#18. Thank you(師匠。……人にお礼を言うときは、せめて俺の頭から足をどけてからにしてください)
「拒絶の月よ。邪悪な願いよ。わたしは、あなたの力を否定する!」
視界の端で、蜂蜜色の髪が躍る。
幼さを強く残す小さな女の子が、勇敢にも悪魔卿へと挑んでいる。
いや、勇敢ではないか。
それはまさに超越存在による、同格の戦い。悪魔卿のエドガーが手をかざして、光さえ飲み込む暴食の嵐を放とうとする。
その悪魔卿の攻撃を、たった一言で。彼女は、存在から否定してしまった。悪魔が首都を覆うほどに展開していた力が、瞬く間に霧散していく。
心地よい風が、前髪を撫でた。
「ふぃ~、今のはヤバかったな! 大丈夫っすか、ナタリア師匠!?」
その少年が、私に声をかける。
どこにでもいそうな平凡な少年。だが、私はこの人物が。見た目通りの凡人ではないことを知っている。
彼女の、……アンジェラ・ハニーシロップの隣に立つことを許された、だた一人の男の子。彼女だけの英雄。そのために時計塔から逃げ出した、裏切者のLost-No.だ。
「ナタリアお姉さん!? た、大変です! お姉さんがひどい怪我を」
「大丈夫だ、アンジェ! 師匠は、これくらいじゃ死なねぇ」
「ジンタ、本当?」
「あぁ、本当さ。ナタリア師匠はな。たとえ腕を千切られても、首を折られても、平然と笑っていられる人間なんだ。これくらいじゃ、ビクともしねぇ。なんだったら、この眠そうな顔に向かってビンタをしても、……あいたっ!?」
目の前のジンタ君に向かって、思いっきりビンタしてやる。
まったく、人様を何だと思っているんだ。悪魔が我が物顔で闊歩している、この首都において。ジンタ君だけは私と同じ、なんの特別の力も持っていない仲間だと思っていたけど。……やっぱり、ジンタ君とは、アンジェちゃんを取り合う恋敵でしかないのか。
「お、お姉さん? 大丈夫なのですか?」
あぁー、やばい。
意識が飛びそうだ。足元も怪しくなってきたけど、まだ倒れるわけにはいかない。
アンジェちゃんの前で、みっともない姿は見せたくないもの。
「……アンジェちゃん? ジンタ君?」
私は掠れた声で、二人の名前を呼ぶ。
つい先日、悪魔との戦いで知り合った少女と少年。アンジェちゃんは戦いの中で、悪魔を一瞬にして圧殺してみせた。その正体は、おそらく人間ではない。そんな少女の心の拠り所になっているのが、このジンタ少年だ。正直、見ているこっちが妬いてしまうほど、お似合いの二人だった。
「助けて、くれたの?」
「もちろんです! ナタリアお姉さんが巻き込まれているって、ジンタから教えてもらって!もう居てもたってもいられなくて!」
わちゃわちゃと、アンジェちゃんが小さな両手を振り回して説明する。
そうか。
ここにアンジェちゃんを連れてきたのは、ジンタ君のおかげだったのか。
「……ありがとう、アンジェちゃん。ジンタ君。おかげで助かった、……のかな?」
「師匠。……人にお礼を言うときは、せめて俺の頭から足をどけてからにしてください」
踏みつけた足の裏から、ジンタ君の苦しそうな声が聞こえた。
私は、彼から足をどけると。そのままジンタ君の背中に腰を下ろした。むぎゃ、という小さな悲鳴が聞こえた気がした。でも、気のせいだろう。あぁ、よかった。ちょうどいいところに座り心地の良いイスがあって。
「アンジェちゃんに、格好悪いところを見せちゃったかな」
私が疲労困憊というように項垂れると、蜂蜜色の髪の少女、アンジェちゃんが朗らかな笑顔で返す。
「いいえ、カッコよかったですよ。わたしの大切な仲間たちを助けてくれたみたいで、本当にありがとうございます」
そう言って、ふっと笑みを消すと。
彼女が瓦礫となりつつある美術館を見る。その瓦礫の上に、気を失ったままのミーシャ先輩とカゲトラがいた。
「ははっ。結局、何もできなかったけどね」
「大丈夫です。ここからは、わたしが相手をしますから」
アンジェちゃんは険しい表情となると。
少し離れたところにいる悪魔卿、エドガーブラッド卿に向けて口を開く。
「……あなたが、悪魔卿の一柱ね?」
「えぇ。お初にお目にかかります。私の名前は、エドガー・ブラッド卿。そういう貴女様は、我らが王。悪魔たちを統べる女王で間違いありませんね?」
確認するように、悪魔卿は薄く嗤う。
「ふふ。覚醒されてからは、人間と一緒に行動をしていると聞きましたが。まさか、こんな形でお会いするとは思ってもみませんでしたよ」
わかっていれば、盛大に歓迎できたというのに。
このご無礼を、お許しください。
悪魔卿のエドガーが、役者が演じるように仰々しく宣う。
「歓迎? 襲撃の間違いじゃなくて?」
「同じことです。我ら悪魔たちは、貴女様の覚醒を心待ちにしていました。……その力を喰らい、我がものとするために」
「下衆が。だから、わたしはあの廃墟の教会から出ていったのよ」
「お許しを。これは宿命なれば、私の意思ではありません。私個人としては、悪魔たちの抗争や、人間どもの戦いなどどうでもいい」
ですか、と彼は続ける。
「この場に乱入してしまったことは、よくない。えぇ、とてもよくない。女王様は、その少女を助けたつもりでしょうが。私にしたら最高の楽しみを奪われたのと同じ。この苛立ち、どうしてくれましょうか?」
「やってみなさい。このわたしに勝てるつもりなの?」
「えぇ、問題ありません。夜でもなく、月も出ていない。この状況では、あなたの『存在を否定する』根源は怖くない」
「……」
悪魔卿のエドガーと。
蜂蜜色の髪の少女、アンジェちゃん。
二人は互いに睨み合ったまま、静かに殺意をたぎらせる。少女の瞳が、血のように赤く変わっていく。まさに悪魔同士の戦いであった。
だが、それも。
一台の高級車が走りこんできて、有耶無耶になってしまう。
ボンネットも、サイドミラーも。ぼこぼこになってしまった高級車のリムジン。瓦礫が散乱している美術館の敷地を、とてつもないエンジン音と走行テクニックで向かってくる。そして、そのまま彼らの傍を通り過ぎて。
ぼかん、と壁にぶつかって停車した。
「……え」
唖然、としているのはアンジェちゃんだけだった。
悪魔卿のエドガーは、興が削がれたと言わんばかりに、酷く詰まらなそうな顔を浮かべた。
「……まったく。どうして、こうも邪魔者ばかり来るのです? それも、貴殿ともあろう御人が」
あの悪魔卿が、礼を失することなく声をかけている。
そして、廃車が確定になってしまったリムジンのドアが開いて。
その男。
時計塔の『No.』のリーダー。
アーサー会長が、実に嬉しそうな笑みを浮かべるのだった―