♯8.「--Shuffle --」① (出会うはずのない邂逅)
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彼女は、魔女のような女だった。
東側陣営の諜報機関。
その西側方面戦略担当官である『S』主任は、常に個人的な感性で働いていた。
全ての人に平等の幸福を。そんな東側の共産主義が掲げるスローガンなど、糞の掃き溜めと断言するほどに、彼女の人間性に揺らぎはない。
年齢は、不明。
生まれも、不明。
本当の名前すら、誰も知らない。
それなのに東側陣営の諜報員として活動している謎の女性。黙っていれば絶世の美女、口を開けば毒舌。妖艶な微笑みと、サディスティックな態度から、誰もが彼女を指してこう言った。
あれは、『魔女』のような女だと。
それが魅惑を振り撒く女スパイ。存在が消えてしまった少女の上司。 ……『S』主任であった。
「長話をするつもりはない。だが、紅茶くらいは出してもらえないか」
そう言って、『S』主任はジンタに向かって視線を投げかける。
氷のような冷たい目だった。
そして、その凍てつく視線に、パシリ体質のジンタが反射的に立ち上がった。きびきびとした動きで電気ポットのスイッチを入れると、客人用のティーカップに紅茶を淹れる。
その間、他の仲間たちは微動だにしなかった。突然の謎の訪問者に警戒していたわけではなく、ただ彼の手伝うのが面倒であったからだ。
「ど、ど、どうそ。そ、粗茶ですが」
「うむ、いただこう」
『S』主任がティーカップを受け取ると、それと同時にジンタは逃げ出した。アーサー会長の後ろに隠れて、謎の美女に向けて極度の警戒を示す。恐怖に怯えている、あまりにも哀れな男の姿だった。
「……ジンタ君。キミらしくもないな。あのような美貌の持ち主は、君の趣味と会うのではないのかい?」
「……会長、何を言っているんっすか。あれは、ヤバいっすよ。いくら美女や美少女が好きでも、ラスボス系ヒロインは俺には無理ですって」
ガクガク、ブルブル、と異世界放浪者であるジンタが震える。
彼の直感は、正解であった。
外見こそ、絶世の美女である『S』主任ではあるが、その正体は人外の存在に近い。その身に纏っている雰囲気も、妖艶な所作をひとつとっても。その証拠に、彼女の足元にある影からは、絶えず獣のような呻き声が零れていた。
「さて、長居をするつもりはないと言ったな。あれは、貴様たちを正当に評価しての発言だ。事態が動いてから、もう二日と経っているのに。未だに、何も気づいていないとはー」
呆れて、ものも言えん。
ギロッ、と鋭い視線がメンバーたちを貫く。
その瞳は。
彼らの失態を非難しているかのようだった。
「ここに立ち寄ったのは、ただの礼儀だ。仮にも、私の可愛い部下が世話になった場所だからな。コキ使ってもらえて何よりだ。……だが、その人物ですら、誰も覚えていないというのは、いささかいただけないな」
『S』主任の視線が、アーサー会長へと突き刺さる。
それに対して、会長も。
いつもと同じように穏やかに返す。
「ご忠告、痛み入ります。自分も管理能力不足を痛感するばかりです。……が、ということは。すでに何か大きな問題が起きている。ということですね? そして、その問題には我々の仲間が関わっている。我々が忘れていることを、貴女は知っている。何より、我々には時間がなくタイムリミットはもう目の前にまで迫っている。そう捉えてよろしいですか?」
対話による盤外戦術。
会話の内容と相手の態度から、どれほどの情報格差があるのか。自分たちが何を知らなくて、相手がどこまで把握しているのか。会話の行間を読み解くことに長けている彼は、静かに訪問者である『S』主任を静かに観察する。
そして、アーサー会長は自身の経験と直感から、『S』主任のことを正確に分析する。
この人物は、『No.』が戦うべき敵ではないと。
「……ナタリア・ヴィントレス。先ほど、貴女が口にした名前ですね。……不思議ですね。僕も初めて聞いた名前とは思えません。どちらかというと―」
そこまで言って、アーサー会長は
少しだけ、その強張っていた頬を緩ませた。
「……頭痛の種だった。もっと言うならば、随分と振り回されていた。そんな気分になります」
自身が忘れてしまった、もう一人の仲間。
忘却された記憶の中でも、アーサー会長は必死に記憶の糸を辿る。もう、仲間は失いたくない。その一心に懸けて。
何を忘れてしまったのか。
誰を忘れてしまったのか。
勘違いではないという確信に、メンバーの仲間たち。……カゲトラ、ミーシャ、ジンタを順番に見て、最後に自分の顔が映った窓ガラスを見る。
そして、ひとつの結論へとたどり着いた。
「……悪魔卿。彼らの仕業ですか」
アーサー会長の一言に。
ようやく。
ようやく。
『S』主任がわずかに笑みを零した。
「……ふむ。合格点はやれないが、まぁ及第点だな。おめでとう。これでも貴様たちが正解に辿りつけなかったら、私はこのまま立ち去っていたぞ」
彼女は空いているソファーに座りながら、優雅に足を組む。それは自分の可愛い部下と話している時と、同じ態度であった。