2-3 崖の洞
大岩の向こうに行けた。膝がガクガクする。流されなくてよかった。ほっとしたが、ゆっくりしていられない。大岩にかけていた縄を解き、袋に入れる。
「まだ怖いだろうけど、行こう。」
念のため、腰に結わえた縄をそのままにした。いくら信じていても、黙ったまま、後ろについて歩くのは心細い。
「この先、川より高いところに洞がある。そこで少し休もう。いいね。」
攀じ登るのは疲れるが、言わないでおこう。雨が止んで、流れが落ち着くまで休める。
風が弱くなってきた。よかった。朝には雨も止む。山から流れる大水は、昼過ぎまで続くだろう。夜になれば落ち着いて、先に進める。そんなことを考えながら、ズンズンと歩く。ツウは何も言わない。怖いだろうに。
声をかけようと思ったが、何をいえばいいのか、わからなかった。そうこうするうちに、洞の下につく。
「ツウ。ほら、あそこ。」
できるだけ明るい声を出して、指さした。
「あそこに、あるのね。」
「そうだよ。」
まだ風がでているが、何とかなるだろう。
「オレが登るのを、よく見て。同じようにすれば、登れるから。」
「わかった。縄はこのままでいいの。」
「うん。まずは洞に入ろう。それから解くよ。」
川に落ちれば、命を落とすだろう。結わえたままでも登れる長さだから、思い悩むことはない。
「滑りやすいから、気をつけて。」
一人なら、いい。でも、ツウを死なせるわけにはいかない。心して登る。洞の中に入ると、手を伸ばした。
「つかんで。」
しっかりと手をつかみ、ツウを引き上げた。洞の奥に、乾いた枝と、藁を隠してある。とはいえ、日がたっている。湿っているかもしれない。
「縄を解くよ。」
手がかじかんで、思うようにいかない。少しかかったが、解けた。オレのほうは、後でいい。クルクルと束ねて、垂らした。洞の奥へ行こう。暗いし、狭い。寒くても、雨は入ってこない。
「良かった。」
枝も、藁も湿っていない。これで火を起こせる。きっと、神様が守ってくださったんだ。
「ツウ、あっち向いてるから、着もの脱いで。濡れたままだと、あったまらないから。」
袋から鹿皮をだして、手渡した。
「これに包まって。ないより、いいから。」
「ありがとう。でも、コウは。」
「もう一枚あるから、いいよ。ほら、ね。」
見せると、さっと背を向けた。十になったばかりとはいえ、ツウは女だ。見られたくないだろう。
この洞は下からも、上からも見えない。爺様の爺様の、その爺様が昔、鳥が出入りするのを、向かいの山から見つけた。いくら探しても、なかなか見つけられず、諦めようとした。そんな時に見つけたそうだ。
洞に入るより、出るほうが危ない。だから、誰にも教えなかった。そんなある日、孫の一人が言った。
「耕すより、狩り人として、一人でも生きたい。」
幾日か経って、孫を見つけ出し、言った。
「同じ生き方を選んだ、一人にだけ教え、伝えろ。」
オレも爺様から教えてもらった。家の、誰も知らない。だから、後先考えずこのまま進むより、ここにいたほうがいい。
「どこに逃げるの。」
「山だよ。火吹きの山。」
「あの山、入れるの。」
「入れるよ。きのこ、木の実も生ってるし、小さな川にも魚が泳いでる。湖には、大きな魚が泳いでる。おいしいよ。」
辛い思いをしたツウに、少しでもいい。明るい顔をしてもらいたい。楽しいことを考えさせたい。村で感じた嫌なこと、忘れるくらい。逃げてよかった、そう思ってもらえれば、うれしい。
「獣も多い。出で湯だってある。気持ちがいいよ。」
ツウが笑った。
「狩り人は釜戸山って呼んでる。グツグツしながら煙を吐くから、釜戸山。」