♯1. Red wine(たまには、赤ワインを飲みたくなるもの)
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「会長? これは何ですかい?」
お昼休みの時計塔で、黒服の男がアーサー会長の声をかける。
この黒服の名前は、ペペ。
アーサー会長の護衛と書類仕事の手伝いをしている。粗野な外見とは裏腹に、細やかな気配りのできる人物だ。『時計塔』の中では珍しい常識人でもある。ちなみに、いつも着ている黒スーツの内ポケットには、愛用のハンドガンを隠している。
本名は、ペペロンチーノ。
もちろん。仕事上の偽名だ。
「あぁ、ペペ。これかい?」
アーサー会長は執務室に入ると。
同時に、ハンガーラックに学生服の上着をかける。そして、自分の執務机に置かれている、その高級木材の木箱を手に取った。
「少し前に、ストーカーの悪魔に悩まされていた生徒がいただろう? その親御さんからの、心ばかりのお礼さ」
「お礼って、会長」
ペペは、自分の赤い髪をぼりぼりと掻く。
その顔は、少し困惑したものだった。
「その木箱って、……ワインが入っているやつですよね?」
「おっ、よくわかったね」
アーサー会長はにこりと笑いながら、その丁寧にしつらえた木箱の蓋を開ける。
中に入っていたのは、一本の赤ワインだった。
梱包材である紙屑の中から、その立派なラベルが目に付く。学生でも名前くらいは聞いたことのある、有名な銘柄であった。
「悪魔から助けた生徒の親御さんが、どうやら有名なワイナリーの実業家らしくてね。是非とも、と押し付けられてしまったんだよ」
「押しつけられたって、会長は未成年なのに」
呆れ果てる黒服のペペに、アーサー会長は肩をすくめる。両親が隣の国にいる彼にとって、処分に一番困るものが酒類だった。
「まぁ、気持ちの問題なんだろうね。その女子生徒も、随分と悪魔に悩まされていたみたいだし。せっかくだから受け取ったんだけど。どうしたものかな?」
「どうしたものかなって、本当にどうするんですか。そんな高価なワインを」
黒服のペペが尋ねると、アーサー会長はあっさりと答える。
「まぁ、別に。ペペやナポリが飲んでしまっても構わないんだけどね」
「ご冗談を。俺たち兄弟は、そこまで舌が肥えていませんよ」
かかっ、と黒服のペペが笑う。
ナポリとは、ペペの兄貴だ。彼とは対照的に青い髪をしていて、建物の中でもサングラスを外さない。主な仕事は、アーサー会長の護衛と車の運転手。送迎用の車には、愛用のセミオートライフルを隠している。
「それに。俺も兄者も、あまりワインを飲みませんしね」
「そうだったね。まぁ、未成年しかいない学園内にあっても宝の持ち腐れだ。今度、『13人の悪魔を狩る者』の臨時顧問。ヴィルヘルム・ブラッド卿にでも献上してくるよ」
「あー、あの爺さん。酒にしか興味ないっすからね」
納得するようにペペが答えると、遠くから学園のチャイムが聞こえてくる。午後の授業が始まる予鈴だった。
「……しまった! 次の授業も出るんだった」
「授業って。会長は、もう卒業に必要な単位を全て取得しているんでしょう?」
「それとこれは話が別だよ。僕だって、普通の学生なんだ。興味のある授業くらいは出席するさ」
アーサー会長は慌ただしく、先ほどハンバーに掛けた制服の上着に袖を通す。まったく、落ち着く暇もないな。と、ペペは心配そうに主のことを見ていた。
「なんだったら、学生らしく。興味のない授業にも出てみたらどうです? 良い息抜きになりますよ」
「そんなことをしたら、ペペたちの書類仕事が増えることになるけど。それでもいいのかい?」
「かかっ、やっぱり遠慮しておきますわ」
それだけ言って、アーサー会長を見送る。
部屋に残されたペペは、準備運動をするように肩をぐるぐると回す。
「さて、俺も仕事をするかな」
そう言って、書類の束を抱えて部屋から出ていこうとした。
と、その時だった。
ワインの入った木箱に目がいった。
この執務室は日当たりがとても良い。いくら遮光のために木箱に入っているとはいえ、直射日光はワインの天敵だ。
しばらく考えたペペは、少しでも日が当たらない場所へと、ワインの入った木箱を移動させようと考える。メンバーがよく使っている、楕円形のガラステーブルだ。ここなら直射日光も遮れるし、誰も手を出さないだろう。そう確信して部屋を出ていく。
……この選択が、思いもよらない事件に繋がると知らずに。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「こんにちはー。……って、誰もいないの?」
昼下がりの時計塔。
学園では授業中であるにも関わらず。私、ナタリア・ヴィントレスはこの執務室に訪れていた。いつも通りの短い制服のスカートに、両手に持ったヴァイオリンケース。
理由は簡単。サボタージュだ。
次の授業が体育だとわかった時には、すでにサボる覚悟をしていた。それくらい、私は常識的な思考を持っているのだ。
「……そもそも、友達のいない私に向かって。二人組になって柔軟体操とか、イジメにもほどがあるでしょうに」
ぷんぷん、と怒りながら誰もいない執務室に入っていく。
都合が良いことに、今の私は普通の女子学生だ。
体育の授業を休んだところで、教師やクラスメイトは都合よく勘違いをしてくれるだろう。あとは『保健室に行っていた』とでも嘘をつけばいい。
「それにしても、アーサー会長はともかく。あの黒服兄弟たちもいないなんて。珍しいなぁ」
不用心にもほどがある、と言いかけて首を横に振る。
この執務室のある時計塔には、最新鋭のセキュリティーが敷かれている。普通の学生どころか、プロの窃盗団でも侵入はできないだろう。
「さて、何をするかなー。このまま昼寝をしてもいいけど、ミーシャ先輩の置いていったファッション雑誌を眺めるのも悪くは、……おや?」
そこまで考えて、私は見慣れないものがあることに気がついた。
高級木材の木箱だ。
それが、私たちがいつも使っている楕円形のガラステーブルに、無造作に置かれている。
アーサー会長の執務机にないところを考えると、これは自分たちが開けてもいいものなのか。中には、何が入っているのだろう? と、さほど興味が引かれることもなく、その丁寧にしつらえた木箱の蓋を開ける。
そして、そこに入っているものを見て。
私は、目を輝かせていた。
「……なん、……だと!?」
厳重に梱包された赤ワイン。
丁寧に貼られたラベルの銘柄を見て、さらに私は体を前のめりにさせた。
「……こ、これは。ロマネ・コンティエじゃないか!?」
思わず涎が垂れそうになるのを、慌てて制服の袖で拭う。
ロマネ・コンティエといえば、誰もが知っている高級ワインだ。昔、当時の同僚とBARで飲みに行った時、その深い味わいに舌を唸らせたものだ。いつも飲むにはちょっと高いけど、お祝いの時くらいは乾杯をする手頃な値段だったはず。これを最後に飲んだのは、いつだろうか。少なくとも、最近は酒類を一滴も飲めていない。
「……ごくり」
生唾を、飲んでしまう。
酒を友にしたことがある人間にはわかるだろう。空のワインボトルを枕にして寝たことがある人間にはわかるだろう。何か月も酒に手を出せないことが、どれほどの苦痛な日々なのか。
例えるなら、夏真っ盛りなのに炭酸飲料を飲ませてもらえないのに近い。周りの皆は、汗だくになりながら美味そうにコーラを飲んでいるのに。自分だけが水道水で我慢しなくてはいけない。そんな日々を耐えられるのか。
無理だ。
断言しよう。
人間には、娯楽が必要なのだ。
そして、今。目の前に鎮座している赤ワイン。まるで、自分に飲んでほしそうな顔をしているではないか。
……あぁ、飲みたい。久しぶりに酒悦を貪りたい。普段は学生寮で生活していることもあって、酒類の扱いは厳しい。本当に厳しいのだ。調理酒のビネガーですら、寮長の許可が必要なほど。もはや、この学園生活でワインが手に入れるなんて、今日をおいて他にあるまい。
「(……ちらっ、ちらっ)」
今、この部屋には誰もいない。
私は何の躊躇もなく、その木箱から赤ワインを取り出す。そして、にんまりと笑いながら勝利の余韻に浸る。
「(……むふふ、久しぶりの祝杯だ)」
濃厚なワインレッドのボトルに頬ずりをしながら、今晩について考える。……よしっ。後で、つまみにチーズを買ってこよう。こんがり焼いたバケットに、サラミも備え付けよう。生ハムも欲しいけど手に入るかな。あぁ、今から夜が楽しみだ!
私は上機嫌のまま、どうやって赤ワインを隠して、寮に持ち込もうか考えていた。
……事件は、この瞬間に起きたのだった。
今回は短編の予定です
頭を空っぽにして読めるような、そんな軽い感じでいこうと思っています(笑)




