#4.the Witch is coming now.(魔女が来るぞ…)
「……その辺りで止めるべきでしょう。クズダルク書記官」
整然とした声が、廃ビルに響き渡った。
声を上げた西側の男は、今も足を上げている書記官の横を通り過ぎると、床に倒れている少女へと駆け寄る。手足はイスに縛られたままで、体中に擦り傷ができていた。
「おやおや、西側陣営のスパイである君が、この小娘を庇うのかい? これが東側の鼠だと知っているというのに」
「捕虜の扱いは、ジュネーブ条約で定義されている。無意味な乱暴は避けるべきです」
「それは、戦時中の条約だろう。そもそも軍人でもない人間には、適応されないと思うがね?」
「えぇ、その通り。我々スパイには、あらゆる条約が適応されません。国のために生きて、国のために死ぬ」
それが、我々の生き様です。
西側陣営の中でも凄腕のスパイである、西側の男。彼は書記官と同僚たちの視線を集めながら、それでも整然と声を張る。
「それでも、我々は人だ。彼女がどのような活動や工作をしていたのか、人として同じ目線で話し合うべきだ。それこそが、我々が謡う。自由と平等の世界だ」
西側の男の言葉に、書記官はつまらなさそうな顔になる。
だが、彼の同僚は違った。
そうだ、そうだ。と、賛同するものが出てきて、書記官に対して冷たい視線を向ける。そもそも祖国を売って、東側へと亡命をする算段をつけていた男だ。この浅はかな裏切者の言葉には、あらゆる重みがない。
「あーはっは。実に下らない。そんな甘いことを言っているから、東側に出し抜かれるんだ。この能無し共め」
「クズダルク書記官。あなたには世界が見えていない。次期に、世界は東側・西側なんて括りなどなくなる。東西の平和併合、それが目の前にまで迫ってきている」
「ふん、そんな表向きの平和など、ただの幻想に過ぎないさ」
「それでも、あなたの生きる場所はなくなる。祖国を売り、東へと逃げても、そこに安住の地はないでしょう」
これ以上、語ることはない。
そう言うように、西側の男は少女を縛っているものへと手を伸ばす。そして、隠してあったナイフで縄を切ると、ナタリア・ヴィントレスを解放する。
「……貴様。自分がやっていることがわかっているのか? みすみす敵のスパイを逃がすつもりか?」
「えぇ、書記官。もちろん、わかっていますよ」
西側の男は薄く笑いながら、片耳に入れている小型無線機を指さす。
外で待機している仲間と、常に連絡を取っていた。
「先ほど、確認が取れました。あなたが何度も蹴り飛ばした、この少女ですけどね。……東側のスパイではありません。首都のノイシュタン学院の通っている、普通の学生であることが判明しました」
「……なに?」
クズダルク書記官の顔が歪む。
その反応を楽しむように、西側の男が演じるように手を広げる。
「よく聞こえませんでしたか? この少女は、普通の学生です。家族にも別に不審な点はありません。補導すら記録がない善良な市民です。……そう、我々が守るべき、この国の人間ですよ」
西側の男はナタリアを解放すると、彼女を庇うように前に出る。
クズダルク書記官と対峙して、冷たい視線を送る。
「……政府は、あなたを利用するつもりでしょうけど。我々は見逃すつもりはない。この国を混乱に陥れようとした者に、手心を加えるつもりはありません」
第一級政治犯。
この国の国家機密を持ち出して、東側に亡命しようとしたクズダルク書記官。司法取引によって、ある程度の自由は約束されているものの、優秀な集団である西側のスパイたちは、彼を逃がすつもりはない。
何があっても、この国の法律で裁いてやる。
「……もちろん。君にも、ちゃんと話をきかせてもらうけどね。銀髪の少女ちゃん?」
「……うげ」
ナタリアがあからさまに嫌そうな顔をした。
そんな二人のやり取りを見て、クズダルク書記官は呆れたように肩を落とす。
「やれやれ。そんな小娘を守るために、ヒーロー気取りかい? 滑稽を通り越して、腹立たしくなってくるよ」
「無駄口は、そこまでです。ヤンナ・クズダルク書記官。我々のスパイ機関の権限に則って、大人しく尋問に付き合ってもらおう。貴様には、我が国の未来ある少女を暴行した罪状がある」
西側の男が、語気を強める。
周囲の仲間たちも、いつでも銃を取り出せるように、スーツの懐に手を入れている。
「まったく。今度は、矛先がこちらとは。……せめて、暖かいコーヒーでも出してくれないかな?」
「悪いが、この建物には水道が通っていないんでね」
「そうかい。残念だなぁ、まったく―」
にやり、とクズダルク書記官が笑う。
ちろちろ、ちろちろ。
蛇のように舌を出しながら、西側の男に向かって視線を強める。クズダルク書記官にとって、この場は余興でしかない。既に、東側への亡命の手筈は整っている。多少、トラブルはあったが、問題は全てクリアしている。明日の今頃は、東側の国の首都でボルシチでも食べていることだろう。
そのためにも、この廃ビルを爆破して。この場から逃げ出さなくては。合図を送れば、金を握らせた爆破の解体業者が、手早く仕事を始める。その手筈になっていた。
「あぁ、本当に。残念―」
クズダルク書記官が手を挙げて、爆破の合図を送ろうとする。
だが、その直前―
『ぐわああああぁぁっ!!』
突然、西側の男が耳につけている小型無線機から、仲間の悲鳴が聞こえてきた。
慌てた男は、片耳に手を当てながら大声を上げる。
「おい、どうした!? 何があった!?」
『し、侵入者です。このビルに侵入者が入ってきました!』
「くそっ、東側の連中か!? こちらからも応援を出す。向こうは何人だ!?」
西側の男の問いに、ノイズ交じりの返答が来た。
『……り、です』
「なんだ、よく聞こえないぞ!? もう一回言ってく―」
『あ、相手は、……一人です! とんでもない美女が、俺たちを襲ってきて、……ぎゃあぁぁぁっ!』
仲間の通信が途絶える。
他の仲間たちに連絡を取ってみても、返ってくるのは阿鼻叫喚の悲鳴ばかり。
……助けてくれぇー!
……来るな来るなーっ!
……くっ、そんな色っぽい微笑みを浮かべても、俺たちは絶対に負けな―、ぎゃあぁぁ!
やがて、訪れる静寂。
ノイズだけとなった無線機から聞こえてきたのは、上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。軽やかにステップを踏みようなリズムで、その謎の美女は歌う。
『ふんふ~ん。さぁて、私の可愛い部下を誘拐した悪い子は、どこにいるのかしらねぇ~』




