♯5. One Cup Cappuccino(カプチーノのお代わりを貰えますか?)
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その絵画を持ち込んだのは、異国風の男だった。
我が国が誇る国立ルーブル美術館。そこに展示されているものは、その全てが一級品で。誰もが賞賛を惜しまない芸術品ばかりだ。作者の知名度も、その価値も、他の美術館とは比較にならない。
にも拘わらず。その異国の男が持ってきた絵画は、作者が誰だかわからない絵だった。
話にならない。
この美術館に属する芸術は、誰もが心を震わせる芸術品で揃えられているのだ。どこの馬の骨が描いたかもわからない作品など、展示できるわけもない。そう言って門前払いをしようとする。だが、男は引き下がらない。
その男の持つ異様な雰囲気もあったかもしれない。試しに、この絵を見てほしい。と男は持ってきた絵画から保存用の布地をはぎ取る。
その絵を見る。
最初の印象は、違和感だった。
その次に感じたのは、どの画家の模写だろうか。ということ。有名画家であっても、未発表のものは少なくない。
そして、十年前の第二次世界大戦のせいで、様々な芸術品は甚大な被害を受けた。特に絵画は持ち運べることもあって、侵攻国の兵士による略奪が後を絶たなかった。これも、そんな盗品まがいの一品かもしれない。
結果、断ることにした。
どこの素人の作品だか知らないが、そんな絵を。この誇り高きルーブルに並べるわけにはいかない。
すると、男はポケットから手を出すと、こちらに大金を握らせてきた。どこでもいい。この絵を飾るなら、この10倍の金額を出そう。
男の目は、……怖くて見えなかった。
血のように真っ赤な瞳。異国を思わせる浅黒い肌に、目元に刻まれた星の印が、人間ではない何かを感じさせていた。
結局、多額の賄賂と引き換えに、その作者不明の絵画は。このルーブル美術館の誰も寄り付かない廊下の突き当りに飾られることになった。
それが、一年前の出来事だ。
その日から、異国風の男は。時々、姿を見せては、その絵を前にして物思いに更けるのであった。
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「死後に評価された芸術家について、どう思いますか?」
「う~ん。あまり興味がないかなぁ」
私は美術館のカフェで、優雅にカプチーノを口にしていた。
ホイップクリーム増し増しの、ラテアート付き。もちろんトッピング料金が取られるけど、この男が奢ってくれるというのだから、何の遠慮もいない。……なんだ、こいつ。良い奴じゃん。
「……フィンセント・ファン・ゴッホという画家がいましてね。彼は死後に大きな評価を得たことで有名な人物です。ですが、彼が生きている間には、たった一枚しか絵が売れなかったとか」
「あー、その話なら聞いたことがあるかも」
「しかも。その一枚というのが、家族である弟が買ったものだとか」
「うわー、キツイ。私だったら絵を描くのを辞めちゃうかも」
「えぇ、本当に。だが、彼は描き続けた。自身が求めた美を追求して。気が狂いそうになりながら、必死にもがいて」
そう言って、目の前の男は。
優雅な仕草でコーヒーを口に運ぶ。こういった上流階級のような所作は、あのアーサー会長に通じるものがあるなぁ。……この男が『人間』であったらだけど。
浅黒い肌に、お洒落な高級スーツ。
そして、目元に刻まれた星の印。それだけ見えれば、異国情緒のある貴族にも見えなくもない。この浮世離れしている雰囲気も、どこか特別な人間であるように感じる。
だが、一度。認識してしまえば。
この男が放っている空気は、間違いなく。人間のそれではなかった。
「ゴッホという画家は、自分の人生をどのようなものに感じていたのでしょうか。周囲から理解してもらえず、さぞかし後悔の残る人生であったことでしょう」
「いや、それはないんじゃない? だって、彼は最後まで絵を描き続けたわけでしょ。それは、きっと簡単なことじゃない。自分の人生を誰かのせいにするんじゃなくって、これが自分の生きる道だと、最後まで自分を貫いたってことじゃん」
そこに、たぶん後悔はない。
あるとすれば、その道を選ばなかったら、自分は自分でいられなかっただろう。そんな寂寥の想いくらいじゃないかな。
私は、カプチーノを口に運びながら思ったことをそのまま言った。すると、自らを悪魔卿と名乗る、エドガー・ブラッド卿は。少し驚いたような目で、こちらを見てきた。
「ほう、それは面白い意見ですね。……では、そのゴッホの作品が、死後に評価されたことについては?」
「別に。まぁ、良かったんじゃない?」
他人事のように、私は答える。
それでも、少しばかり胸を擦らせる気持ちが自然と言葉になって口から出る。
「……でも、どうして生きている内に、正しく評価してあげられなかったのかなって。それだけは思う。死後に、あなたは素晴らしい画家だ、なんて言われても。当の本人は知ることもできないのに」
そして、死んだ後に。その絵を褒め讃えて、それを高額で売買するなんて。あまり気持ちのいい話ではない。そう思うのは、私だけだろうか?
「彼の人生を侮辱している。そう感じませんか?」
「そこまでは言わないけど。私には、絵画の良し悪しはわからないし、時代によって人が求めるものは変わってくると思うから」
人間の世界はね、ゆっくりだけど変わっていくのよ。
そう言って、私はカプチーノのお代わりを勝手に注文する。カフェルームにいるバリスタが、わずかに頷いた。その光景を見て、悪魔の男は頬杖をつきながらため息をつく。どこか人間じみた態度であった。
「……普通。こちらの了解も得ずに、お代わりを注文しますか?」
「別にいいでしょ。どうせ、お金は持っているくせに」
ウェイターが運んできたカプチーノに、私は満面の笑みを浮かべる。それとは対照的に、悪魔を名乗る男はどこか渋面であった。ふむ、どうしてだろうか? 私のような少女にたかられて、嬉しくないはずがないだろうに。
料金を払ってもらうために待っているウェイター。そんな彼を見て、悪魔の男はわかりやすく肩を落とした。
「まったく。あまり現金は持ち歩かない主義なんですけどね」
そういって、悪魔の男は。
高級そうなスーツのポケットに手を入れると、紙くずのようなものを取り出す。なんだ? 財布を忘れたのか? そんなことを思っていると、男は指につまんだ紙くずを手の中に握った。
そして、二度、三度と手を振ると、その手をウェイターにむけて差し出す。
そこに握られていたのは、先ほどまではなかった数枚の紙幣。それも、新札と思われるように折り目のないピン札であった。
「ついでに、私のコーヒーのお代わりもお願いします」
料金を受け取ったウェイターは、恭しく礼をして、その場から去っていった。そこまで見て、私は感心したように言った。
「へぇ、今のなにそれ? 手品かなんか?」
「そんなものではありませんよ」
これは、ちょっとした特技みたいなものです。そう言って、悪魔の男は。私の飲みかけのカプチーノに手を伸ばした。そして、私の承諾を得ないまま、そのカップごと手に包むと。
……カプチーノは音もなく、男の手の中に飲み込まれていった。
いや、握りつぶされていた。
先ほどの紙くずと同じくらいに、小さく歪んでしまっている。まだ飲んでいたのに、と苦情の視線を向けると。彼はわずかに笑いながら、再び手のひらを握り返す。
すると、どうだろうか。
先ほど握りつぶされていたカップが、元の状態に戻っているではないか。カップの中のカプチーノも、まったく零れていない。
「おぉー、見事ね」
「ふふ、ありがとうございます。これが、私の特技。手の中にあるものを、握りつぶして、引き伸ばす。圧縮と拡張させる能力、とでも言いましょうか」
悪魔の男、エドガー・ブラッド卿は少しだけ楽しそうに説明をする。
その話を聞いて、私はわずかに疑問を感じた。
「え、手の中に入るものだけ? なんていうか、ちょっとショボくない?」
「ふふっ、そんなものですよ。悪魔卿の能力なんてね」
敵意を感じさせない笑みで、飄々と答える。
ウェイターが持ってきたコーヒーを受け取って、優雅な仕草で口に運ぶ。……なんだ。アーサー会長が脅かしていたけど、話せば通じる奴じゃん。ビビッて損したなぁ。
「あ、ちなみに。私の手は少しばかり大きいので、大抵のものは握り潰せますよ」
「へぇ、例えば?」
私は何も考えずに問うと、悪魔卿の男はくすりと笑った。
先ほどまでにはない、陰気で陰湿な笑みだった。
「そうですね。……この美術館をブチ壊すくらいは、簡単ですよ」
「へ?」
私が呆ける。
彼が微笑む。
優雅にコーヒーを飲んで、空になったカップをテーブルに置くと。何も持っていない右手を掲げて、ゆっくりと握っていく。
「それでは始めましょうか、戦争の続きを。私は人間が大嫌いでして、この美術館に来た人間を叩き潰したくて仕方ないのですよ」
でも、貴女との語らいは、とても有意義でしたよ。次は、もっと別の場所で会いたいものですね。……まぁ、生きていたらですけど。
そう言って、悪魔卿の男は。
何もない空間を右手で掴む。
そして、次の瞬間。
首都の顔とも呼べるルーブル美術館。そのカフェルームがある場所を中心に、美術館の一部を敷地ごと。
……何か見えない力によって握り潰されていた。




