#7. No detective in the case(この世には、名探偵がいなくてもいい事件もある)
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「ふんふんふ~ん」
私は上機嫌に鼻歌を歌いながら、女子寮の廊下を歩く。
うっかりスキップでもしてしまいそうなほど浮かれていたが、プロの諜報員たるもの。最後まで気を抜いてはならない。あの赤ワインのコルクを抜き、おしゃれなワイングラス、……はないので使い慣れたマグカップに注いで、その味を堪能するまで。絶対に気を抜いてはいけない。
……だが。
……ここまできてしまえば、もはや勝ったも同然だろう。かのオルランド共和国軍を指揮していたグラン大佐だって、敵の主力戦車部隊を追い返しただけで勝手に勝利宣言をしていたという。あれと同じだ。
私は、手に持ったヴァイオリンケースを愛おしそうに見つめる。
そして、小脇に抱えているのは売店の紙袋。
中には、たんまりと酒の肴で溢れかえっている。残念ながら、生ハムは手に入らなかったけど。チーズにサラミ、ソーセージ、薄切りにしてもらったバケット。いつもお金に困って節約生活をしてきた自分だけど、こんな時だけは自らの欲求に殉じることとしよう。
人生とは、幸福の追求に他らない。
ならば、私は最大の戦果を、最大限に楽しむ方法を取るべきだ。例え、今月のお小遣いがピンチになろうとも、売店のおばちゃんに不思議そうに見られようとも。
私は、この瞬間の。
幸福をかみしめ―
「あ、ナタリアちゃん。待ってたよ」
ほくほく顔の私に、どこか冷たい声が降りかかる。
女子寮の階段を上がって、自分の部屋へとたどり着く、その扉の前に。
……黒髪のミーシャ先輩が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
こんなところで先輩と会うなんて珍しい。
というか、初めてのことだった。友達のいない私にとって、ミーシャ先輩は数少ない話し相手だが、今はタイミングが悪い。
「……あはは、ミーシャ先輩。奇遇ですね。何かご用ですか?」
私は不吉なものを感じながら、彼女に応える。
手にしたヴァイオリンケースを、ぎゅっと握りしめながら。
「別に。さっきは大変だったわね。結局、例の赤ワインは見つからなかったし」
「そ、そうですね。きっと、あの悪魔が飲んじゃったんでしょう。まったく、酷い話ですよ」
あはは、と愛想笑いを浮かべながら、必死に頭を回す。
落ち着け。
こんなところでボロを出すわけにはいかない。まさか、あの赤ワインを盗んでいたのは自分でした、なんてことがバレたら―
「(……いや、そんなことはない。私の作戦は完璧だったはずだ)」
冷や汗が止まらない。
もう自分の部屋が目の前だというのに。こんなところで、しくじってたまるか。私は東側陣営のエリート諜報員(自称)だ。これくらいのピンチ、切り抜けてみせる!
「そうそう、ナタリアちゃん。お願いがあるんだけど?」
ミーシャ先輩は、その綺麗な黒髪をなびかせながら。
何でもないことのように言った。
「……そのヴァイオリンケースの中身、あいつに返してくれない?」
背筋が。
ぞくり、と冷たくなった。
「っ!? な、なんのことですか!?」
「ふーん、とぼけるんだ?」
「とぼけるも何も、言っている意味がよくわかりませんよ! このヴァイオリンケースの中に入っているのは、ヴァイオリンに決まっているじゃないですか!」
「いやいやいや。あなた、普段はもっと物騒なものを隠しているでしょう?」
んん~、何のことかな?
ひゅーひゅー、と吹けもしない口笛を吹いて、慌てて視線をそらす。
えぇ、そうですとも。
いつもなら、このヴァイオリンケースの中には、東側陣営で試作された最新式の消音狙撃銃『ヴィントレス』が入っている。これまで何体もの悪魔を、その銃で屠ってきた。その実力は折り紙付きで、東側の銃の粗悪性を知っている私でも、特別に信頼を置いている相棒だ。
だが、今だけは違う。
ミーシャ先輩から守るように、そのヴァイオリンケースを胸元に抱きしめる。
ちゃぽん、と何か液体が揺れる音がした。
「(……そうだよ。私たちが探し続けた赤ワインは、最初から私がヴァイオリンケースに入れて持ち歩いていたんですよ)」
あの時。
昼下がりの時計塔で、執務室にあった赤ワインの誘惑を振り切れなかった。そして、そのままヴァイオリンケースから銃を取り出すと、そのケースの中に隠しておいたのだ。
……え、相棒のヴィントレス?
そんなもの、時計塔の棚の隙間に放り込んであるけど? だから、カゲトラが部屋中を探そうとするのを阻止したわけだし。
「はぁ~、ナタリアちゃん。あなたも未成年でしょ? お酒に興味が湧くのはわかるけど、ダメなものはダメなのよ」
「い、嫌です! いくらミーシャ先輩でも、譲れないものだってあります!」
そうだ、ここまで来たのだ。
酒精の魅力を知らぬ学生諸君にはわかるまい。
あらゆるストレスから解放されて、あらゆる現実から逃避できる悦楽を。私みたいに真面目に生きている人間にこそ、この魔性の味が必要なんだ!
「はぁ。どうしても返さないつもり?」
「はい。そこを通してください」
もはや、交渉の余地はない。
ならば、戦うしかあるまいよ。私は赤ワインが入ったヴァイオリンケースを床に置くと、ゆっくりと戦闘態勢に入る。
「ナタリアちゃん。やめておきなって。痛い目を見る前に、大人しく返しなさい。ね?」
「お断りです。それに、ミーシャ先輩こそいいんですか? 私の本当の実力を知らないのに、そんな大口を叩いても」
そう、私は。東側陣営に所属する超スーパーエリート諜報員(妄想)だ。
ただの学生なんかに、遅れをとるわけがない。
「はぁぁ~、仕方ない。泣いちゃっても知らないからね」
「そのお言葉、そっくりお返しします!」
きゅえええい!
私は、正真正銘の本気で、彼女に飛び掛かっていった。
悠然と長い黒髪をなびかせている、ミーシャ先輩に向かっていき。
そして―
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「そういえば。最近、ナタリアちゃんを見ないね」
いつもの放課後。
時計塔の執務室で、アーサー会長が書類を片手に言った。
あの赤ワイン紛失事件から、数日が経っていた。
贈呈用として考えていたワインがなくなって、一番、気に病んでいたのが、アーサーの護衛の黒服、ペペだった。
彼は、自分がアーサー会長のデスクから移動させなければ、こんなことにはならなかった。そう考えて、必死に首都の酒屋を走り回っていたらしい。だが、目的のロマネ・コンティエは見つからず、代わりにノンアルコールの希少なシャンパンを自腹で買ってきたそうだ。
そんな意気消沈としている黒服のペペの前に、ミーシャが現れた。
いつものように長い黒髪の靡かせながら、彼女が手渡したのは。紛失したはずの赤ワインである。
――どこで、これを見つけたんですか!?
そう尋ねる黒服のペペに、ミーシャは面倒そうに返す。
――さぁ? おおかた、お酒に興味をもった子猫が悪戯をしたんじゃない?
ちょっとした戦闘でもあったのか、手には小さな傷ができている。これは攻撃されたときにできる傷じゃない。人を殴りまくった時にできる擦過傷だと、ペペは瞬時に理解した。
黒服のペペからアーサー会長に返された赤ワインは、無事に贈り物として贈呈できたとか。そのお祝いに、黒服のペペが買っていた希少なシャンパンを、『NO.』の仲間たちで酌み交わした。確かな幸せな時間が、そこにはあった。
ただし、そこにナタリアの姿はなかった。
あの日から、彼女の姿を見たものは誰もいない。
ただ、ひとつ。
違いがあるとすれば。
時計塔の屋上から、吊るされてる少女の姿であった。
「……ぐすん。ごめんなさい、もう許してください」
一方的な戦いだったのだろう。全身をボコボコに殴られていて、制服姿のままロープでぐるぐる巻きにされていた。
そして、他の生徒たちは気づかなかったが。
その少女の額には『成人になるまで、お酒に手を出しません』という哀しい念書が貼り付けられていたという―
『Chapter13:END』
~ The days of Romanee-Contie(ノイシュタン学院盗難事件。赤ワインは見ていた)~
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