第一章1 『4と9』
第一章に入りました。
誰かがユエを見て悲鳴のような叫び声を上げた。
「――ユエ!!」
灰色の壁の近くで空間を割くかのように発せられたその音は、紫色の瘴気に飲み込まれて消える。
その声を発した人の顔には黒い靄がかかっていて、思いだすことは叶わない……だがユエはその光に思わず手を伸ばす。そしてその子の名前を無意識に呟いた。
「……う……る…………」
痛みによって一瞬意識が飛ぶ。
結局その子の名前を最後まで言う事は叶わなかった。しかしもう一度口を開こうにもその頃にはその子の名前にさえ黒い靄がかかっていた。
「兄さん!!」
再び悲鳴のような声が上がる。その子はユエを見て手を伸ばしている。
しかしその手はユエを簡単にすり抜け虚空を掴む。
ユエもその手を掴もうと自身の体を動かそうとするが、傷だらけの肉体はそれを拒否した。
気付けばユエの体は仄暗い海のような場所に浮かんでいた、周りには先程まであった壁も、名前を呼んでくれた人物達も見当たらない……そしてユエは抗う事無く深く深く沈み、やがて黒い底についた。
その何も見えない感じる事の出来ない底でユエはゆっくりと微睡むことにした――――
「――イン!!」
「起きてください、ノイン!」
昨日できた同居人の声で目が覚める。何か夢のようなものを見ていた気がするが……。――どんな夢だっただろうか?
「……大丈夫ですか? 凄く魘されていたようでしたが……」
「フィーア……ちゃん……?」
ぼんやりとした頭、まだ焦点の定まらない目が捉えたのは茶髪の少女フィーアの姿だった。頭の中を情報がぐるぐると巡り、やがて意識を覚醒させる。
「……ごめん、ちょっと寝ぼけていたみたいだ――もう大丈夫……というか何の夢だったかももう思いだせないし……」
「……いえ謝罪されるほどの事でもありませんが、まあ昨日の今日ですし仕方ないのではないかと」
辺りを見渡すと昨日ヌルとフィーアに新東京の話をされた部屋が広がっていた。……あの後は確か、明日ブルーメの他のメンバーを紹介してもらう約束をして眠りについたはずだが。
「ところでフィーアちゃん、これからどうすればいいのかな? 正直昨日の事も夢だったんじゃないかって位には、まだ現実感が無いんだけど……」
「そうですね記憶が無いといきなり信じられないのは無理ない事かもしれません……」
フィーアはノインの言葉に返しながら部屋に在る掛け時計で時間を確認する。
「そうですね……予定の時間より早いのですが、広間に向いましょう。――それと私の事はフィーアと呼んでください」
「いやちょっと待って! 俺達まだ互いに呼び捨ての関係になるのは早いというか何というか……そういうのはもっとじっとり、お互いを知るための時間を掛けてから――」
「――『ちゃん』を名前の後に付けられると、あの『女大好き男』を思いだして腹が立つので……止めてください」
「アッハイ」
ノインは、自身のボケに触れる事すらなく返ってきたフィーアの冷淡な反応に肩を落としながら答える。
結局ノインにはなんの事かは良く分からないが、彼女がそうして欲しいと言うなら断る理由は無い、そのままノインはゆっくりと寝台から下りる。
「……しかし昨日は言いませんでしたが、ノインは面白い服を着ていますね」
どうやらフィーアが気になるのはノインのボケではなく、ノインが現在着用している服の方だったようだ。
ノインは自分のボケが服に負けた事実に少し不服を覚えながら、フィーアに自身の衣服を見せる。
現在ノインが身に着けているのは真っ黒な和服である。ノインにはどういった経緯で自分がこの様な服を着るに至ったかは残念ながら思いだせないが、先日の瘴魔との戦いも含めてもかなり破損箇所が多い、至る所からノインの肌が露出している。
「やっぱり着替えたほうがいいか? 着替える服持ってないから下着……いやパンツ一丁になるけど」
「……いえ、今回は顔合わせした後に、戦闘能力を測る訓練を行うそうなので、寧ろそれが終わるまではそのままの方がいいかと」
また盛大に受け流された自身のボケに傷つく前に、ノインは衝撃の事実に耳を疑う。
「え、訓練? そんなこと聞いてないけど?」
「……言ってないですから。 それよりその服動き難くないのですか?」
ノインの聞いていないに対してあまりにも単純な答えが返ってきたところで、話は再び服に戻る。
「この服には様々な場所に切れ込みが入っていて動き易く……ってなんでこんなこと覚えているんだ?」
フィーアの質問に驚くほどすらすら答えられる。やはり昨日彼女が言った通り、無意識に記憶が補完してくれているのだろうか?
「まあ俺の服の事はいいとして、さっさとその広間に行こうぜフィーアたん!!」
「……了解です……ん? えちょっとノイン、今何て言いました?」
「服はいいから広間に向おう?」
「いえ、その言葉の直ぐ後です」
「まあまあまあ、気にしたら負けだって! ホラ、スルーして広間に向おう、そうしよう!」
「ちょっとノイン! 撤回を撤回を要求します!!」
やっと自身のボケにしっかりとした反応を見せてくれたフィーアに、ノインは少し満足気味に部屋の扉に向って歩き出す。自身の呼び方に不満しかないフィーアはノインに撤回を求めるも、それ全てに対してノインがあやふやに答えるため、珍しく慌てながら移動を開始したノインの後を追う。
ノインが木製の扉を開けて部屋を出るとそこには長い廊下が広がっていた。
片面には窓が等間隔で設置されており、その窓から射し込む太陽の光が反対側の白い壁を薄っすらとオレンジ色に染めている。染められている壁にはなにやら豪華な装飾と絵が描かれており、良く見ると床も冷たい石造りで出来ている。ざっと見ただけでここが何処だかは直ぐに分かった。
「もしかして教会?」
ノインが後ろを振り向くと同時にフィーアがノインに追いつく。
「……はい。 この教会は裁きの日後では珍しくどこも壊れていなかったので、今は私達の拠点になっています」
フィーアと共に教会の廊下を奥に進んでいく、その途中でふと中庭のような場所が目についた。
中央には真っ白な円形の台座があり、それを取り囲むように四つのベンチが並んでいる。そのベンチからはそれぞれの方向に道が伸びていて、どこも教会の廊下に繋がっているようだ――成る程自分が歩いているこの廊下は回廊なのだろう、とノインは予測する。中庭では背丈が揃えられた草花が朝日に照らされて優雅に揺れている。そのあまりの美しさに暫く言葉を失ったが、直ぐにある疑問が湧いてきた。
「なあフィーア……そういえばどうしてこの教会には瘴気が満ちていないんだ? よく考えれば俺達が寝ていた部屋だってそうだ……」
そうノインが目覚めた部屋も、この廊下も、目の前に広がる中庭にも、どこにもあの紫色の霧――瘴気は立ち込めていない。それどころか新鮮な空気で充満している。
「……根本的な仕組みは楽園と同じです。 ここは瘴気を新鮮な空気に変換する魔業で覆ってあります。 楽園側から抵抗組織にそう言った魔業の支給が定期的に存在していて、どこの抵抗組織も壊れていない建物を覆って生活しているんです」
そう言われ空を見上げると、そこには紫色の空が広がっていた。恐らく瘴気を浄化する魔業はこの教会をドーム状に覆っているのだろう。
「それなら全員が楽園に入る必要はなくないか? ぶっちゃけ、ここも小規模な楽園みたいなものだろう?」
「……そうもいきません。 そもそもここの空気浄化に用いている魔業は、楽園を支えている魔業ほどの寿命はありませんし、故障の際にメンテナンスできる人間も居ません。 加えて楽園と比べてここには瘴魔に対する高い防御力も食料を生産できる程の土地もありません。 魔業の補填も稀ですし、何より瘴魔に対して有効な攻撃力の高い魔業は過激派に渡ると面倒ですから、そもそも流れて来ません」
「成る程な、東京がこんな状況になっていても人って言うのは一丸になれないわけか……」
過激派に高火力の魔業が渡ってしまえば、楽園と機関の崩壊を願っている彼らがそれらを利用しないはずがない。最も過激派と機関では人数に差がありすぎるため数個流れた程度であれば機関が崩壊するなどありえないだろうが、だからといって流しすぎてしまえば機関も無傷とはいかない。結局の所最初から流さないほうが安全なのだ。
しかし高火力の魔業が過激派に渡らぬように流出を禁止するという事は、同時に穏健派にも流れてこないと言う事を意味する。ただでさえ瘴魔の危険性に満ちた楽園の外側に、瘴魔を退けるだけの力を持った魔業が流れてこないというのは、大きな打撃となっているだろう。
楽園の外側にこそ高火力な魔業が必要な事は、機関も理解している事だとは思うが、流そうにも過激派の存在が邪魔をするという悪循環に陥っているというわけである。
過激派と穏健派――抵抗組織がこの二つに分かれていなかったら話しはもっと単純だっただろう。
フィーアに説明を受けつつ廊下を歩いていくと、やがて目の前に大きな扉が現れた。
「……この扉の先が、私達が広間と呼んでいる場所です――まあ勝手にヌルが礼拝堂を広間に改造したんですけど」
「あいつ……いつか罰でも下りそうだな……」
「『それならこの状況がもう罰だ』って言っていましたけど……」
「そうかよ」
大きな扉を開くと、その中は高い天井と周りをステンドグラスで覆われた部屋だった。何本もの柱が並び、その柱頭には何やら彫刻が施されている。本来祭壇があったであろう場所には大きなテーブルが置かれており、側朗の長椅子がそれを取り囲むように設置されていた。
フィーアはその長椅子の端に座るとノインを手招きした。きっとこちらに来て座れと言う合図だろう。
ノインはそれに素直に従いフィーアの横に腰を下ろす。
「……流石に時間がまだあるので、皆さん来ていないようです」
「そういえば、他のメンバーって一体どんなやつ? アインスとツヴァイは声を聞いたくらいだし、他のメンバーって言われても正直全く分からないんだよね」
「……そうですね。 ……一言で言うなら皆個性的かと」
「へ? え、俺よりも?」
ノインの言葉にフィーアが顎に手を当てて考える。ステンドグラスを通して降り注ぐ朝日に照らされたフィーアはとても美しく見えた。
「……まぁいい勝負かと……」
フィーアの言葉に若干の不安を感じつつも、時間が来るまでフィーアとノインは雑談をして過ごした。
次回で登場人物が結構増えます。