僅かに変わってゆく日常
──全く本当に唐突だ。その上実に物騒な案件で、日常を生きている心地がしない。教室の窓から、薄曇りの空を眺めながらそう思う。
もとはシズハの決心した事だ、その全権を委ねてしまえばどれだけ楽か……と言っても、俺は斯く言う心配性というもので、全てを任せてシズハにもしもの事があったら……と、身の毛がよだつ程に思う。
「佐更木くん」
教室の前の方から誰かに呼ばれた気がするが、きっと気のせい──
「佐更木」
「はい」
二度目の指名は数段低い声ではっきりと聞こえた。
「全く……授業中ですよ、あんまりぼんやりしてると……」
そのまま教師は黒板から短くなったチョークを手に取り、強く握り締める。小さな炸裂音と共に白い粉が舞った。
「……ね?」
「……ごめんなさい」
「分かればよろしい」
教師は手に付着した粉を払い、黒板に向き直って板書を再開する。見た目は小柄で可愛らしい眼鏡の女性教師だというのに、怒った時にはこういう事を平気でするから怖い。
……にしても、本当に集中出来ないな。そうしてまた、いつの間にかに窓の外を眺めていた。
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「佐更木!!」
「あっ……ちょっ待っ……」
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「いってえ……」
「大きいの貰っちゃったねぇ……先生のチョーク撃ち……」
シズハは俺の額にできたアザをさすり、苦笑い。
「ほぼ新品のチョークを撃ち込もうなんて思わないぞ……普通……」
シズハと駄弁りながら夕焼けで赤く染まりつつある廊下を歩く。あの後も結局授業には集中出来なかったけど、チョークの件はもう無かったことにして──
「でもさ、授業中にぼーっとして怒られるなんて……センちゃんらしくないよね」
「掘り返すな掘り返すな……。忘れようとしてたところだってのに」
シズハの頬を軽くつつこうとすると、シズハはすかさず頬を膨らませて俺の指を突っ返した。
「ふふーん……そう簡単には遊ばせないよー?」
そう言って自信ありげに見せる笑顔に、自然と俺の頬も緩んだ気がした。
「……つついた事に変わりはないんだけどなぁ」
そうこうしている内にシミュレーション準備室にたどり着いていた。朝、あの後話した通りならアリアはここにいるはず。
準備室の扉を空けようと引き戸の取っ手に手を掛けようとした時、不意に扉が開き、中から見覚えのある少女が駆け出した。
「うお……っと!」
「きゃっ!」
そのまま扉の手前側にいた俺の体とぶつかって、少女は尻餅をついた。こちらの顔を見上げたその少女は、紛れもなく朝に一度会った少女、琴乃アリアだ。
「あ……佐更木さん、片霧さん……。……とと、ごめんなさい、遅かったので……ちょっと不安になってしまって……」
アリアは俯き、持っていた鞄を抱き締める。
そうだ。命を狙われているんだ。その中独りでいる、それがどれだけ怖いかを分かってやれていなかった──
「……センちゃん、ちょっと」
茫然としていた俺を押し退けて、シズハがアリアに近づく。そして、その小さく縮こまったアリアの身体を抱き寄せ、頭に手を添える。
「Don't be afraid.
(大丈夫。)
Don't be afraid.
(怖がらないで。)
We are here.
(私達が居るから。)
I'll protect you.
(私がアナタを守るから。)」
不思議な温かさを感じるその呼びかけに、アリアは少しばかり目を細めた。
「どうかな……少しは怖くなくなった……?」
「……はいっ」
シズハはアリアに向かい柔らかく微笑み、それに応える様にアリアもまた微笑み返した。
……普段は子供っぽく無邪気に振舞っているのに、こういう時にシズハは並ならぬ母性を見せる。それがシズハの魅力でもあるんだが。
「片霧さん、そのおまじない……誰に教わったんです……?」
「シズハ、で良いよ。このおまじないはね、お母さんが教えてくれたんだよ」
「ア……シズハさんのお母さんが……」
「……ア?」
「噛んでしまっただけですっ」
「ふふ、そっか」
二人が仲睦まじく会話をする様は、まるで本物の母娘のようで、傍から見ているだけでも心が和んでゆくようだった。