♯9.「--Shuffle --」② (出会うはずのない邂逅)
「貴様らが忘れているのは、ナタリア・ヴィントレスという少女だ。この学園の二年生で、数か月前から『No.』の一員として活動していた」
この学園の生徒。
その事実に、アーサー会長以外の人物が驚いた。
そして、その会長は静かに疑問を口にする。
「ナタリア・ヴィントレス。……残念ですが、その名前を聞いても何も思い出せない。その彼女は、いったいどういう人物だったのですか?」
「そうだな。端的に言えば」
蠱惑的に足を組み替えながら、『S』主任は言った。
「優秀な人間だ。それも、とてつもなく優秀な奴だった」
それほどまでに?
と、アーサー会長が意外そうな顔をする。
「あぁ。あいつは自分の役割というものを理解していた。組織において、どのような人材が必要なのか。それに対して、自分はどのように振舞えば良いのか。どの程度の実力を見せればいいのか。どのような言動が好まれるのか。そういった空気感を読むセンスは、ズバ抜けていたよ。諜報技術。人身把握。隠密活動。体術に射撃技術。特に、狙撃に関しては目を張るものがあった。これまで多くの人材を見てきた私であっても、舌を巻くほどだったよ」
私が直属の部下にしたいと思うほどにな、と彼女は付け加える。
「貴様たちだって、覚えがあるはずなんだぞ。周囲に溶け込みながらも、目的の仕事は完璧に熟す。例え、失敗しても周囲に違和感を持たせない地盤づくり。諜報員という職業において、あれほど適任な人間もおるまいよ」
「諜報員? ということは、あなた方はこの国の平和を影から支えている、西側陣営の機密機関の人間なのですか?」
アーサー会長の問いに、『S』主任が体を揺らしながら笑う。
「ははっ、残念ながら逆だ。我々は敵国であった、……東側陣営のスパイなんだ」
ただし、平和を支えている。という点はあながち間違いではない。
と、彼女は続ける。
「我々の部署は、東側陣営の中でもカウンター的な立ち位置でね。好戦的なお偉い老人たちを、黙らせるために設立された特別な部署だからな。こちら側にも、それなりに常識人はいるということさ」
すまないが、紅茶のお代わりを貰えるか。『S』主任はわざわざ、ジンタに向かって空のカップを差し出す。それをガタガタを震えながら受け取って、ジンタがビビりまくりながら紅茶を淹れようとする。彼女の元に紅茶が届くまでに、カップが二つ割れた。
「……戦争は、憎しみしか生まない。あれほどの逸材を、冷戦を再加熱させるための道具にしたくはなかった。それが、私がこの瞬間にここにいる理由だ。あいつは、お気に入りの部下だ。失うには惜しい」
「正直、びっくりしました。それほどまでのプロフェッショナルが、僕たちの仲間にいたなんて。きっと、どんな状況でも冷静沈着で、自分の欲に囚われない、それこそ絵にかいたようなプロのスパイだったのでしょうね」
アーサー会長はしみじみと言う。
正直。彼の顔には、まだ納得できていない様子だった。
「それはそうさ。あいつは私が育てたスパイだからな。国家間の戦争の種を潰す専門家。自分の存在がバレそうになるような、そんなミスをなんて―」
そこまで言って、『S』主任は口を閉じる。
そして、これまで彼女が報告してきたレポート内容を思い出す。重大な任務こそ失敗はしないが、気楽な任務こそミスが多い。目も当てられないようなミスで、自分の正体がバレそうになったことも、両手の指を合わせても足りないくらいある。思い出せば、思い出すほど、苦虫を噛んだような顔になっていき、……改めて言い直した。
「あー、うん。まぁ、今のは失言だったな。貴様たちも苦労が絶えなかったことだろう。そういえば、あいつは迂闊なことばかりしていたな」
はぁ、と『S』主任がため息をつく。
彼女に愛着があるのは間違いない。だが、それと同時に、どうしようもなく手のかかる人物であったことを思いだした。
『S』主任は長い髪をかき分けながら、ゆっくりとした足取りで窓際に立つ。首都の街並みが見渡せる、大きなガラス窓だった。そこからの風景を楽しんでいるようで、やはりここではないどこかを見ながら、彼女は続ける。
「……さて、ここで質問だ。貴様たちに問おう。今、この瞬間。貴様たちが忘れてしまっている仲間。恥ずかしくも、そして愚かにも。今までコキ使っていたくせに完全に忘れてしまっている貴様たちだが」
わずかに黙った後に。
彼女は問う。
「……あの少女のために、命を賭けられるか?」
何のために、と誰もが思った。
それと同時に、『S』主任は続けた。
「ナタリア・ヴィントレスを救うために、貴様たちは命を賭けられるのか? 既に記憶にも残っておらず、どこの誰かも知らない少女のために。かつての仲間だったかもしれない人間に、命がけで戦うことができるのか?」
彼女が振り向いて、その冷たい視線を皆に向ける。
アーサー会長。
ミーシャ・コルレオーネ。
カゲトラ・ウォーナックル。
そして、ジンタ。
その場にいる四名を見渡して、『S』主任が首都の風景を背に立つ。
「……」
空気が、張りつめていく。
記憶にもない。
知り合いかどうかも分からない。
そんな人間のために。
命を賭けて。
戦えるというのか。
……悪魔卿という、この世界の超越存在と。
「時間は、あまりないぞ。少しでも返答を渋るのであれば、この私が一人で解決してやろうと思っていたが―、……なるほど。貴様らも存外に、頭のネジが外れているな」
にやり、と『S』主任が笑う。
空気は、すでに決まっていた。
記憶にもない。
知り合いかどうかも分からない。
それでも。
彼らには。
戦うための理由を知っていた。
「えぇ、もちろんです。貴女ほどの人が、接点のない我々のために忠告をしてきたのですから。それを信じない理由はないでしょう」
「あー、そういえば。私の部屋の化粧水とかシャンプーとか。急にどっかに行っちゃったのよね。もしかしたら、その子が持っているのかしら」
「……問題ない。俺にも腑に落ちないことがある。そいつに会えば、きっとわかるはずだ」
「いやいやいや! 何を言っているんっすか!? 俺は嫌ですよ! なんで見ず知らずの人間のために、命まで賭けなくちゃいけないんスか! 俺は安全なところから皆を見守って、……あぎゃぱっ?!」
カゲトラの拳が、ジンタを強引に黙らせる。
くの字になって気絶する少年。そんな彼のことを、カゲトラが無言で担ぎ上げる。その行為を批判するものは、誰もいなかった。
「ふむ。満場一致だな。ならば、いいだろう。貴様たちにも権利を与えてやる。私の可愛い部下を助けにいく権利をな。……まずは」
くるり、と『S』主任が再び振り返る。
時計塔の二階から見える、首都ノイシュタン=ブルグの風景。古い町並みが色濃く残りながらも、新しい歴史を積み重ねていく。市街地を走る路面電車に、渋滞の絶えない幹線道路。
歴史的建造物であるエッフェル電波塔、国立ルーブル美術館。大勢の人が行き交うシャンゼリゼ通り天使が降り立ったという伝承の残るノートルダム大聖堂。
美しい街だった。
そんな美しい風景を背にして、……『S』主任がなんでもないことのように言った。
「……まずは、貴様らの命を救ってやるとしよう」
その瞬間。
彼らのいる学園の時計塔。
その地面にある影から巨大な獣が姿を現して。
時計塔を、丸飲みにしてしまった―