#10.Dance?(…あんたでは役者不足よ)
「がはっ、ごふっ!?」
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿が、黒い血のようなものを吐いて膝をつく。
その表情は、苦痛に満ちていた。
その表情は、驚愕に満ちていた。
そして、その表情は。歓喜に満ちていた。
「……は、はは。まさか、完全に視覚を奪っているというのに。そんなことも関係なく、ここまで戦えるなんて」
悪魔卿のエドガーは、口元の黒い血を拭うと。
何事もなかったように立ち上がる。カゲトラが叩き込んだ拳のダメージが、確かに蓄積されているはずなのに。悪魔は涼しい顔をして、彼のことを注意深く見た。
「少年よ。貴様を侮っていたことを認めよう。貴様は強者だ。その認識の過ちを、こうして痛みという代償をもって再認識した。貴様を侮辱したことを、ここに謝罪する」
悪魔は胸元に手を当てると、謝るように頭を下げた。
私は驚いて目を見開いていた。
これまで戦ってきた悪魔に、ここまで人間的な存在はいただろうか? 相手のことを認めて、謝罪するなどという、自己の否定にも繋がる行為を。これまでの悪魔に、一度だって見たことがない。
その事実に、逆に薄ら寒いものを感じた。
底知れぬ恐怖、といってもよいかもしれない。自分の過ちを認めて、認識を改めるなどと。そんな行為は、相手よりも強者であることが絶対条件だ。少なくとも、この悪魔卿は。カゲトラの本気を目の当たりにして、まだ自分の方が強いと思っている。いや、確信している。
「少し、質問をしてもいいかな? 少年よ。貴様は自分の力について、正しく認識しているのか?」
悪魔卿の問いかけに、カゲトラは拳を構えたまま答える。
その瞳には、何も映っていないのだろう。彼は固く閉じたまま、静かに口を開く。
「あぁん、何を言っているんだ? 能力だの、魔法だの。そんなものは、そいつを形作る土台でしかないだろうが。……こいつは俺が戦うための力だ。それで十分だ」
「ふふ、そうでしょうね。貴様の強さは、その信念の頑強さにある。その心が折れぬ限り、貴様はどこまでも強くなるだろう」
かすかに笑いながら、悪魔卿は続ける。
「それでも、蛮勇と呼ばざるを得ない! 貴様は、その強さゆえに。私とのの戦いから背を向けることができないのだから!」
悪魔卿のエドガーは目元の星の印に触れながら、じっくりとカゲトラを観察していく。
「さて、続きといきましょうか。しかし、その様子では聴覚を潰しても、両脚をへし折っても。貴様の剝き出しになっている牙が、私に食らいつくでしょう」
「御託はいいって言ってんだろう。俺は五秒しか待てねぇんだ。……こっちから行くぜ」
カゲトラは静かに闘志を燃やすと、再び地面を蹴り出した。
獣が駆けていく。
猛獣が疾走する。
目が見なくても。例え、耳を潰されても、脚を折られても。手負いの獅子は止まらない。獲物を狩り殺すまで、その牙で食らいつく。
「ふふ、いいでしょう。強者である貴様には、私が相手をするに相応しい」
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿が、歪んだ笑みを浮かべて。
禍々しい空気を放っていく。
今までの悪魔とは、まさしく格の違う存在感。
それでも、カゲトラ・ウォーナックルは―
「歯ぁ、食いしばりやがれ。……スレッジハンマー流、喧嘩術第四曲。『BURN』ッ!」
「来るといい、蛮勇の獣よ! 貴様の牙を、私に突き立ててみせろ!」
地面を蹴り。
カゲトラの体が、音速を超えて。
全身を空気摩擦によって燃えていく。
その拳、ひとつひとつが。悪魔を殺すための必殺であった。
空気を焦がして、魂を燃やす。
故に、カゲトラの牙に届かないものなどなかった―
「……見事。そう讃えましょう」
そう、思っていた。
数分後。
燃える獣となって襲い掛かるカゲトラの猛攻に、それを真正面から受け止めていた悪魔卿が。
彼の首を掴み。
すでに意識のないカゲトラを見下ろして。
悪魔は、静かに笑った。
「……少年よ、私の勝ちです。さすが私が強者と認めた男なだけある。その信念、見事でしたよ」
「うそ、でしょ」
私は言葉を失っていた。
カゲトラが攻めていたはずなのに。カゲトラが優勢だったはずなのに。目にも留まらない猛攻に、悪魔卿は何もできずにいたのを、しっかりと私は見ていたというのに。
……気がついたら、全身から血を噴き出しているカゲトラを掴んで。
悪魔卿の男が勝利を宣言していた。
「ふふ、その年齢で。これほどの猛者だとは。……まぁ、視覚や聴覚を潰したくらいでは止まらないことはわかっていたので。貴様が勝利する『可能性』とやらを、握り潰していただきました。貴様が勝てる未来なんて、初めから存在していなかった」
なにを、いって―。
「私の根源は『圧縮と拡張』。その対象は人や物だけじゃない。この世界を構成するありとあらゆるものを、握り潰して、引き延ばす」
一人の人間の未来など、ポップコーンのように脆いものですから。と、悪魔卿は嗤いながら、その手に掴んでいるカゲトラのことを見る。力を失った彼の指先から、ぽたっぽたっ、と血が垂れていた。
「それでは、名残惜しいですが。ここでお別れですね。さようなら、強者よ」
「や、だめ―」
「おや? それでは、今度は貴女が相手をしてくれるのですか? ふふっ、貴女のように美しい少女には、舞踏会でダンスを誘われてみたいですが。……死にますよ、貴女では」
ぞくっ、と背筋に寒気が走る。
本物の殺意だった。
反抗は許さない。
もし、私がカゲトラを助けようと、わずかでも指を動かそうとしたなら。その殺意の源を、死をもって知ることになる。私は、びくりっと体が怯えてしまい、動けなくなる。
「えぇ、そうです。見目麗しい銀髪の少女よ。貴女が舞うべき場所はここでなく―」
にやり、と悪魔卿が不気味な笑みを浮かべる。
……だが、その直後。
悪魔の顔が真剣なものとなった。何かを察したのか、自らの脅威に反応するそれは。まさに動物的な反応。
しかし、許されなかった。
悪魔は逃げることを、許されなかった。
唐突に。
凛とした女性の声が、静かに響いて―
「……ダンスの相手なら、私がしてやるわよ。……『断罪聖典』。第67節、『聖騎士の一振り(Whispering Hope)』」
カゲトラを掴んでいた悪魔の腕が、音もなく切り落されていた。
天から降り注いだ、光の剣が。
悪魔の腕を貫いて、その神々しい光をもって焼き尽くす。突然の奇襲に、慌てた顔になる悪魔卿のエドガー・ブラッド卿。すぐさま失った右腕を庇いながら、その場から身を引いた。
そんなに悪魔に向けて。
長い黒髪をなびかせた美女の先輩が、片手を振り下ろしていた。
「でも、残念ね。私は男の趣味に好みにうるさいの。金髪で、お金持ちで、王子様のようなイケメンじゃなと私と釣り合わないわ。……あんたでは役者不足よ」
「ミーシャ先輩っ!」
ノイシュタン学院の時計塔。『No.』に所属している、悪魔殺しの姫。ミーシャ・コルレオーネ先輩が、そこに立っていた―