うわさ まえ
視界がおぼろげだ。
見える景色すべてに白い靄がかかっている。
ここはリビングか?の場所を見ようとしても体が動かない。
無意識に視線が動く、いや、この感じは視線と言うよりは画像と言った方がいいのか?兎に角、視線の先にはベランダと小さな男の子が写っている。
男の子は笑いながらどこかに手を振っている。
おいおい、笑っている場合じゃないぞそこは危ない。
そう思うと同時にまた視線――場面が変わった。次の場面ではキョトンとた男の子の顔が見える。
どうやら間に合ったようだ。ほっとするのもつかの間また場面が変わる。
見えたのは空と建物。視線は動き続ける。地面が見えた。どんどん近づいて来る。
何だこれは、何故だ、心臓が早鐘を打つ、どうしよう、どうしようもない、ああそうか、これは……
そこで私は目を覚ました。どうやら碌でもない夢を見ていたようだ。
そう思いながら常世は眠っていたベッドから上半身を起こし、額に手を当てる。
だいぶ汗を掻いている、心臓も痛いくらい脈打ってる。気分は最悪だ。それに妙な違和感を感じる。
そこで常世はハッと何かに気付き、突然自身の寝ていたベッドを強く叩いた。
ベッドからボフッという音が聞こえ、常世は忌々し気に虚空を見つめた。
最悪の夢だ。頭が重い、これはしばらく碌に動けないな。なにより――
「何を見ている。許可した覚えはないぞ」
あの夢を見てから2日後、案の定私は碌に動くことも出来ず部屋にこもっていた。そして今朝、動ける程度に回復した私は、いつものようにマンションのラウンジに来ていた。
嗚呼、やはりここは良い。雰囲気は落ち着いているし紅茶も美味しい。良し決めた!今日はいつもの雑談はやめてここでゆっくり過ごすとしよう。
「あ!!常世ちゃんいたー」
あぁ、今一番会いたくない人物の声が聞こえた気がする。
……きっと気のせいだ、そうに違いない。だからちょっと身をかがめよう。
「何こそこそしてんのさ、と・こ・よ・ちゃ・ん!!」
くそ!やっぱり無駄だった。顔を上げると10代後半の少女がいた。学校の制服を着崩して着用し、髪も明るい色に染め化粧もしている。所謂ギャルと言われる風体のこの少女、名前は姫野花咲といい、この落ち着いた雰囲気のラウンジにはそぐわないが、れっきとしたこのマンションの住民だ。
「な……何かな花咲。ひ……久しぶりだね」
駄目だ、まだ本調子じゃないからか上手く誤魔化せない。
「いやーここ最近見なかったからさー、どーしてんのかなーって思って」
言いながら彼女は私を不躾に見つめる。止めてくれ復帰直後なんだ。普段ですら君のテンションに付いていくのがやっとなんだ。今日は死ぬ。間違いなく死ぬ。
「なにかあった?」
私の絶望的な予想に反して彼女は私を気遣うような優しい声で話しかけてきた。そうだった。彼女は勘が良いのだった。どうやら私の不調に気付いたようだ。だがここで弱みを見せるわけにはいかない。
――それは他人と深く関わることに繋がってしまう。
「いや、特に何も無いよ」
今度は上手く誤魔化せたと思う。人間必死なればどうにかなるものだ。
「ふーん、ま、いいや、それよりも――顔!それに髪!」
「それがどうかしたかい?」
「どうかしたかい?じゃないよ!髪はぼさぼさだし顔なんてお化粧もしてないじゃん。そんなんでよく外に出られるね」
「そんなにひどいかい?私はそうは感じないけど」
「常世ちゃんはむかつくことに元がいいから余計に目立つんだよ。ほら!背筋伸ばして!あーしが直してあげる」
彼女の剣幕に推され、私は言われるがまま背筋を伸ばす。
そんなに悪いことか?どうせ誰も気付かんだろう。あ、気付かれたか。
私がそんなことを思っている間に彼女はてきぱきと道具を取り出し私の髪を解き始める。
「いつも言うけど常世ちゃんは自分に興味が無さすぎる。そんなんじゃ駄目だよ」
いつものお小言が始まった。これは明らかに私の生き方に反する事態だ。何とかしないといけない!いけないが!!私には彼女に抗う術がない。ここは身を委ねているのが正解。それに悩ましいことではあるが、私はこの時間が心地よいとも感じてしまっているしな。嗚呼……
「本当に悩ましい」
「なにが?」
「なんでもない」
「ふーん」
そうやっていく内にこの心地よい時間が過ぎ去って行く。
「これで良し!どう?イイッしょ!」
そう言って彼女は手鏡を私に向ける。そこにはいつもより明るい雰囲気になった私が写っていた。ふむ、朝見た時よりもだいぶよくなっている。
「いつもながらに素晴らしい手際だな」
「これぐらい出来て当然だっての。いい加減常世ちゃんも覚えなよ」
「失礼な、私だって髪くらい梳かせる」
「化粧は?」
「い……一応道具は持っているぞ」
「ちゃんと使ってる」
「ま……前は」
「それって何時?それに今は?」
「……」
確実に、着実に詰めて来る。正直怖い。
「これであーしより年上ってんだからなー」
呆れたようにそう言う。別にいいじゃないか、現状困っていないし
「――常世ちゃんはさ、人と距離をおきたがるんだったら化粧で誤魔化す方法も知らないと」
そう言った彼女は寂しそうな顔をしている。本当に花咲は勘が良くて優しい娘だ。私の生き方に合わせて、利かせなくても良い気を使って、花咲自身が傷ついている。 だから逢いたくなかったんだ。私は自分の生き方を曲げられない。だからせめて――
「――ところで花咲」
「……何?常世ちゃん」
「私に話があるんじゃないかい?」
2022/3/3一部の修正を実施しました。