シロー・スナイベルが、そこに立っていた。