2-2 逃避行
もうすぐ降る。風が強くなってきた。夜になれば、大降りだろう。逃げよう、こんな村。雨の中、そっと。家には兄がいる。弟もいる。姉は、みんな嫁いだ。妹は病で、コロリと死んだ。
田作りより、釣りのほうがいい。畠作りより、狩りのほうがいい。イノシシも、カノシシも狩った。爺様が教えてくれた。狩り人として生きるための、すべてを。
みんなが寝静まるのを待って、そっと家を出る。思った通り、大降りだ。早川のそばに、誰かいる。
「だれ。」
水嵩を増した早川は、特に危ない。近づかないほうがいい。
「あぶないよ。川から離れて。」
かなり村から離れている。とはいえ、大声は出したくない。
「あぶないよ。」
聞こえるように言ったつもりだが、聞こえなかったのか。動こうとしない。
「私。」
俯いたまま、大きな声で答えてくれた。
「誰。」
着ものは男物なのに、男の声じゃない。もしかすると。いや、そうなら。何だって、こんなところにいるんだ?
「ツウ。となりの。」
振り向いて、じっと目を見て、言った。
「私、帰らない。」
震えている。
「帰らない。じゃなきゃ、川に入る。」
やはり、そうか。村から出たことのない娘が、どこに逃げるというのか。飛び出たものの、行くあてなんてない。長がうるさいから、何人か探しに出たはず。見つからなかったのか。よかった。
「帰らなくていい。」
追手じゃないことを、どう伝えよう。あれこれ考えていると、ツウが問いかけた。
「何しに来たの。」
よくわからない、という顔をしている。
「村を出てきた。逃げてきたんだ。」
ぱっと明るい顔になった。
「連れてって。」
三鶴の長は、年の離れた、なにも知らない若い娘に、言えないようなことをして、ポイと捨てる。だから稲田の長は、自分の娘ではなく、ツウを選んだ。村の、弱い家の娘を。
となりの家の、誰も知らないだろう。それでも、あの三鶴の長だ。一度でわかる。見ればわかる。だからツウを逃がしたんだ。オレだって、ツウがそんな目にあうのは嫌だ。
「死ぬかもしれない。」
連れて逃げても、幸せにできる気がしない。苦しいことだって、いっぱいあるだろう。
「いい。三鶴に行くより、ずっと。」
「戻れない。それでもいいのか。」
「いい。」
川下へ歩きだす。ツウは黙ってついてくる。大雨と大風で、歩きにくい。ゆっくり行きたいが、追手が来るかもしれない。転ばないような早さで、急ぐ。
稲田の村は早川から離れている。草谷の村を通って、出て。下って、谷に出たところに、大岩がある。大岩をこえなければ、川上へ行けない。
晴れていれば、鳥の川を歩いて、こえられる。でも、大降りだ。しかも、山からゴウゴウと、水だけじゃなく、土や石なんかも運んでくる。
「コウ、行こう。」
考えてみれば、この大降りの中、大岩をこえて逃げたなんて、誰も思わないだろう。しかも、ツウは女だ。オレは八つ。
「行こう。」
まず、大岩にかけ、埋めておいた縄を探る。流されないように、深く掘って埋めたから、残っていた。持って出た袋の中から、強くて太い縄を出す。しっかりと腰に結わえ付け、言った。
「ツウ、これを腰に結わえる。いいね。」
強めに結わえてから、埋めておいた縄を掘り出す。切れないように、ゆっくりと。腰の高さまで引き上げると、強く縛りなおした。
「行くよ。この縄をしっかり持って。」
「わかった。」
呻る川に足を踏み入れ、ひと足、ひと足、確かめるように進む。怖い。
「ツウ、もう少し。もう少し。」
「うん。うん。」