♯2. Information Leak(情報のリークがあったとはいえ…)
「慣れない制服は、どうにも動きづらいなぁ」
ナタリア・ヴィントレスは、駅前のショーウインドウに映った自分の姿を見ながら、どこか変なところがないか確認する。
週末の日曜日。
予定時刻の30分前には到着していた。早朝に学園の女子寮を出て、首都を走る路面電車に乗って、東側陣営が用意した別の学校の制服を受け取り、人目のつかないトイレで着替える。深緑色のスカートに、同じ色のブレザー。いつも着ている制服に比べて、ちょっと地味なのが少し不満だった。
「むぅー、スカートの丈が長い。なんか上着も固いし。戦闘になったとき、ちゃんと対処できるかなぁ」
唇と尖らせて、トイレの個室で『デリンジャー』の残弾を見る。
今日は、東側陣営のスパイとして重要な任務、……らしい。西側の秘書官と接触して、極秘文章を手に入れるのが目的だ。冷戦の最中である情勢では、こういった水面下のやり取りが頻繁に行われている。と、『S』主任がつまらなさそうに言っていた。
「仕方ない。銃は腰に隠すとして、予備の銃弾は鞄の中かな」
いつもは制服のスカートの中に隠しているデリンジャーだが、支給された他校の制服では、戦闘になったときに瞬時に取り出せないと判断。悩んだ末に、スカートの腰の辺りに隠して、いざという時に備えよう。……ふふん。こういう柔軟な対応が、現場では活きてくるのだよ。そう考えているナタリアは、どこかご機嫌な表情であった。
そうやって、すっかりと他校の女子に成りすました彼女は、スクールバックを肩に掛けて、首都行きの路面電車へと乗り込む。そして、予定されていた時間より、かなり早く到着していた。
「(……遅刻したら、『S』主任に殺されるからなぁ。何があっても、あの人よりも早く着いていないと)」
下っ端の人間において、待ち合わせに早すぎるという言葉はない。
笑顔で上司を迎え入れてこそ、立派な社会人だ。まぁ、今の私は学生なんだけど。そんな屁理屈が通じる相手ではない。あの魔女のように妖艶な顔からは、常にサディスティックな笑みが零れているのだから。
「さぁて、タピオカでも飲みながら待っていようかなぁ」
駅前の喫茶店で、最も人気のない商品を注文して、ずずっとストローを咥えながら待つ。
週末ということもあって、首都の駅前はそれなりに混んでいた。任務に他校の制服が選ばれたのも、目立たなくさせる目的があってのことだろう。大勢の学生が行き交う首都において、これほどありふれた服装もないだろう。
予定の時間まで、あと10分。
ナタリア・ヴィントレスはそそくさと喫茶店のロゴが入った紙コップを捨てにいくと、自分の上司を迎える準備を整える。主に、精神面で。あの『S』主任のことだ。どうせ、ロクでもない任務になるに違いない。
そう考えていると、ふと目の前に人影が立ち止まった。
もう来たのかな?
遅刻の常習犯である主任にしては、驚天動地なほど時間に正確だけど。そう思って顔を上げると、そこにいたのは知らない男だった。
「こんにちは。あなたもここで待ち合わせですか?」
穏やかな笑みだった。
相手に警戒させないように高度に訓練された自然な笑み。その柔らかく細められて瞳は、瞬時に相手の素性と装備を見抜いていく。わずかな緊張感も漂わせることなく、それが自然であるように挨拶を交わす。
恐るべき洞察力であった。
男には、駅前に立っている普通の女子高生が、何らかの訓練を受けた小柄な戦闘員に見えていた。武装は、恐らく小型の銃器。上着のポケットか、腰辺りに隠しているのだろう。もしかしたら、ナイフの一本でも仕込んでいるかもしれない。
西側陣営に所属する男は、瞬時にしてナタリアの能力を見抜いていた。
男は、敵国のスパイだった。
東側陣営と敵対する、西側の凄腕のエージェント。この首都は東側陣営と西側陣営が苛烈な情報戦を繰り広げている戦場でもある。そして、今回の水面下の接触には、西側陣営のスパイも絡んでいた。
……ただし。
……肝心のナタリアは、そのことをまったく気づいていなかったのだが。
「えぇ、そうなんです。これから親戚のお姉さんと買い物に行くんですよ」
にこっ、と無警戒な笑みを浮かべる。
もちろん、そんなことは偽の話なのだが。その、あまりの警戒心のなさに、男のほうが動揺してしまうほどだった。
「……そ、そうなんですか。待ち合わせは、何時くらいなんです?」
「10時です。でも、いつも遅れてくるから、もうちょっと待たないといけないかもです」
「へぇ。先ほどから見ていましたけど、随分とここで待っているようで」
「そりゃ、もう。遅刻したら蝋人形にされるか、強制労働施設に送られるかもしれませんからね」
すらすらと、本当のことを言ってしまうナタリア・ヴィントレス。
スパイには、独特の匂いがあるという。
常に緊張感を張り巡らしているのを、周囲に気取らせない。そんな立ち振る舞いが、逆に自分をスパイであると主張することに繋がってしまう。
その点、男のほうは完璧だった。
初対面の相手にも自然と話しかけられる立ち振る舞いは、他のスパイも見習うものがあった。
そして、ナタリア・ヴィントレスは。
誰がどう見ても、私はスパイです、と大声で言っているくらいバレバレなものだった。なぜならば―
「そうですか、そうですか。それは良かったです」
「うん?」
ここにきて、ようやくナタリアは訝しむ。
男は駅前のロータリーで手を挙げると、タクシーを止めるような仕草をする。だが、彼の前に止まったのは、黒塗りにされた真黒なワゴン車であった。映画などで、誰かを誘拐するときに使われるような怪しい車だ
「え? あれ?」
戸惑うナタリア。
微笑んでいる西側の男。
そして、黒のワゴン車からぞろぞろと降りてくる怪しい男たち。彼らは無言のままこちらに向かってくると、ぐるりとナタリアの周囲を囲む。まるで、逃がさないと言わんばかりに。
そうなって、ようやく。
ナタリア・ヴィントレスは、自分がドジを踏んだことに気がついたのだった。彼女は、そっと腰に手を伸ばす。
「へ? あれれ?」
「さぁ、我々と一緒に来てもらいましょうか。……可愛らしい東側のスパイさん?」
ひゃうっ、とナタリアが肩を震わせる。
どうして?
なんで、バレた!?
オロオロと戸惑いながら、男のことを見上げると。彼は、にこりと笑って答えた。
「どうして、わかったのかって? それは、そうでしょう。その制服の学校は、もう二年前に閉校していますから。その制服を着ている学生なんで、どこにもいませんよ」
「ふえっ!?」
「いやー、実に目立っていましたよ。情報のリークがあったとはいえ、あんな目立つ服装の娘が、狡猾な東側のスパイだと思いませんでしたから」
では、車に乗ってください。
にこやかに笑いながら、男は言って。ナタリアは彼らによって、無理やり車に押し込められる。そして、どこか暗く冷たい場所へと、連れ去られてしまうのだった。
『主任の馬鹿やろーーーっっ!』
どこかから、そんな哀しい悲鳴が響いたという―