タンザーロ
「ノアはあちらとこちらの間にいる……我らとしても恩人を助けたい」
「心から。本当に心からの感謝をタンザーロに。族長様……私の夫を見捨てずにいて下さって、ありがとうございます」
「当然だ……ウイニ、案内をしてやりなさい」
横にいる壮年の男性が頷いて立ち上がる。
アメリもその後に続いて族長の天幕を出た。
森に近い側に向けて、男は歩いている。
後ろにはアメリとハル。
さらにその後ろに青年がふたり、後を追ってきていた。
天幕の前に来ると男は振り返ってアメリを見下ろす。
後ろ手に入り口の幕を少しだけ持ち上げた。
「……分かるか。ノアの傷は深く、相当な痛みがあった。その痛みを和らげるために、薬草を混ぜた香を焚いている」
漏れ出てくる匂いは、確かに草を燃やしたような、鼻を通る、すっとした青い香りがした。
「……はい、わかります」
「我らは慣れてどうもないが、慣れぬ者が長い時間この煙を吸うのは良くない。声をかけたらすぐに出てくるように」
「……はい、わかりました」
アメリはやかましい自分の胸の辺りをどしっと握った手で叩いた。
ちゃり、と白金の証の鎖が鳴る。
そのまま大きく開かれた幕の内側に潜って入っていく。
内側は狭く、天幕の半分は寝台が占めていた。ここも薄暗くて、外の光はあまり入ってこない。
煙たくてアメリは瞬きを繰り返し、浅く呼吸をする。
寝台にはクロノが横たわっていた。
眠っているすぐ横に腰掛けて、もじゃもじゃの髪に指を通す。
頰がこけているのが、伸びっぱなしのひげの下にあっても分かる。
胸に掛かった布をめくると、その下には大きく深い傷が、肩から腹の下の方まで斜めに走っていた。
傷口を縫って処置をした跡がある。
血は止まって、皮膚も閉じているように見えた。
触れないようになぞって、そっと布をかけ直す。
頭の横に手を突いて、クロノに口付けた。
「……似合ってないって言ってるでしょ、ヒゲ剃ってよ」
ぽたりとクロノに落ちた雫を、指で拭い取る。
もう落とさないようにと袖で顔をごしごしこすった。
「…………アメリ……」
「クロノ?……目が覚めた?」
「……夢か?」
「そんなのやだな……夢じゃないよ」
「……死んでなかったか……」
「そんな勝手なことダメだからね」
「……体が……動かない……」
「すぐ治る……大丈夫」
瞬きを数回すると、そのまま目を閉じてクロノは眠ってしまった。
外に出るようにと声が聞こえる。
アメリは堪らずにクロノの頭を抱えて、もう一度口付けをしてから、勢いに任せて天幕の外へ飛び出した。
誰かに正面から受け止められて、そのままずるずると一緒に地面に座り込んだ。
目の前は真っ白で、眩しくて目を開けていられない。
それより何よりもう限界な気がする。
「うん……多分、ここだよ。今だと思う」
すぐ近くから聞こえる優しいハルの声に、唸りながら顔を覆って、我慢するのをやめた。
しばらくしてアメリが落ち着いてから、改めて族長の天幕に戻る。
中にいた人が減っていたので、今度はハルも一緒だった。
「ルフレーモを殺した者も、ノアに怪我を負わせた者も、同じ者だ」
「ええ……そう聞きました」
外に居た間に聞いた話にハルは頷いた。
「家族に害を被った。我らもこのままにしてはおけない」
「……分かります。ですが、ここは私たちに任せてはもらえないでしょうか」
「どうする気だ」
「個人の私刑を見過ごすことはできません。そうなれば今度は私たちが、あなた方を捉えなくてはいけなくなる。それは避けたいのです」
「……国に任せろと言われるか」
「そうお願いしたい」
条件がある、と族長は続ける。
見届け人として、外に居た青年のふたりを連れて行くようにと重々しく話す。
手出しはせず、見届けるに留めることを約束させて、ハルはこの話をのんだ。
この国でタンザーロは敬われてはいるが、弱い立場にある。
反発して変にこじれるよりは、国に貸しを作っておくべきだと族長も判断した。
「……ノアのことだが」
「ええ、はい」
「今すぐどうかするのは、難しい状況だ」
「そうでしょうね」
「我らはまだしばらくこの地に留まる。その内に回復するまでノアの面倒をみよう」
「……分かりました、お願いします」
ハルは内心で舌打ちをする。
そもそも約束はきっちり守るつもりだが、腹を据えて迅速にこの件を片付けなくてはいけない。クロノを人質に取られたも同じだ。
その日の内に捜索部隊はエミディオ中将に返される。
ミルトとラウデ下士官を預かり、ふたりの青年も共に、ハルの指揮でウルビエッラの暴徒を探すことになった。
ほぼ野放しの状態になったアメリは、青年たちと入れ替わる形で出向いている。
夜明けにハルと停留地に出かけ、日暮れに戻ってくるまでその場で過ごした。
その日の終わり、屋敷に戻ってからお互いの報告をする。
「今日はどんな一日だった?」
「少しずつ起きていられる時間が増えてる気がする……体も動かし始めたよ」
「そっか……良かった」
「ハルはどうだった?」
「うん……どうもスミスの方まで行かないとなぁ、って。明日にでも行ってみるよ」
目星をつけた暴徒たちは、軍から逃れ、人に紛れるためか、スミスに向かったようだ。
「まぁ、そっちの方が僕も動きやすくなるしね……相手がウチの総長だって気付いてないんだね」
「スミスの方がみんないるしね……早く捕まりそう」
「うん。任せといて」
「はい……頑張ってね、ハル」
「アメリもね、さっさと総長に良くなってもらってよ?」
族長の許しがないので、今だにハルはクロノには合わせてもらえない。
アメリの話だけでしかクロノの様子が分からない。
そのアメリが無理に笑顔にならず、落ち着いて、辛い時には辛そうな顔をしている。
穏やかに微笑んでいるから、状態は悪くないのだろうとハルも同じ顔になる。
最初のうち、停留地では男の姿しか見かけなかった。
通いだして始めてちらほらと女と子どもの姿を見かける。
見かけて、そこでやっと、そりゃそうかと納得した。
一族で構成されているんだから、女も子どもも、居ない方がおかしい。
最初は何が起こるか分からない、隠されていて当然だ。
とはいえ、アメリは遠巻きに見られているだけで、今もほとんどの人と関わりを持っていない。
「アメリ……腕を引いてくれないか」
「うん? こう? こっち?」
「ああ……楽になった」
「アメリ……」
「なぁに? 」
ふへと笑うとアメリは起き上がったクロノの足に跨って座り、クロノをぎゅうと抱きしめる。
「……あれ? 違った?」
「いや、こうして欲しかった」
「ふふーん。当たったー」
おまけに口付けもしておく。
「これも?」
「そうだな」
「ふふ。もじゃもじゃがくすぐったい」
「アメリが剃ってくれても良いんだぞ」
「……え、無理。こわいもん」
「じゃあもう少し辛抱してくれ」
「しょーがないなー」
足音が近付いて、天幕の前で止まる。
出入り口の幕に人影が映る。
「もう出て」
「……はーい……また後でね、クロノ」
ここのタンザーロと話をするのは、最初にクロノの天幕に案内してくれた族長の息子、次期族長のウイニ。
それからハルの預かっている青年ふたり。
クロノの世話をしている、ティアーナ。
そのティアーナが外から声を掛けていた。
会話はほとんどないので、ティアーナが何歳かは知らないが、見た目だけならアメリとそう変わらない。十七、八か、もう少し若いかも知れない。
といってもアメリはその三倍は生きているが。
天幕を出ると入れ替わりでティアーナが入っていく。何かを抱えていたようだが、アメリにはよく見えなかった。
中ではずっと薬草が焚かれている。
慣れてきたので、もうあまり煙たいとは思わないが、外に出ると内側がなぜ暗いのかがよく分かる。
光が異常に明るく感じる。
心臓も走った後のように早くなるし、手足の先が冷えて感覚がなくなる。
慣れる前は外に出るたびに吐いていた。
しばらく落ち着くまでは外の空気を吸って、木陰で休む。
痛みに対する感覚は鈍くなる代わりに、光を異常に感じて、足元が揺れたように体の均衡が崩れる。
現に思うように力が入らなかったり、手足が痺れたようになったりもする。
少しの時間過ごすだけでこれだ。
一日中、しかも何日もその中にクロノはいる。
クロノは痛みは感じないと言っていた。
実際、傷はもうきれいに塞がっているように見える。
傷よりも、香が無くなった時のクロノがどうなるのか、その方がアメリには心配だった。
しばらく天幕の入り口が見える場所で座り込んでいると、ティアーナが出てきた。
立ち上がってそちらに向かう。
「もう入っても良い?」
「顔色が悪い、まだ外にいて」
「もう大丈夫、平気」
「……ノアは眠った」
「……そう」
「まだ外に」
「……はい」
ふいと顔を背けると、ティアーナはそのまま早足で立ち去って行った。
苛々とした様子なのも、強く睨まれるのも、かなり覚えがある。
「……やっぱりそうなのかな?」
クロノに想いを寄せる人は、大概そんな態度をアメリに見せる。
まぁそれなりに何度か味わってきたので、間違いはないだろうなと思う。
うーんと唸って、言われた通り素直に、また木陰に入って座り込んだ。
実はまだ少し体は辛かった。
その日、アメリが居る間はクロノは目を覚まさなかった。
帰る前にウイニに薬草について話を聞く。
前よりは量を減らしているらしい。
急に無くすと禁断症状が出るとウイニは言う。
やっぱりその手のやつかとアメリは眉を下げた。
減らしたのはアメリが天幕に入るようになったのもひとつ理由としてある。
その辺りの調整は自分には分からないので、全て任せるしかない。そう伝えて頭を下げる。
うん、と頷いたウイニも、遠巻きに見ているティアーナも何か言いたげな表情をしている。
腹の内を見せないのが決まりなのかと思うほど、必要以上のことは言わない。
聞いても全てを答えてくれない。
アメリは家族ではない、よそ者だからだろう。
いくら馴染みたいと思っても、もう見た目がはなから浮いている。
どう足掻いたって変えられない部分だから、いつか認めてもらえるように振る舞うしかない。
丁寧に礼を言って停留地を後にする。
帰ってきた青年ふたりとすれ違う。
集落の出入り口には、ハルが待っていた。