#3. East &West…(東側と西側と…)
……おい、本当に。こんなちんちくりんが東側陣営のスパイなのか?
……いや。こういう時は外見に騙されてはダメだ。確かに、ちんちくりんだけどな。
ひそひそと、廃ビルで男たちの囁き声が交わされる。
場所は、首都のどこか。
誰もいない寂れたコンクリートの廃墟。
ここがどこなのか、まったく見当がつかない。駅前で誘拐されて、真黒なワゴン車に詰め込まれて。気がついたら、両手と両足をパイプイスに縛られた状態で、ナタリア・ヴィントレスは怖い顔をした男たちに囲まれていた。その間、彼女は何の抵抗もしなかった。ここで暴れても、無意味であることを悟っていた。
「あのー、いつになったら帰してくれるんですか?」
ナタリアが緊張感のない声で問う。
彼女に目隠しと口を封じていないのは、抵抗する様子がまったくなかったことと、敵対している組織のスパイとはいえ、年頃の少女に乱暴することに気が引けたためだった。それくらい、他人から見た彼女の第一印象は、どこにでもいる普通な女の子だった。
「……もう一度、質問するぞ? お前が東側のスパイだということはわかっている。名前と所属、どんな任務をしようとしていたのか言え」
駅前でナタリアに話しかけた、西側のスパイの男が問う。
その視線は、厳格なもので。到底、拒否できる気配などなかった。
だが―
「だーかーら、さっきも言ったでしょ。私みたいな下っ端に、任務の詳細とか教えてくれるわけないっての。所属や階級も話せないし、名前はもっと教えたくない」
ぷんぷん、と頬を膨らませて、ナタリア・ヴィントレスは子供のように怒る。
「そもそも。西側のスパイって、もっとスマートでエレガントなもんじゃないの? 捕虜を相手に、小粋なジョークを話しながら、ブランデーをグラスに注いでくれるとか」
「いや、君は未成年だろう」
「じゃあ、オレンジジュースでもいいからさ」
「贅沢を言うな」
「むー、ケチ」
ぷいっ、と彼女は機嫌を損ねたように、そっぽを向いてしまう。
これには、凄腕で名が通っている西側のスパイたちも困惑せざるを得ない。東側陣営といえば、社会主義が蔓延る監視社会だ。国全体を監視・管理している東側の諜報員は、それこそ血も涙もないと聞く。他国のエージェントはおろか、自国の国民にまで悪辣な手段を使う。
命令だけを忠実にこなす、心のない機械人形。
そんな印象しかないのに、このナタリアの態度ときたら。危険な敵国のスパイを相手にしているはずが、まるで人の話を聞かない、親戚の娘を相手にしている気分になってくる。
……気を引き締めろよ。これは、あの女の作戦だ。
……了解している。ここまで自然体で印象操作をしてくるなんて。やはり、東側の諜報員は侮れないな。
西側のスパイたちは油断しないように、自分の心に言い聞かせる。
まぁ、ナタリア・ヴィントレスにしてみれば。普段通りに接しているだけなのだが。そんな彼女に向けて、あの西側の男が口を開く。
「君は、我々に拘束されて尋問を受けているわけだが。それにしては、妙に冷静ではないかな?」
西側の男は、目つきを鋭くさせた。
少女の顔の変化や仕草から、嘘を暴こうとするように。
「この場所は、誰にも知られていない。絶対に助けはこない。だというのに、その緊張感のない態度。もしかしたら、我々には気づかれない方法で、外部と連絡を取っているんじゃないのか? そうだろう?」
西側の男の言葉に、他のスパイたちにも緊張が走る。
まさか、この少女が囮で。我々をおびき寄せるために、わざと捕まったというのか。熟練のスパイたちは、素早く周囲の安全確認を行い、その内の何人かは無線機で連絡を取っている。不穏な気配がしたら、すぐに知らせろ。と、慌てたように言う。だが―
「あははー、それはないなー。仮に、居場所を教えても、私の上司は絶対に助けてくれないものー」
その表情は、諦めと悲しみに満ちていた。
もはや、目は死んでいる。
自分の上司に助けを求めるくらいなら、その辺にいる野良犬にでも拝み倒した方がマシだ。その本心から漏れている言葉は、西側の男にも嫌というほど伝わった。
……間違いない。
……この娘、本当に自分の上司に愛想が尽きているんだ。
会話の際の、わずかな反応や仕草で、人の嘘を見抜ける技術がある。
西側の男は、その技術に卓越していた。
この諦めきった表情は、本当に何の希望も見いだせていない。そんな顔であることを、確信してしまった。
「……仮に、君が自由になったとする。そうなったら、君は何をしたい?」
「主任を、シバき倒しにいきます!」
即答だった。
そこまで自分の上司が嫌いか?
西側の男に、疲労の色が見え始めた。
本当に、我々が尋問するべき人物は、この少女なのか? そんな不安がわずかに滲みだした、……その時だ。
廃ビルの奥のほうから、一人の男が革靴を鳴らして近づいてきた。
若い男だった
そして、どこか鼻につく笑い声を上げていた。
「あーはっは、我が国の優秀なスパイ諸君。お出迎えご苦労っ」
ぱんぱんと軽い拍手をしながら、嫌味な笑みを隠そうともしない。
周囲の西側スパイたちからも、敵意に似た視線を向けられるが、まるで気にも留めない。そのまま芝居ががった態度でナタリアの前にまで来ると。
「へー、これが東側のスパイか。思っていたより、可愛い顔をしているんだね」
にこにこと上機嫌に笑いながら、値踏みするように彼女のことを見ていく。
そして、何の前触れもなく。
……彼女が縛られているイスを、思いっきり蹴り飛ばした。
唐突なことで、身構えることもできず。
ナタリアの体は縛られたイスごと、コンクリートの床に叩きつけらえた。
彼女から、短い悲鳴が漏れた。
「クズダルク書記官! 突然、何を!?」
「何ってー? 不要なゴミを蹴り飛ばしたんだよ。東側陣営のスパイなんて、この国じゃあ生きている価値のないゴミでしょ?」
クズダルク書記官と呼ばれた男は、さも当然のように言った。
その顔は、楽しくて仕方ない。愉悦が滲んでいる。
歪んだ人間性の持ち主であることを、西側の男は瞬時に把握した。
「……書記官。捕虜への尋問は、我々の仕事です。あなたに口出しされる云われはない」
「へぇー、そんなことを言うんだ。この僕が情報をリークしたから、こうやって手柄を立てられたというのに?」
「あなたが、それを言いますか? 東側陣営に亡命するために、機密情報を持ち出そうとして。それが発覚したからと、今度は東側を罠にハメるように、政府と司法取引をした。あなたを」
「あーはっは、僕はねぇ。この瞬間が楽しければ何でもいいんだよ! こうやって、楽しいおもちゃが手に入ればね!」
そう言って、下衆めいた視線で。
コンクリートの床に倒れている、ナタリア・ヴィントレスを見下ろす。どのようして遊んであげようか。ちろりっ、と蛇のように舌なめずりをして―
同時刻。
首都の中央駅の前で。
どこか煽情的な雰囲気を放っている『S』主任が、自身の苛立ちを隠そうともせず時計を睨んでいた。
「遅いっ! あの馬鹿、本当に遅刻するとは!」
刃物のように細長い切れ目に、新調したばかりの眼鏡。
絶世の美女と呼ぶにふさわしい美しい風貌。
いつもなら数分ごとにナンパの声がかかるというのに、今日ばかりは10分おきにしか声を掛けられなかった。あまりの不機嫌っぷりに、主任の近くには野良猫も鳩も近づこうとはしない。
「くそっ。クズダルク書記官との接触時間まで、それほど残っていないぞ。仕方ない、私ひとりで行くしか―、……ん?」
駅前のロータリーで、何かが光った。
なんとなく予感めいたものを感じて、『S』主任はロータリーの溝に転がっているものを拾い上げる。
それは、……純銀で作られた銃弾だった。
「……22口径、デリンジャーの弾だな。弾頭に純銀を採用したフルメタルジェケット弾か。こんなものを使う人間なんて、この街に一人しかおるまいよ」
はぁー、とため息をつく。
……まったく。
……世話のかかる部下だ。こんなところで、ドジを踏みよって。
『S』主任はどこか色っぽく息を吐きながら、やれやれと言わんばかりに銃弾を手に握る。
そして、それを。
おもむろに地面に落とした。
純銀の弾は、きらきらと光を反射させて、『S』主任の影へと落ちていき―
……彼女の影から現れた獣のような口が、その銃弾を飲み込んだ。
「さぁて、私の可愛い部下はどこに連れていかれたのか。恐ろしい誘拐犯には、たっぷりとお仕置きをしてあげないとね」
うっふん、と妖艶な笑みを浮かべると。
彼女の影から、獣の唸り声がした。
その姿は、まさに。
絵本に出てくる『魔女』のようであった。




