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幸風に吹かれて  作者: 村崎野 賀茂
1/22

1風の社

とうとう出来上がりは明日になった。

今日、できるはずだったオフセットの原版に、わずかながら

直しが見つかったからだ。

おかげで、半日はやる仕事がなくなってしまい、こんなところで

時間をつぶすはめになっている。

いい天気ではあるが、柔く風が通り抜けていく、そんななぜか

こころもとない、午後になりたてのある日。


上がり時間までに、どう過ごすかが問題ではあったが、

幸いなことに、ここは一太お気に入りの休憩室。

久しぶりに、わずかな余暇をこの場所で落ち着くことに決めた。


この社は、古く1000年以上の歴史のある街の一角にあるが、

とりわけ静かな時間が過ごせるのがいい。

樹齢を重ねた樹々を抜けてくる柔らかな木漏れ日と、青い葉の

ざわめきが、さらさらと心を洗い流してくれるようだ。

不思議なことに、一年中、ここは風が吹いている。

誰が言うともなく、風の社 そういう呼ばれ方をされるようになっていた。

風の社の入り口は、朱い唐づくりの門から始まり、幾年月の樹齢を

重ねた神木をたたえた、ゆったりとした境内、そしてその1000年の歴史を感じさせる壮大な本殿からなる。

その門前には、一那と風や二軒の茶店が並び、一太の好物でもあるあぶり餅が、芳しい空気を漂わせている。


二軒はともに古くからの菓子舗でありつつも、自らの新しい道のりの往路にして、独自の華を咲かしているようだった。

本日の一太は、風やを選んだ。

一那と風やでは、一那の方が歴史があり、風やはすこし新しいと聞いた、それは余り気にならず、むしろ味の展開に少々差があるように一太は思う。

風やは味噌の風味が強く、元気をだしたい時に好んで食べる味、

逆に落ち着きたい時や、リラックスしているときは、やさしい

味の一那になる。

お持ち帰り用の3人前を持ち、お気に入りの、境内一番の神木の下に落ち着き、ふうっと一息ついたところで、今日も一太の大好きなくつろぎの時間となるはずだった。


包みをひろげ、最初に立ち上る芳ばしさに期待が増す。

印刷会社に勤める一太ではあるが、その営業社員である一太にとって、ここ最近はかなり厳しい状況ばかりである。

ネットソリューションの拡大により紙媒体は減少し、自社の

管轄するクライアントにも遡及、取引量全体を押し下げていた。

そんな中、やっと入った大型案件が、原版の修正という

トラブルを起こしさえしなければ、きっと今頃は安堵していられた筈であった。

ここはひとつ、もうひと踏ん張り、元気をつけるぞ。

と気合を入れて、一度に3つの串を、あんぐと頬張る。

押し寄せる、みその風味と、鼻に抜ける芳ばしさ

そうそう、これこれ、これだよね、、これ

喜びの薄目になりながら、しっかりと幾重も味わおうと、咀嚼するすると、今までのストレスも幾らか薄らいでいく気がする。


手に持つ包みの、1/3ほどを一気に平らげると、お茶で一服。

少しだけ傾いた日の日差しが、頬にゆれて揺れて、優しく心地よい。

境内の中でも、この神木の周りは、包むように風が流れており、

その中でたたずむ感覚は、胎児の感覚に近いものがある。

幸福な時間をすごしながら、蔭裏から見える木漏れ陽のおだやかなゆりかごに、うつらうつらと乗り移ったその瞬間、突然一陣の旋風が駆け抜けた。


ぶおううう、ぶおおおおうううっっ

とっさに両の手でガードする。

風鳴りが過ぎ去り、あたりはまだ砂埃が舞い上がる。

危機管理能力は比較的悪くないと思う一太だが、瞬時に手元の包みはしっかりと守りきった。

まだ、半分は残っているし、惜しいという気持ちから即行動に移しただけかもしれないが、とりあえずはなかなか良い反応だ。と、

すこし埃っぽくなった顔をぬぐいつつ、あたりを見回すと、

ほんの少し日差しが強くなった気がする。

“なんだったんだ、今のは、、“

大きめの独り言をつぶやきながら、そろそろ戻る心づもりになり、

えいやっと立ち上がると、少し心のこりもありながら

帰路に向かう。

とてらとてらと歩いていると、

まず最初に、境内が広くなったことに気づく。

ここに来た時より、地面にたくさんの陽が届いているのか、周囲

が明るく照り返してきている感じがする。

さっきの風が雲を飛ばしたのか?

確かに空は広くなっている。

そんな事を想いながら、独り門前に向かって進むと、

今まで感じていた違和感が、徐々に実体感として変わっていく

のがよくわかった。

“えっ、ない、なに!これ!何もないやん!”

門下に立ちつくしてしまった一太の前には、見渡す限り草原が広がっている光景がある。

本来ここから見えるのは、まず老舗の二軒そして、近隣の住宅、そして、見慣れた普通の光景であるはずだ。

それが、何一つない。草しかない、、、

“ええ~っ”

ときょろきょろと見回すが、案の上、草の匂いしかしない。

理解しようとしても、何一つ追いつかず、当然どうすれば

よいかなんて、まったくわからない。

少しずつ前に進みながら、その実体感を繰り返すだけ。


まどいつつも一太が

しばらく歩いていくと、草むらになにやら、小屋らしきものが見えてきた。

ゆっくりと近づくにつれ、それが住居だとはっきり認識できるようになり、と同時に中に人の気配もしている。

煮炊きか何かをしているのであろう、そこからうっすらと紫色の煙を周囲に垂らしている。

 この不測の状況において、どうするのか決めあぐねていた。

まずは、ここが一体どうなっているのかを確かめねばならない。

というか、それしかこの状況を理解する方法がない。

目の前にある小屋には、何者かが居り、その者にこの状況を聞くのが一番早いがどう考えても危ない。

もしかの者が、危害のある者であった場合、自らを窮地に立たせることになるし、そうでなくとも不審者確実であろう。

賭け運はそれほど強くないことは、十分に承知しながらも、

一太は前に進むことを選択した。



“あの~、すみません、どなたかいらっしゃいますか?”

薄暗くて、よく見えない中に尋ねてみる。

遠目に囲炉裏の元火が、小さく揺れている。

もう一度、言いかけた時、炎の向こうから人影が動くのが見えた。

一太は硬直して動けない、しかしその影は躊躇することなく近づいて来た。

あと数歩で手が届くまでの距離となって、一人の男だという事が、一太にも判る。

“何ものじゃ、ぬしは”

突如声をかけられてはっと固まる。

目の前には、粗末な衣服を纏った男が立っていた。

声も出せず、一太が眼を上下させていると、

“いやだからの、ぬしは何なのじゃ”

再度、誰何され、慌てて応える。

“すみません、今そこの社から来たのですが、少し迷ったようで

ここはどこなのでしょうか、お伺いして良ろしいでしょうか?“

そう云うと、男は少し訝しみながら、

“お社さまからだと、わしは那助と申す。この里では

わしが、お社さまの守りであるが、ぬしのようなものは見たことはこれまでに一度もないぞ。改めて問う、ぬしは何者じゃ?”

“あー、私は櫛田一太と申します。どうやら社のあたりで迷ったようで、すこし困ってるんですよ。“

“何、九市太さまのご縁者と、それはまことの事か!”

那助という男はたいそうに驚き、だが嬉しそうな表情を浮かべ、

身を寄せてくるが、

だが一太にはなぜそうなるのか、思い当たるふしがない。

“なんということじゃ、これぞ吉兆な、お越しいただくとは、

有難し、まことに有難しことじゃ。“

どうやら祀っている御祭神に近いのがいるらしい。

“そうじゃ願わくば、わが室看賜たれんか?“

那助という男に強く手を引かれ、一太は奥に導かれていく。

何のことかはさっぱりわからず、とりあえずは小屋の奥へ進む。



中に入ると、住居らしく、寝台や囲炉裏がある。

ようやく暗さに慣れてきた目に、寝台の一つに横伏せる

一人のご婦人が見てとれた。

“わが室だが、この数年来、月に一度は伏せる事多てな、心もの苦しく、我にて代われならば、さもあればさりとて、、、“

どうやら女将さんの調子が良くないようなんだな、状況から一太はそう判断するが、詳しく診ろなどは、医者でもないのに、どのように対処すればよいのかなどわかろうはずもない。

出来ることと言えば、今手にしているあぶり餅を召し上がってもらい、元気を出してもらうしかないかな。そう決めると

懐から取り出し、振り向いて起き上がった女将の前に差し出す。

女将は状況が解らず、すこし戸惑っていたが、那助が

“九市太さまからの施しじゃ、有難く頂戴しや!”

と笑顔で勧めると、手を合わせ一礼し、一櫛をそっと頬張った。

女将は不安ながらも、一櫛口にする、すると

“こ、これは、なんと、なんとうましものじゃの”

もう一口食べて、驚き、さらに2口、3口と、今までの焦燥ぶりがうそのように食べ進めていく。

那助は、“良し、良し”と涙を浮かべ、一太もその喜びを感じつつ

ひとまずの安堵に浸っていると、

“九市太のお一様、何とこのようなおこころざし、お返しいたしましょう”

と那助が申しでてきた。

いやいや、こんなことくらいでと固辞する一太を引き留めて

ならば今宵、ゆうけなりともと、強く引き留められたのであった。

今夜の馳走となる魚を捕りに、那助はどこかに行ってしまった。

囲炉裏の前で、一太はぼぅつとたたずんでいたが

この頃には、女将は随分と顔色もよくなり、いくらか話が

出来るようになっていた。

女将は名を“篠”という

、聞けばここ最近体がだるく、動けなくなっていたとのこと、

おそらくビタミン不足や栄養の偏りのようであった。

と、いまこの状況が、自分の眼で見た限りは、おそらく今の時代を遥かに遡ったものであることに、うっすらと気づき始めてきた。

一抹の安堵と共に、さてこれからどうしたらよいのか、行く当てのない不安と焦燥に悩まされることになった一太であった。


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