『ラナ』
まずはリクエスト頂いたミスティに仕える使用人ラナのお話となります。
時系列は『白の平民魔法使い』本編第一部「26.長い一日の終わり」の後ととなっております。
「おはようございます」
いつもの朝、いつもの時間に彼女の目が覚める。
朝の挨拶は誰に向けてのものでもない。強いて言えば自身とカーテン越しの朝日に向けてだろうか。
決して無意味な行為ではない。人間にはスイッチがある。彼女のスイッチは起きてすぐの挨拶というわけだ。
ここから彼女はただの平民ラナではなく、四大貴族カエシウス家次女ミスティ・トランス・カエシウス付きの使用人のラナとして活動し始める。
「今日もいい天気ですね」
起きてすぐにラナはカーテンを開け、窓を開けた。
まだ空は薄暗いが、朝日が顔を出している。
窓とは外と家の中とを隔てる境界。開けて初めて、家の中にも朝という時間は訪れる。
そのままラナは深呼吸。
入り込んできた朝の澄んだ空気で、眠気の残る自分の体を覚ます。
ラナは数度深呼吸すると、次にベッドの横に置いてある水の張った器にタオルを入れた。
水を吸ったタオルを出来る限りしぼると、そのまま顔を拭いて洗う。
「ふう……まだ冷たいですね」
春先とはいえ夜は冷える。一晩置かれていた水もそれ相応の冷たさになっていた。
しかし、そんな冷たさも彼女にとっては大した事はない。
彼女の出身は魔法大国マナリルの北部の都市スノラ。
秋になれば雪が降り始め、春になっても雪が残り続けるマナリルの中でも寒い土地だ。
朝の水の冷たさは勿論、気温すらこことは比にならない。
「さて」
寝間着の前を開き、寝間着を脱ぐように腕を動かすと、しゅる、っと服が肌を撫でる音を立てて寝間着がラナから滑り落ちる。
そのままラナはクローゼットを開き、黒いワンピースを手に取った。
呼吸をするかのように手慣れた手つきで背中のファスナーを上げ、襟のホックを閉じる。袖口のボタンを閉じると、次にエプロンを手に取った。
控えめなフリルを少しばかりはためかせて袖を通す。念を入れて前の部分を手ではたくと、最後に腰の辺りから背中に向かって伸びるリボンを後ろで結んだ。
リボンはきゅっ、と気持ちのいい結ぶ音をさせるとカチューシャタイプのヘッドドレスを頭に着ける。最後に襟元を飾るリボンを選んで結べば準備完了。
黒いワンピースと白いエプロンの融合したメイド服。これこそが誠心誠意主人に仕える為のラナの戦闘服である。
用意が終わるとラナは自分の部屋を出て、リビングとは逆の方向へ。
廊下の奥。主人の部屋の扉をいつものように静かに開けた。
「……まぁ」
部屋を開けた先、ベッドの上で静かに眠るのはラナの主人であるミスティ・トランス・カエシウス。
ラナの目には主人の眠る姿は朝日よりも眩しく見えている。
しかし、今日は普段とは違う点が一つある。
その隣で一緒に眠っているのは、昨日連れてきた学院の友人エルミラ・ロードピス。
昨日友人関係に悩んで泣きじゃくっていた可愛い可愛い主人の友人だ。
二人とも静かな寝息を立てているようでラナは安堵する。
ラナがこうして毎朝早い時間に部屋を覗いているのは決して趣味ではない。……趣味ではない。
五歳の頃からミスティに仕えているラナは知っているのだ。自分の主人がミスティが十歳の頃から時折悪夢を見る時がある事を。
だからこそこうして毎朝、悪夢に苛まれてベッドが乱れていないかを確認をしているのだ。
悪夢に苛まれた後がベッドにあるようであれば、朝は決まってミルクティーを淹れる。
それがほんの少しだけ、自分の主人の癒しになるのだ。
「……もう少しだけ、おやすみして大丈夫ですよ」
自然と微笑みながらラナは扉を静かに閉じる。
友人といた影響もあるだろうか、健やかな寝顔に可愛らしい小さな寝息だった。
改めて、朝の準備をすべくラナはリビングのほうへと向かった。
今日そこにはもう一人……顔を合わせなければいけない人物がいる。
「……」
リビングへの扉を開けると、その人物はすでに起きていた。
いや、起きているのだろうか?
(カーテンも開けずに何をやっているのでしょう……?)
昇り始めている朝日の光がカーテンに遮られるリビング。中央に置かれているソファの上が彼の今夜の寝床だった。
すでに寝床の役目は終えているようで、毛布は横に綺麗に畳まれている。
その毛布を使っていたはずの人物は今目を瞑りながらソファに座っている。扉を開けた音にも気付いていないのか反応が無い。
その人物は昨日ミスティが連れてきたもう一人の友人。名はアルム。
ベラルタ魔法学院に通いながら、あるべき家名の無い少年だった。
魔法使い。
それは魔法を駆使して戦い、守り、救う超越者。
魔法使いの世界は才能が物をいい、今では魔法使いの才を持つのは貴族しかいない。
それはラナも知っている常識だ。しかし、この少年は平民にも関わらずベラルタ魔法学院に入学したのだという。昨夜聞かされた時はラナも驚いてしまっていた。
「……おはようございます」
ラナが挨拶すると、ソファに座っているアルムの目が開く。
アルムは扉の方に立つラナを見つけると、小さく会釈した。
「おはようございます」
普段なら、主人に近付く同年代の男子に睨みをきかせているラナなのだが……昨日見せたアルムの姿勢にラナは引き下がった。
周りからは謙虚や自身を卑下していると思われているその姿勢に。
「何をなさっていたのですか?」
「……子供の頃よくやらされていた事を少し。やり続けると魔力が上がると言われて嬉々としてやっていた事を思い出してしまって」
ただ目を瞑っていただけに見えたのは魔法使いになる為の訓練という事だろうか。
しかし、アルムの口ぶりからすると最近はやっていない事のようだ。
「今はやられていないのですか?」
「もう魔力が増えすぎてあまり意味が無いと数年前に……なので、今やっていたのもあまり意味が無いのかもしれません」
「どういう訓練なのです?」
礼儀としてただ挨拶をしに来ただけなのだが、ついラナは聞いてしまった。
使用人として主人の友人をしっかり接待しなければという使命感だろうか。
違う。使命感でこんな事を聞くはずが無い。
平民で魔法使いを夢見る者は何もアルムだけではない。幼い頃には人々を守るその姿に憧れる平民の子供達もいるにはいる。
しかし、子供の頃にその夢はすぐ潰えるのだ。
才能も無ければ、魔法を使うための努力の仕方もわからず、前提である魔力という不可視の燃料を感じ取ることすら出来ない。
ここまで揃えば子供でもすぐになれない事を悟る。空にある星を掴むが如き不可能である事を。
「瞑想? っていうらしいんですけど……とにかく集中して、自分や周囲の魔力の流れと量を意識するんだとか。それで取り込める魔力の量が格段に増えると。昔は何時間もこれをやってました」
「それは……大変ですね」
「慣れるまではちょっときつかったです。けど、魔法使いになる為には……何でもするつもりだったので」
それを、アルムという少年は手を伸ばし続けたのだろう。そこに身分と才能の障害があると知っていながらもずっと、伸ばし続けたのだろう。
そうだ。この少年は決して謙虚でも無ければ自分を卑下しているわけでもない。
彼はただ、自分が平民である事、そして周囲の人間が貴族である事をよく知っているというだけ。
魔法学院に入れたからといって自分が他の平民と違うと驕ることなく、ましてや貴族と同じ立場になったとも思ってもいない。
平民という立場は変わらないまま、彼は突き進んでいる。憧れを抱き続けながらも、嫌というほどに現実を理解している。そんな少年なのだ。
そんな無謀な場所に手を伸ばす事以外の事に関しては、アルムは平民という領分をしっかり守っているのだと、同じ平民であるラナは一早く気付いていた。
「生まれた時から……町から見える山に大きな城が建っていた
のです」
「え?」
だからだろうか、ラナが一つ自分の話をしたくなったのは。
今だけ、カエシウス家の使用人から平民ラナとしてアルムと対話し始める。
「とても綺麗で大きなお城でした。私はずっとずっと……子供の頃から憧れていたのです。いつかあそこに絶対行ってやると子供の頃から息巻いていました。作法の勉強をひたすらにやって、姿勢や動きを日常で意識しながらずっとそこを目指していました」
「それは……大変だったでしょうね」
「ええ、ですけど……そこに行くまでは何でもするつもりでしたから」
今さっき交わした会話が、立場を変えて行われる。
二人は口元で笑っていて、お互いにわざとそんな言い回しをしているのは明白だった。
「ですが、その綺麗で大きな城に着いた時……もっと大切なものを見つけました。それは城なんかより小さく、それどころか私よりも小さかったけれど……私にとって何よりも大切で、その方の成長が今の私の夢になったのです」
ラナは目を閉じて、思い出を噛みしめるように胸の前で手をぎゅっと握る。
何の話か。アルムにとっては言うまでもない。
「あなたにもそんな、憧れを越えるような素敵な夢が見つかるかもしれませんね?」
「……ありがとうございます」
それはラナ自身の経験からアルムへのこの上ない未来への激励。
アルムはそんな言葉を貰える事にただ感謝して深々と頭を下げた。
「おっと、この話はどうかご内密に。改まって本人に話すような事ではありませんから」
「はい、内緒という事で」
「ええ……それでは失礼します。また後程」
そんな平民同士の秘密の会話を終えると、使用人としての仕事を果たすべくキッチンへと向かっていった。
「何故あんな話を……?」
えも言われぬ衝動にラナは首を傾げる。
昨日はくそがきとまで言い掛けた少年に、自分は何故こんな話をしてしまったのだろう。
ああ、でも……言わずにはいられなかった。
彼はこれから先、いや、もしかしたら今までも言われていたかもしれない。
無理。不可能。才能が無い。出来ない。無駄な努力。なれない。諦めろ。
そんな常識から語られる悪意と善意が入り混じった言葉の石をきっと、ずっと投げられる。
だからほら、ここに一人くらい……手を伸ばした先にある喜びを語る人間が一人いてもいいじゃないかと。
ただ、そう思っただけなのだ。
「さて、お仕事ですね。三人分……気合を入れなくては」
自分をただの平民からカエシウス家の使用人にきっちりと切り替える。
気のせいか……ほんの少しだけ、気持ちも体を軽くなっているような気がした。
走り続ける誰かにエールを送れたような。そんな当たり前の事が出来た自分が嬉しくて。
彼女は今日も、自分の主人を支える仕事を果たしていく。
読んで頂きありがとうございました。
これからも短編を順次追加していきますので、ブックマークなどよろしくお願いします。