#17. A reason to live (君の生きた意味を…)
「く、くはは。……思っていた以上に、苦戦させられましたね」
額から血を流して、体中に銃弾の風穴をあけられて、息も絶え絶えになっている悪魔卿。
彼は、苦しそうに息をしながらも、……その手に掴んだものを見て、嗤う。
「ですが、ここまでです。もう、戦う余力も残っていないでしょう?」
「……」
悪魔の手には、気を失っている銀髪の少女が掴まれていた。全身が傷だらけの満身創痍。空のマガジンがあちこちに散乱して、かすかに硝煙の匂いが鼻につく。擦り傷が目立つ小さな顔が、わずかに顔を歪めた。
「はぁ、はぁ。本当に予想外でしたよ。まさか、ここまでやれるなんて、少しだけ侮っていました」
いや、侮ってなどいなかった。
最初こそは、適当にあしらってやろうと思っていたが。最初の銃撃で、その考えを改めた。
悪魔がどんな攻撃をしようとも、どんな強力な一撃を叩きつけようとも。この銀髪の少女は、いなし、躱し、その流れに逆らうことなく、悪魔への反撃を止めようとはしなかった。最初に戦ったカゲトラも、その次のミーシャも。彼にとっては歯牙にもかけないほどの相手だったが。
このナタリア・ヴィントレスという少女だけは。
やられるかもしれない、という感傷にまで至っていた。
対等。という言葉を、初めて理解させられた。
そんな気分だった。
「……は、はは。まるでオペラのエンドロールのようですね。この出会いが終わってしまうことに、一抹の寂しさすら感じていますよ」
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿は、孤独の理解者であった。
芸術を愛して、芸術に打ち込む姿勢を愛した。
そんな孤独に立ち向かう人間を愛した。
……故に、気がつく。
……自分が手にしている少女の、歪みに。
「ん? これは―」
悪魔卿は独りごとを呟きながら、その少女の顔を覗き込む。
正確には、その体の奥底にある魂を覗き込む。
「ふ、ふはは。ふはははははは! なんと、そんなことがあるのですか!?」
悪魔卿のエドガーは愉快そうに声を上げながら、気を失っている少女へと言った。
「貴女は、……いや、貴女がたは! そんな秘密を持っていたのですね! ひとつの器に、魂がふたつ。それも酷く歪な形で落ち着いている! 本来の少女は眠り続けていて、別の誰かが彼女として生きているなんて!」
興味津々に、彼は口端を上げる。
挑発するように、彼女に問いかける。
「ふはは、どんな気分ですか? 他人の人生を奪っておいて、その生活を謳歌する気持ちは! さぞ、最高な気分でしょうね。他人に成り代わって、新しい人生を生きていく。……あぁ、外道。これほどの悪行なんて、まるで悪魔みたいですね」
彼の顔が、侮蔑のものへと変わっていく。
期待を裏切られたかのように、その少女に失望していく。
友情にも似たつながりを感じていたのに。その実態は、他人の体を乗っ取っている嘘つきだなんて。
そんな言葉を口にしようとして、彼はやめた。
彼が持ち上げている少女が、うっすらと目開けていた。
その目は、未だに闘志が消えていなかった。
「ふ、ふふ―」
ぞくり、と恐怖のようなものが悪魔卿の背筋を走った。
そして、自分が。根本的に何かを勘違いしていることを悟る。
「……はは、バカいってんじゃ、ねーよ。体を返せるなら、とっくに返してるさ」
少女の口から、かすれた声がした。
「……でもな、起きないんだよ。この眠り姫は、何があっても起きようとしねぇ。まるで、目を覚ますのが嫌で、いつまでも心地よい夢を見ているみたいにな」
「それが、年頃の少女というものです。人間にとって目の前の現実は、あまりにも辛い」
「はは、違いねぇな」
少女が、笑った。
ナタリア・ヴィントレスが笑ったのだ。この絶望とも呼べる状況で。死期を悟った聖職者のように、全てを受け入れて、笑っている。
「……そういや、あんたの問いに答えてなかったな」
「はて? なんのことでしょうか?」
「なんだ、忘れちまったのか? 美術館のカフェで聞いてきたじゃないか。……死後に評価された画家について、どう思うかって?」
ナタリアが肩の力を抜きながら言うと。
悪魔卿のエドガーも、力を抜いて肩をすくめた。
「あぁ、そういえば聞きましたね。確か、貴女は『興味がない。私だったら、絵を描くことを辞めていた』と答えてましたね」
「ははっ、そうだっけ」
ナタリアは乾いた笑みを浮かべて、右手に持っていた銃を手放した。
カタンッ、と風情のない音が、二人の耳朶を打った。
「あれは、嘘だ」
「嘘?」
悪魔卿のエドガーが首をかしげる。
「あぁ。あれは本心じゃない。私は本当に芸術とか興味がないからさ。美術館に来ているインテリたちが鼻についてね。どうにも、あんな答えしかできなかったんだ」
でもな、とナタリアは続ける。
「……あんたと見た、あの『悪魔と画家の作品』。あれを見たときに、ちょっとだけ考えが変わった。死ぬまで絵を描き続けて、それでも誰にも評価されなかった画家たち。それなのに死んだ後で、天才だの、歴史に残る画家だと、勝手に持ち上げて。どうして、生きているうちに評価してやれなかった? どうして、彼らが必死にやってきたことを無意味だと決めつけたのか?」
けほけほっ、と少女が可愛らしく咳をする。
そして、少し迷うように瞳を泳がせた。
「でも、本当は違うんだと思う。本当に大切なのは、他人がどうこう言うことじゃない。……彼らが、どれだけ本気で生きてきたか。そのことに対して、自分自身が堂々と胸を張れるのか。たぶん、そんなことなんじゃないかな?」
「自己満足ですか? そんなもので、彼らの生きてきた意味を語ると?」
「語るさ。だって、いくら名声を得たとしても、幸せじゃなかったら意味がないだろう?」
最後に、ナタリアは。
自分が一番言いたかった言葉を、彼に紡ぐ。
「あの画家は幸せだっただろうよ。だって、彼のことを一番理解してくれる奴が、一番近くにいたんだからな。……あんたの友人は、幸せだったんだよ」
「っ!?」
ぐらり、と悪魔卿のエドガーがよろめく。
核心を突かれたかのように、顔を歪める。
……まさか。
……まさか、こんな少女に。こんな何も特別なものなんてない平凡な人間に。自分がずっと求めていた回答を、当ててもらえるなんて。
古き亡き友人である彼が。
絵が売れず貧しい生活を送って、最後には病で倒れてしまった彼が。
その最後に、笑っていた理由を。
唯一の友人だと言ってくれた彼の最後の想いを。
今、ようやく。
理解できた気がした。
「……まったく、生意気な人ですね。貴女は」
「……あんたこそ。悪魔のくせに人間臭いんだよ」
そして、悪魔卿のエドガー・ブラッド卿は、手に掴んでいた少女を放した。
どさっ、とわずかに土ぼこりが立つ。
なんとか地面に足をついて、ふらふらとよろめきながら。彼女は数歩ほど離れていく。
そして、二人は微笑みながら向かい合って。
少女は制服のスカートから『デリンジャー』を引き抜いて。
悪魔卿は全てを破壊しようと両手を広げる。
「では、終わりにしましょうか」
「同感だね。私も、もう疲れちゃった」
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿が、この首都にあるもの。その全てを握りつぶさんと、空間ごと圧縮を始める。
それは終演の合図だった。
周囲を取り囲む強大な力が、少女を押し潰さんとする。
もはや、彼女に生きる道は残されていない。
それでも。
そんな悪魔に向けて、少女が銃の引き金に指をかける。
「……」
「……」
最後に、二人が無言のまま視線を合わせて。
ナタリアが『デリンジャー』を撃つ、……その直前。
「ちょっーと、待ったーーーーーーーっ!」
予想もしていなかった人物たちが、この場に割って入ってきた。
蜂蜜色の髪の小さな女の子と。
どこにでもいそうな平凡な少年が。
銀髪の少女を庇うように立ちはだかる。少年に抱きかかえられたままの女の子が、悪魔に向かって手を伸ばし、破滅の言葉を紡ぐ。
まるで、世界を守らんとするかのような彼らの登場に。
どうしようもなく、彼女は笑みを零していた―