#9.We Will Rock You (…俺には、負けられない理由があるんだよ)
「こいつか? ウチの大将が言っていた悪魔卿ってのは?」
「そうよ! さっさとぶっ飛ばしちゃいなさい!」
私は物陰に隠れながら、カゲトラに檄を飛ばす。
とりあえず、作戦成功だ。
私では、この悪魔を倒すことはできないだろう。可能なことといえば時間稼ぎくらいだ。だけど、時間稼ぎをしていれば、この美術館に来ている仲間たちに助けを呼べる。彼らが来てくれれば、この状況でもなんとかできるはずだ。
先に来たのは、カゲトラだったか。ミーシャ先輩も来ていると言っていたけど、この近くにはいないのか?
まぁ、いいか。この喧嘩バカさえいれば、相手がどんな奴だって負けることはない。
「というか、あんた。思いっきり殴り飛ばしちゃったけど。あの悪魔、まだ形が残っているの?」
「知らん。少なくとも手ごたえはあった。普通の悪魔なら、一撃で吹き飛んでいるかもしれないが。相手は、あの大将が気をつけろと言うほどの強敵だ。こんなもんじゃ倒せないだろう」
ボキボキ、と拳を鳴らして。
カゲトラは自分が殴り飛ばした悪魔の方を見る。
強烈な一撃を受けて、悪魔卿のエドガーは美術館の壁を突き破っていた。瓦礫が散乱して、舞い上がっている土埃の向こうには、大きな穴が開いている。
そして、その壁の大穴からー
「ふむ。少々、驚かされました」
悪魔卿のエドガー・ブラッド卿が、何事もなかったように姿を見せた。驚くことに、まったくの無傷だ。浅黒い肌の顔をわずかに歪めながら、黒の高級そうなスーツについた土埃を払っている。
「今の一撃。ただの拳ではありませんね。圧縮した空気の防御壁の上から、強引に殴り飛ばすなんて。……人間の枠から超えていますよ、少年?」
「……なるほど。こいつは、強い」
カゲトラが静かに呟く。
そのまま拳を構えて、軽く呼吸を整える。こいつが悪魔を相手に、手加減をしたところは見たことがないが。ここまで真剣な顔になるのも初めてだ。
「空気を固めて、俺の拳を防いだだと? そんなことはない。俺の拳は、確かにお前に当たっていたはずだぜ?」
「ご明察。あなたの攻撃は、確かに私に届いていた。だが、悲しいかな。その攻撃そのものが、私を倒すのに至っていない」
「……俺の拳は、そんなに軽くねぇぞ」
「えぇ。平凡な悪魔であれば、それこそ一撃必殺でしょう。実際、あなたはそうやって戦ってきた。……ですが、それも今日までです」
悪魔卿のエドガーが、両手を広げて。
周囲の空気が、少しずつ振動していく。
「圧縮された空気は、弾丸の威力さえ上回る。あなたに躱すことができますか?」
ふふっ、と冷たく笑い。
悪魔卿のエドガーが両手を振り下ろす。
聞こえてきたのは、ブィーンという不協和音。それと同時に、何か目には見えないものが高速で迫ってくる。
「ナタリア、隠れてろ!」
「へ?」
物陰から顔を出していた私の、すぐ傍を。
弾丸となった空気の塊が通過していった。冷や汗をかきながら、恐る恐る振り返ると。鉄筋コンクリートでできている壁に、綺麗な穴が貫通していた。
……げっ。こんなん当たったら、ハチの巣どころじゃ済まないぞ!?
「ひぃっ!? か、カゲトラ! あとは任せた!」
「ちっ、言われずとも」
カゲトラは真剣な目つきになって、敵である悪魔卿を睨む。そんな彼を見て、彼は不気味な笑みを浮かべている。
「善いですね。その表情。まさに悪魔に立ち向かう勇者のごとく。この場に画家がいたら、この瞬間を描かせたいくらいです」
「御託はいい。俺は、五秒しか待てないクチなんだよ。来ないなら、こっちから行くぜ」
カゲトラは拳を握ったまま、地面を強く蹴り出す。
まるで、獣のような疾走。
立ちこめる砂埃さえ、遠くに置き去りにしてしまうほど。カゲトラは一気に間合いを詰める。
「むふふ、度胸もいい。勇気もある。……ですが、それは実力を伴っていなかったら、ただの蛮勇ですよ」
悪魔卿のエドガーが、両手を広げて。
再び、空気の弾を放つ。
目には見えず、その速さは音速の如く。まさに絶対不可避な攻撃を前にして。
カゲトラは、一歩も引こうとはしなかった。
「……スレッジハンマー流、喧嘩術第三曲」
「むふっ、遅い。遅すぎますよ」
悪魔卿から放たれた空気の弾丸。
それらは、カゲトラの目の前に放たれて、……その全てを、紙一重で躱していた。
「むっ?」
悪魔卿のエドガーが戸惑いの声を上げる。
それから、幾重にも重なるほどの弾幕を放つ。
しかし、当たらない。
その直前に。
その刹那に。
カゲトラは一歩も引くことなく前へと突き進む。それはまるで、どこに攻撃が飛んでくるのか見えているかのように。
「(……そうか。カゲトラの先読みをする目だ)」
少し前に、アーサー会長に聞いたことがある。
カゲトラには、少し先の未来を見る能力があるのだと。いくら強靭な体躯を誇ろうとも、悪魔と対峙するとなれば命がけとなる。そんな状況でも、常に勝ち続けてきたのは。彼にまつわる能力に他あるまい。
「……歯ぁ、食いしばれ。悪魔卿さんよ。……喧嘩術第三曲。『Roll Over Beethoven』ッ!」
カゲトラが悪魔卿の懐に潜り込んで、至近距離から強烈な一撃を放つ。
ドゴンッ、と拳が悪魔をとらえて。
衝撃だけが、体の後ろへと貫通していく。
「むぐっ!?」
初めて、悪魔卿が嗚咽のようなものを漏らした。
そのまま追い打ちを叩き込もうと、カゲトラが拳を構えた。
が、その時だった。
態勢を崩していた悪魔卿が、ひゅんと背後に飛んで。地上から2、3メートルくらいの高さに着地した。固めた空気を足場にしているのか、屈した膝で体を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……驚きましたよ、少年。この私に、あれほどの一撃を浴びせるなんて。およそ、200年ぶりのことです」
口元をぬぐって、悦楽の笑みを滲ませる。
「何より驚かされたのは、その『眼』です。あなたには未来が見えているのですね? だから、私の見えない攻撃も当たらない。紙一重で回避していたのも、回避行動で無駄な動きをしないため。乱暴で粗野に見えて、その実は。盤上でチェスをするかのような緻密な戦術」
空中で立ち上がる悪魔卿。
そこから、カゲトラのことを見下ろしている。
「……ですので、少年には。こういった嗜好など如何でしょうか?」
ぱんっ、と悪魔卿のエドガーが両手で何かを握り潰す。
少し離れた場所で隠れている私には、何が起きたのかわからない。カゲトラも拳を構えたまま微動だにしていない。……いや、何かおかしい。先ほどまで直立不動であった奴が、ゆらりゆらりと不安定に揺れていた。まるで、足元がおぼつかない子供のように。
そんな彼を見て、悪魔卿は嗤う。
「むふふ、ようこそ。暗闇の世界へ。今この瞬間。少年の『視覚』を握り潰しました。信号が途絶えた脳は、その瞳に映した光景を認識することはできない」
「なっ!? そんなこと!?」
「できるのですよ、私は悪魔卿ですからね」
悪魔は嗤って、空気の地面から降りていく。
土の地面に立って、ゆっくりとカゲトラへと歩いていく。
「今の彼には、何も見えていない。ご自慢の未来を見る『眼』も、こうなってしまってはどうしようもない」
そして、悪魔卿は。
片手を上に掲げて、今度は球体の空気の塊を生み出していく。唸る空気の渦は、それだけで嵐のように吹き荒れている。
「それでは、楽しかったですよ。少年」
「カゲトラ、逃げて!」
私が悲鳴を上げる。
だが、カゲトラは逃げない。拳を構えたまま、まだ戦おうとしている。その目は、何も見えていないはずなのに。
「……さようなら、勇敢な少年」
悪魔卿は少し悲しそうな顔をして、その暴風雨の塊をカゲトラへと叩きつけた。
空気の壁が破裂して、辺りに砂塵が立ちこめる。
吹き飛ばされそうな風圧に、私も瓦礫にしがみついて難を凌ぐほどだった。
そして―
「勝手に終わりにしてるんじゃねーよ。スレッジハンマー流、喧嘩術第一曲。『We Will Rock You』ッッ!」
カゲトラは、地面を駆け出した。
まるで全てが見えているかのように、飛んでくる瓦礫や石材を搔い潜り、風の流れを縫うように躱して。カゲトラは前へと進む。その動きに、わずかな迷いもない。
……そういえば。
カゲトラの能力とは、本当に未来を見ることなのだろうか? あいつのこれまでの戦いで、一度として。未来を見ることができる、などと言ったことがあっただろうか。
「馬鹿なっ!?」
今度こそ、驚愕する悪魔卿。
そして、一瞬にして距離を詰めると。その胸倉を掴んで、目を閉じたままのカゲトラが、にやりと笑った。
「捕まえたぜ、もう逃がさねぇ」
「なぜ、私のことが見えている!? まさか、少年の能力は―」
その刹那。
カゲトラの数えきれないほどの拳が、悪魔卿のエドガー・ブラッド卿に叩き込まれていく。身を守ろうとした悪魔卿の防御壁を、幾重にも重ねられた圧縮した空気の壁を貫いて。数えきれないほどの拳で連撃でブチかましていた。
「……We Will Rock You (俺には、負けられない理由があるんだよ)」
拳を掲げて。
カゲトラ・ウォーナックルは静かに呟いた―