ムエタイ
交通マナーの悪さに閉口しながらも、ようやくタクシーで市内に辿り着いた。
「へぇ…」
想像以上の都会ぶりに思わず感嘆の声が漏れる。
タクシーの運転手が日本語を話せたのは助かった。そのお陰で美味い飯屋をスムーズに紹介して貰えたのだ。
路上に溢れてる露店にも目が行くが、到着早々に体調を崩しても困るので無難にレストランを選んでおいた。
タイ語は殆んどわからないが、有難い事にメニューは全て写真付き。
そこから数品を指差してオーダーを済ませた。
「どうもコレ…苦手なのよねぇ…」
ほぼ全ての料理にて存在感を示している〝緑のアイツ〟を箸で取り除く…
「こんなカメムシみたいなの、何で食おうと思ったかねぇしかし…」
ブツブツ文句をたれながらも食事を済ませると、宿探しを兼ねて少し街を探索する事にした。
都会的な中に、どこか田舎っぽさも共存している不思議な街並み…
人混みの中を平気で爆走するトゥクトゥク…
常にどこかから聴こえて来る甲高い声…
活気とも言えるし、喧騒とも言える物が満ち溢れている。
そんな中、一際大きな声が耳に飛び込んで来た。
もちろん何を言っているのかは解らないが、そのテンションと口調から蹴速は直ぐにピンッと来た。
〝喧嘩だ〟と。
声の出所へと足を早めると、露店の店主らしき中年男性と、恐らく若いであろう男が喚く様にして罵り合っていた。
やがて店主は我慢の限界が来たらしく、店にあった食材を男へと投げつける…
それでスイッチが入ったのか、若い男がオーバーアクション気味に出て来いと手招きをした。
これを見た店主の方もスイッチが入ったようで、荒々しい歩調で露店から表へと出て来る。
〝へへへ…こいつぁツイてるわ♪来て早々、面白えもんが見れそうだ〟
周囲を取り囲む野次馬に紛れ、ニヤニヤしながら傍観者を決め込む事にした。
店主の男は恐らく40歳オーバーであろう。
長身ではあるが、禿げ上がった頭やでっぷりとした腹がその身長以上に目立つ。
対する若い男は、小柄で細いながらも全身これバネといった筋肉をしていた。
細いワイヤーを編んで人を象った…
そんな印象である。
2人はズンズン距離を縮め何度か互いの胸を突き合うと、両者ほぼ同時に構えを取った。
「ほぅ…こいつぁなかなか…」
蹴速は思わず唸っていた。
あまりに2人の構えが堂に入った物だったからである。
それもそのはず…タイの男性はレベルの差はあれど、ほぼ全員がムエタイを使える。
徴兵による軍役もあるが、学校でも体育授業の一環として教えられるのだ。
日本でも学校で柔道を教える事が多いが、あれに似た物と思って貰えれば良い。
2人がムエタイ独特の構えでユラユラと身体を揺らす…
先程まで大声で喚き合っていたのが嘘の様に、無言で互いの動きを窺っていた。
先に動いたのは意外にも店主の方であった。
勝る体格差を活かし、強引とも思える程にヅカヅカと前に出る。
若い男はジャブや前蹴りで間合いを保とうとするが、いかんせん体重差があり過ぎる…
店主は意にも介さない様子で、それらを弾きながら間合いを詰めた。
そして…
ついに男を捕らえたのである。
両の前腕で輪を作り、それを男の首へ首輪の様にはめて頭部を抑え込む。
〝首相撲〟
そう呼ばれるムエタイの技である。
相手の自由を奪うのに有効で、ここから膝の連打を叩き込むのがセオリー…
当然店主もそのセオリーを実行した。
若い男も枷を外そうと足掻くが、10cmはあろう身長差が易々とはそれを許さない。
店主は上から男の首に体重をかけながら…
脇腹
鳩尾
大腿部
更には下を向かせた顔面へと所構わず膝を乱打する。
その動きと共に、男の身体が上下左右へと派手に浮いた…
〝へぇ…やるねぇ〟
蹴速が舌舐めずりをしたが、これは何も店主を称えた訳では無い。
その逆である。
一見派手にやられて見える男だが、その実そうでは無かったのだ。
上下左右に揺れる身体…あれは店主の打撃がヒットする寸前に自ら飛び、衝撃を逃がしているのだった。
〝へっ…浮身とは畏れ入ったね。まさかタイでお目にかかれるとは…な〟
浮身を行うには人並み外れた動体視力と反射神経が必要となる。
それを難なく使いこなしていると言う事は…
つまりはあの若い男が只者では無い事を告げている。
やがて時間と共に店主の方が打ち疲れ、その動きが目に見えて鈍くなって来た。
そして若い男が仰け反る様に背を伸ばすと、彼を捕らえていた首輪は呆気ない程容易く切れた…
解き放たれた獣の牙が店主に襲いかかるっ!
息が切れ、膝に手をつく店主…
その前屈みとなった顔面へ下から突き上げる様な飛び膝蹴り!
骨と骨のぶつかる鈍い音を響かせ、店主の頭部が跳ね上がった!!
がら空きとなった顔面へと、着地する勢いに任せた肘打ちを一閃!
店主の膝が折れ、腰から地へと沈む…
店主は天を仰ぐ形で座したまま白目を剥いていた。
ゾワワ…
蹴速は自身の太い背を蟲が這った様な気がした。
何故なら男の使った技が当麻流蹴体術のある技に酷似していたからである。
下からの膝蹴りで頭部を跳ねさせ、そこへ上からの肘打ちでとどめを刺す…
当麻流においては打撃で上下から挟む技の総称を、獣の咬む行為に似ている事から〝顎〟と呼ぶ。
店主を倒した男は勝利の余韻に浸るでも無く、一目散に駆け出しその場を去った。
警察が来る前に、勝者は直ぐに現場を立ち去る…これは喧嘩の鉄則である。
この事からも男が喧嘩慣れしている事が窺えた。
「へへっ!最初の相手、見~っけた♪」
そう呟くと蹴速は、直ぐに逃げた男の背を追い走り出した。