#3. Ludwig van Beethoven(復讐の黒い炎)
「……シリウス。生きていたのか」
その声は、自分でも驚くくらい震えていた。
シリウス・オブリージュ。
幼いときからスラム街で一緒に育った男。
親友。
ダチ。
家族。
彼を指す言葉はいくらでも思いつくが、それくらい大切な人はあまりいない。シリウスを除けば、彼の妹だけだ。
親友のシリウス。
妹のマリア。
そして、カゲトラ。
この国でも過酷な場所であるスラム街。犯罪者や日の当たる場所を歩けない人間ばかりが集まる社会の闇。そんな場所で生まれ育ったカゲトラは、毎日のように喧嘩に明け暮れていた。
だが、ある日を境に。
カゲトラは弱い者への暴力を辞めた。常に自分より強いものへと挑み続けた。そして、その頃から、大切なものができた。
心を許せる友。
何があっても守りたい女の子。
自分が帰ってきてもいい、自分の居場所。スラム街の倉庫を貸し切って、三人の生活が始まった。カゲトラとシリウスが日雇いのバイトをして。マリアが少ない収入で質素な食事を作ってくれる。裕福ではなかったけど、楽しい毎日だった。お金がないから、いろいろと工夫して、倉庫の一角を自分たちの家に改造していった。
いつも、笑顔が絶えなかったような気がする。
そう。あの炎を操る『煉獄の悪魔』が現れるまでは。
「今まで、どこにいっていたんだ? マリアが心配していたぞ」
死んだと思っていた親友との再会に、これほど心が動揺するものなのか。
彼との日々を思い出しながら、擦れた声を絞り出す。三人がいつも一緒で。毎日が宝物ように楽しかった。そんな日々が戻ってくるかもしれない。そこまで考えて―
カゲトラは、静かに戦闘態勢に入った。
拳を握った指先から、血が滲んでいる。
怒りに震えていた。
「……シリウス。どうして、今まで姿を見せなかった?」
「すまないな。色々あって死の境界を彷徨っていた」
親友はコートの裾から、火傷の痕だらけの腕を見せる。あの日、火傷を負ったのは自分だけではないことを、カゲトラは初めて知った。
「シリウス。どうして、今になって姿を見せた?」
「そんなこと簡単さ。君と同じ理由だよ」
親友は肩をすくめながら、震えている男の子を見下ろす。氷のように冷たい目だった。
「シリウス、もうひとつ聞かせろ」
「ん? なんだい?」
親友はかつてのように飄々とした態度で答える。
そんな親友に向かって、カゲトラは歯をむき出しにして問う。
「シリウス・オブリージュ。どうして、お前に。……悪魔が憑りついているんだ?」
季節外れの黒コート。
その袖や裾から見える素肌は、どこも火傷の痕だらけだった。首から下は、全身が火傷に覆われている。そして、その親友の背後には。
……彼と体を共有している、異形な悪魔の姿があった。
シリウス・オブリージュは乾いた声で笑った。
すでに、何もかも諦めている声だった。
「それも簡単な話さ。復讐をするためだよ。……俺たちから全てを奪った、あの火事の日。燃える倉庫の家で嗤っていた、あの『煉獄の悪魔』を殺すために。……俺は、悪魔に魂を売った」
これが、その力だと。
黒コートのライアンは手をかざすと、その手の上で黒い炎が躍った。
見ている者を不安にさせる、異質な能力。
それはまさに。悪魔の力に他ならない。
「だからね。こうやって悪魔に唆されているガキを見ると―」
そして、それまでの表情を引っ込めると。
怯えて震えている男の子に向かって、まるで獣のように襲い掛かった。
「どうにも、我慢できないんだよねぇ!」
「ッ!?」
それは、カゲトラが飛び出すのと。ほぼ同時であった。
シリウスが男の子の背中に張り付いている悪魔を掴むと、まるで握りしめるように力を込める。そして、音もなく。
真黒な炎が、悪魔を飲み込んでいった。
悪魔の悲鳴が、薄暗い路地裏に響いた。
「この黒い炎はね、他人の命を薪にして燃え上がるんだよ。悪魔と言えど、この世の存在には変わりないからね。その命を燃やし尽くしてやれば、……悪魔は殺せる」
もっとも、着火させるための最初の炎は。
俺の寿命を削って、燃やさなくてはいけないんだけどね。
そう言ったシリウスは、どこか他人事のような表情をしていた。
それが、酷く印象的だった。
「……それで? 俺はこうやって悪魔を殺しながら、この首都を彷徨っているわけだけど。どうして、カゲトラはその子供を助けているのかな?」
「……っ!」
カゲトラが荒い息を吐きながら、親友であるシリウスを睨む。
その手には、恐怖で動けなくなった男の子が抱えられていた。
「シリウス、お前。今、この子供ごと殺そうとしただろう?」
「うん。そうだよ」
親友のシリウスは弁明することなく、正直に答える。
「俺は悪魔が許せない。この世の全ての悪魔を殺してやりたい。そして、そんな悪魔に唆されて、誰かに悪事を働こうとする人間も嫌いだ。カゲトラ、俺はね。正義の英雄になりたいわけじゃなくて、悪を憎む悪役でいたいんだ」
だから、悪魔を殺す。
それに加担していた人間も許さない。
最後に、あの火事を起こした『煉獄の悪魔』を始末できれば、それで満足なんだ。
シリウスは、その身に黒炎を纏いながら、穏やかな口調で言った。
「カゲトラ。君はどうかな? 君は、あの悪魔を殺せるなら、この場で俺を殺せるかい?」
「あ? 何言ってんだ、このド阿呆。俺は何ひとつ、諦めるつもりもねぇ。あの悪魔への復讐も。お前のことも」
「マリアのことも?」
「当たり前だ」
カゲトラは、今も病院でリハビリを続けている少女を思い浮かべる。
あの火事の日に、両脚を焼かれて。自分の足では歩けなくなってしまった女の子。彼女だけは、何があっても。この俺が支えてやると心に誓った。
その真っすぐな返答に、シリウスは恥ずかしがるように微笑んだ。
「うん、そうだね。君なら、そう答えると思ったよ。……マリアのことは頼んだよ。俺は、もう長くは生きていけないから」
「お前に取りついた悪魔をぶっ飛ばせば、寿命を削る必要もないだろう?」
「ははっ、それだけは御免だね。俺は、俺の復讐を果たしたんだ。その邪魔をするなら、カゲトラだって容赦しないよ」
「けっ、言ってろ。お前が俺に喧嘩で勝ったことはないだろうが」
カゲトラは抱えていた子供を背後に放り投げる。
そして、その子供が悲鳴を上げながら逃げていくのを待って、拳を強く握りしめた。
腰を落とし、両足で地面を掴む。
軽く息を吐いて、意識を集中させる。
「諦めるつもりはない、そう言ったぜ。……俺は、お前に憑りついた悪魔をぶっ飛ばす」
「仕方ない。君から逃げる理由はないだけど、二、三発は覚悟しないとかな」
シリウスが諦めたように肩をすくめる。
そんな親友に向かって。
カゲトラは、地面を蹴り出していた。
稲妻のような疾走だった。
踏みしめた土が舞い上がり、地面に落ちるまでには。
その握りしめた拳が、悪魔に向けて振り下ろされていた。
一瞬が永遠に引き延ばされるような時間の中で、カゲトラが声にならない叫びをあげる。
シリウスの瞳が、ようやくカゲトラを捕らえる。
……そして、次の瞬間。
……神速の一撃を放ったカゲトラが、地面に叩きつけられていた。
振り下ろされた拳を、まるで待っていたかのように受け止めると、その腕を掴んで宙に放ち。わずかに無防備になった彼へと、断頭台のような一撃で沈めた。あの黒い炎を使うこともなく、悪魔と契約して得た身体能力だけで、カゲトラを返り討ちにしてみせた。
「あぁ、そういえば。俺に憑りついた悪魔のことを言ってなかったね。こいつの名前は、ルートヴィヒ・ブラッド卿。その根源は、燃焼と枯渇。……この首都にいる五人の悪魔卿の一人だ」