2那助
陽も傾き、蔭が少し長くなり始めた頃、那助が小屋にかえって来た。
腰につるした魚篭には、大きな山女魚が三匹、おそらく今日のメインだろう。
ようやく一太と打ち解けはじめた那助は、少しずつこの里のことを、語り始めた。
“先先代の頃から、もう守りになるものも少なくてな、
わしらが来たときには、半分寂れた里になっておった。
まぁそれでもお名取のある神職で、おかぜ様にお仕えする
ご利益もありで、、、しかしてな、この所女将もすぐれず、われらも見放されたかと思うこと多しというところに、ほんにお九市太様が直においでいただけるとは、まさに思いもせんかった。”
囲炉裏の火で、山女魚を焼きながら、那助は薪をくべる。
ぱらっと火の粉が上がり、ほんの少し頬に熱みが走る。
炎の向こうでは、女将は煎じ薬を飲み安らいでいて、
一太のあぶり餅で、随分と気色が良くなった、
おそらく一時的な栄養不足だったのだろう。
安堵する一太に、焼きあがった山女魚を手渡しながら、
那助は祈るように、天を仰ぐ。
“もし、かつてのよう、おかぜ様にご神幸が戻るなら、
このお里も変わるはずなんじゃが。“
社守の独白に、その思いが滲んでいる。
一太は食べていた山女魚から、那助に視線を移すと
、那助は身を正してこちらに向き直る、
“お九市太様、なにとぞ、あなた様のお力を頂けまいか。”
小屋の壁に、囲炉裏の光が揺れ、薪のはぜる音だけが
木霊する。
“ふうっ“一太は大きく息を吐き出すと
“明日、私にこの里を見せていただけますか?”
今、一太の本当の帰還は、この状況を変えてからでも遅くないと考えていた。それほど迄に那助の思いは響く。
ごく平凡な印刷会社社員の自分に、何ができるかわからないが、少なくとも目の前の助けを求める人達に、応えたい。
そう決意した夜になった
翌朝、一太は那助に連れられて、里を見て回ることにした。
ざっと見て、70数世帯、人口は250人前後、
里のほとんどが農民であるが、何軒かの商家もある。
それらが里の庄司となる家頭に統率されており、その依頼を
受けて、社守、衛職、勘請などがおかれているようだ。
これらがこの里の基本経営資源であり、主要な産業は、
お世辞にも生産効率の良いとは言えない農業だ。
この状況、里経済の伸長など、この時代の天候や
不安定な収穫率、未成熟な市場構造では、継続的な経済成長
もしくは計画的な産業も伸ばし様がないというのは理解できた。
このような里が周辺に散在しており、その中の一つが
風の社があるこの里と言うことであった。
ちなみに一太は経済学部卒であるので、基本的な経済知識は持ち合わせている。
那助の話では、子供の頃から何度か収穫不足、つまり飢饉に遭遇しているらしく、里でも人も餓死者が出たり、他所に落里者が出たりと大変な状況もあったらしい。
農家であった実家は長男が継ぎ、二男である那助は、本来 他の地頭の小作農か、手職を持つしかないが、那助の場合、子供の頃から社の作務の手伝いなどしていたことから、ある社守の見習いにつく事が出来て、それが今に至る基らしい。
小屋に戻った2人、一太は那助にまず尋ねた。
“この社は、風のお社、疫病や厄事を吹き払ってくれる
ご利益であるが、里の皆は、今どのような信仰をされているんですか?“
那助は“はい、もともとは須佐の大神さまで、厄のご神役があったのでございまする。
里に疫病が大変はやりましてな、そこでそれを鎮める御令和の祭礼を執り行った所、早期に治まったのを感謝し
て、かの地にお祀りしたのがこのお社でございます。
九志汰さまはご祭神にて、令和のご利益いただけたものと、
代々聞いております。”
“我らはこのご由緒にちなみまして、お令和として、年に一度祭礼を執り祀っておりまする。
しかしてそのご祭事も、長く受け継がれるうちに、いや里自体年をついで行くに連れて、いつの間にか今日のように廃れ申したのでございます”
“那助さんは今後、里がどのようになればよろしいかと
思われますか?”
“はい、かつてのように信仰を深め、里の心が集まれば
常の生業に“張り”が生まれます。
“張り”は皆の生業に、それなりの功をもたらします故、
それにより皆の幸が増えまする。
私は社守として、何かできまいかと日々逡巡しておるので
ございますが、、“
なるほどと、一太は頷いた。
これはまさしくモチベーション効果である。
人々に動機付けを行い、それにより成果を生み出すための 手法だ。
皆がやる気を起こすことにより、この里が成長をすること
その為に必要な機会点を、この社で作り出す。
その監修を、社守の那助として行いたいという事なのだ。
一太は再度現状を振り返ってみる。
里の人口は250人の70世帯
一人あたりの年間生産額を1とすると、
年間生産額=1×250=250となる。
モチベーション効果@として、
増加した年間生産額は単純に
@年間生産額=1×250×@=@250となるが、
ことはそう単純な話ではない。
なぜなら、人はそう簡単に生産を上げられないし、
仕組みなしに、上げた生産を維持することはできないからだ。
高生産を維持する循環施策と、生産そのものの規模を拡大するための方法が必要だ。
一太の持つ専門知識としては、基本的な印刷技術しかないが、
これを活用して、この社とこの里が息を吹き返す。
新たな決意と共に、作戦が具体化しつつあった。