#1. Secret Mission(久しぶりのスパイ任務)
「ちゃんと申請書類にサインをしろよ」
閑散とした事務室に、よく通る声が響いた。
女性の声だった。
透き通った美声に、有無を言わさない凄みのある声。そんな言葉を受けて、銀髪の少女はやれやれと肩をすくめる。
「書類にサインって、本当に必要なんですか? どうせ諜報部も、こんな紙切れに興味なんてないでしょうに。ねぇ、『S』主任?」
賛同を求めるように声を掛けるが、無機質なデスクについている女上司は、そんなこともわからんのか、と少女を小馬鹿にするような目を向ける。
「たわけ。書類にサインすることが大事なのではない。サインされた書類を管理していることが大事なのだ」
所詮は、官僚主義の東側陣営だ。上の奴らなど、自身の保身しか考えておるまいよ。自部署で書類の不備がないか、戦々恐々しているのが関の山さ。そう言って、その女性はつまらなさそうにため息をつく。
美しい女性だった。
細長い切れ目に、どこか妖艶な風貌。
身長も高く、動作のひとつとっても艶めかしい。
彼女の名前は『S』主任。
本名はわからない。誰かに問われる度に、別の名前を使用しているため、どれが本名なのか見当もつかない。彼女の所属している諜報部でさえ、本名を知っているのか怪しいところだ。
ここは首都ノイシュタン=ベルグ。
路面電車を何度か乗り継いだ先にある寂れた貧困街の、潰れたボーリング場。その地下にある、東側陣営の諜報機関の支部である。時は、1956年。東西冷戦の火種は静かに燻っていた。
「まぁ、久しぶりの極秘任務だ。気合いを入れていけよ」
細いフレームの眼鏡を押し上げて、東側陣営のスパイの管理職である、『S』主任は重々しく言った。そして、その彼女に向けて、元は彼女の下で働いていた(今も働かされている)部下が、やる気のない返事をする。
「えぇ~、嫌です。今度の週末はデパートに買い物が―」
「ふん。どうせ、一人で行くつもりだったんだろう? 任務が優先だ」
「そ、そんなことないですよ! わ、私にも、……と、と、友達の一人くらい」
「目が泳いでいるぞ。無意味な虚勢は憐れみを生むから止めろ」
見ているこちらが悲しくなる、と『S』主任が不憫そうに視線を落とす。その目は、本当に銀髪の少女のことを憐れんでいた。
ナタリア・ヴィントレス。
今日も、今日とて、東側陣営のスパイとして活動中である。……本人の中では、だが。
「それにしても、別の学校の制服を受領するだけでも、こんなに面倒な手続きが必要なんて」
「書類が大好きだからな、東側陣営は。合理主義よりも、官僚主義が蔓延っている弊害だ」
「ま、そうですよね。……でも、珍しいですね。主任と二人で任務なんて」
ナタリアは任務内容が記載された文章に目を通して、そのままシュレッダーにかける。ごごー、と裁断されていく文章を見ていると、『S』主任のほうから口を開く。
「それだけ、今回の任務の重要性が伝わってくるというものだ。任務内容は、先ほど説明したとおり。……西側諸国の秘書官との接触だ」
「おぉ、水面下のやり取り、ってやつですね。何か、スパイ映画みたいで、わくわくしてきますね」
「……お前が、現役バリバリのスパイであることを、たまに忘れそうになるな」
姿が変わっても、お前は何も変わらないな。
と、『S』主任は呆れるような、感心するような顔で言った。
「では、週末の日曜日。首都の中央駅に、朝10時までに到着すること。遅刻は許さんぞ」
「遅刻したら、どうなるんです?」
「別に、何もないさ。……翌日に、この事務室に銀髪の少女の蝋人形が置かれるだけだ。あー、ポーズに希望があれば今のうちに聞いてやるぞ」
「ははは、ご冗談を」
「うん、冗談ではないぞ」
「……」
「……遅刻、するなよ」
「……はい」
東側陣営のスパイ。ナタリア・ヴィントレスは、こうして上司にもこき使われていく。そして、絶対に遅刻しないようにと、目覚まし時計を買いに行くことを心に決めるのだった―