♯1.Honey Color(蜂蜜色の…)
わたしの名前は、アンジェラ・ハニーシロップといいます。
それは、それは。
どこにでもいる普通の女の子です。
例えば、街中を歩くだけで、交通事故を引き寄せてしまうような不幸体質であっても。首都の闇に隠れている、悪魔たちに狙われる存在であっても。たまたま人間ではなく、悪魔たちの女王であったとしても。わたしは普通の女の子です。……たぶん。
一年くらい前のことかな。
この首都に悪魔たちが蔓延るようになったときに、わたしもこの世界に産み落とされました。近くにあるものを不幸に導いてしまう、呪われた存在。
それでも、今日までこうやって生きてこられたのは、たくさんの仲間たちと、世界で一番大好きな男の子、ジンタのおかげだと信じています。
……でも、今。この瞬間。
……わたしは、絶体絶命のピンチに立たされてしまいました。
「お嬢ちゃん~? 自分が何をしたのか、わかっているのかしらねぇ?」
「ぴいっ!」
びくりっ、と怖くて肩がすくんでしまいます。
わたしの目の前にいるのは、とても怖そうなおじさんでした。身体も大きくて、怖そうな顔をしています。そして、どうしてか。女性ものの可愛らしいエプロンをつけています。口紅や付けまつ毛で化粧をしていて、オネェさんみたいな話かたをしています。そして、頭には真っ白なコックさんの帽子をかぶっていました。
そう、コックさんです。
しかも、お菓子作り専門のパティシエさん。(女の人のお菓子作りさんの場合、パティシエールと呼ぶそうです。この人は、男の人なのに女性の恰好をしていますが、パティシエさんと呼ぶことが正しいと思いました)手に持った丸い木の棒をぱんぱんと手で叩きながら、わたしのことを見下ろしているのです。
はわわ、とわたしの両手は震えっぱなしになってしまいます。
「ねぇ、嬢ちゃん~。あれを見てみなさいよぉ~?」
とても怖いパティシエのおじさん(オネェさん?)は、睨みつけるように大通りのほうを指さします。
そこにあったは、人の山でした。
ウェイトレスの恰好をしたお姉さんや、おじさんと同じような服をしたお菓子作りさん。そんな人たちが、……生クリームとスポンジケーキの山に埋もれていました。ぐるぐると目を回しています。真っ白な排泄物のようでした。
「お嬢ちゃん? あなたが何をやったか、ちゃんと言ってくれるかしら~?」
「ひっ! わ、わたしは、別に―」
「あん? 嘘はよくないわよ、嘘は」
ぐいっ、と丸い木の棒で顎の辺りを持ち上げられる。
ひぃー、怖いよぉ。ジンタぁ、早く助けてー。
「あの真っ白な塊はねぇ、ウチの店の威信をかけて制作したウェディングケーキなのよぉ。今日、ケーキのコンテストがあってのぉ、それに出品する予定だったんだけどさぁ~」
「ぴ、ぴぇ」
「そのケーキが、どういうわけか。お嬢ちゃんが触った途端、ウチのスタッフに目掛けて倒れてきてきちゃったのよぉ。全員、下敷きになって再起不能ね。近くにライバル店ができたばっかりだというのに、どう落とし前をつけてくれるのかしら?」
「ぴ、ぴえぇ」
「このままじゃ、ウチの店はお終いじゃあ。ワタシの作るケーキやスイーツを楽しみに待っているお客様にも申し訳が立たないってわけ? それは、理解できるの?」
「ぴえええぇ」
「ともかくね、お嬢ちゃん。……おまんは、ウチでタダ働きじゃ!? 皿洗って帰れると思うなよぉ! ウチの経営が持ち直すまで、地獄まで付き合ってもらうからのぉ!!」
「ぴえええええええええええぇ!?」
それは、ある意味で奇跡的な偶然だった。
蜂蜜色の髪をした少女、アンジェが一人で歩いているときのことだ。普段なら、彼女の運命のパートナーである少年が、彼女の不幸を呼び寄せる呪いを打ち消しているため、大きな事故は引き起こすことはなかった。
だが、この日は一人だった。
理由は簡単だ。
……ケンカだ。
大事にとっておいたクッキーを、ジンタが勝手に食べてしまった。そんな下らない理由でケンカをして、彼女が飛び出してしまったのだ。
結果、彼女は。
いつ不幸を呼び寄せるかわからない不安定な状況で、それを見てしまった。
人の背丈よりも高い大きなケーキ。
ちょうど洋菓子店の裏口から出されたところで、周囲をパティシエやウェイトレスが慎重に運んでいる。彼らの目には疲労の色が濃く、徹夜をしたのか足元のふらふらだった。
近くにできたライバルの洋菓子店が盛況で、菓子職人である彼らも危機感を募らせていた。自分たちの店をアピールするために、ウェディングケーキのコンテストに出場しようとしたのも、少しずつ経営難に傾きつつ現状から来るものだった。
故に、満身創痍なパティシエたちは、危ない足取りでケーキを台車に載せて。
……それを蹴っ飛ばした。
パティシエたちが声にならない悲鳴を上げる。
カラカラカラ、と無情にも転がっていく巨大なケーキをのせた台車。その台車の行く先には、蜂蜜色の髪の少女、アンジェがいた。
危ない! と誰かが叫んだ。
ぐらりっ、と巨大なケーキが揺れる。
そして、自分へと迫ってくる巨大ケーキに驚いて、アンジェが手に触れた途端。ぴたっ、とケーキの揺れが止まった。
一瞬の静寂が、辺りを包む。
そして、ゆっくりと。
手を伸ばしたまま固まっているパティシエたちへと、倒れていったのだ。その巨大さがゆえ、犠牲者はバイトのウェイトレスにまで及んだ。
片手を上げたまま、固まっている蜂蜜色の少女。
そして、その光景を見て。思考が蒸発してしまった洋菓子店の店長。
アンジェとオネェ店長。
彼ら二人による洋菓子店の経営再起が、ここから始まる―