第一章46 『愚者の選択』
「ノ、ノイン……さん?」
「…………………………」
ツェーンの困惑した声音に、ノインは無言で答える。
突きだされた腕からは、誰でも感じられ程に濃い殺意が放たれていた。
その状況と、ツェーン自身がした発言をノインが再度確認した事から、ツェーンはノインが何をしようとしているのかを簡単に理解する事が出来た。
だがツェーンの胸中は『まさか……』と言う気持ちで満たされていた。
何故ならノインは、超が付くほどの『仲間想い』であり、ツヴァイの時のように――仲間が危機に瀕していれば自身の命を顧みずに無茶をするなど、仲間の命を絶対的に第一として考えるイメージがツェーンにはあったからだ。
だが今ツェーンの面前で起こっているのは、それとは全く逆――即ちツェーンの解釈が正しければ、ノインはツェーンに「殺してやる」と宣言している事になる。
それが信じられなくてツェーンは、無言でこちらを見据えるノインに恐怖しながらも再度訊く。
「ノインさん……? 嘘……ですよね?」
恐れるように縮こまったツェーンを見て、ノインが全く暖かさを感じられない声で返す。
「……嘘? ……一体何が? この一連のやり取りの中に真実を疑うようなところがあったか?」
極めて冷淡な返しに、ツェーンは自身が立たされている状況が己の予想していた事と違いないのを確信する。
その事実はツェーンにとって最悪で残酷なものであり、間違いであって欲しいものでもあった。
「う……そ、嘘……やめて……」
未だ殺気を纏う事を止めないノインの迫力に圧倒され、ツェーンが足を取られ転倒する。
転倒の際にこの部屋に響いた音は決して人体と床が接触した音ではない、もっと石のような物と床が接触したような鈍い音――つまりそれほどまでツェーンの体は、半瘴魔化の影響で紫色の結晶に侵蝕されていた。
ノインはゆっくりと自身の体を車椅子から起こす。
まだ歩く事は困難であるノインだが、それは一切に表の表情には出さず極めて冷静を装い立ち上がる。
ツェーンが転げた事により、見下ろすような形となったノインがツェーンとの距離を詰めるために一歩を踏み出す……勿論ツェーンを殺す為に瘴腕は突きだしたままである。
そんなノインに畏怖したのか、それとも惶懼したのか……兎に角ツェーンは恐怖と言う感情のみに支配されて、一歩一歩距離を詰めるノインに応じて後退する。
しかしツェーンとノインが居るのは部屋である、別に無限の空間が此処に広がっているわけでは無い。
やがてツェーンの後退にも限界が来る、ノインから逃げるために後ろに逃がしていた己の身体が――背中が遂に壁と接触した。
もう後ろに下がれない事と、目の前から迫る絶対的な死を前にツェーンは体を震わせていた。
そんな何時でも殺せるような存在をわざわざ部屋の隅に追い込んで、その震える弱き存在にノインが問う。
「ツェーン……何故逃げる? ……お前が言ったんだろ「殺してくれ」って」
絶対零度の冷たさを持って、ノインの言葉がツェーンを貫く。
抗う事の出来ない死を前に、ツェーンの体は最早正常な動作を脳から許されていなかった……脳はこの異常な人間から逃れるために、全ての機能を『思考をする』という行為に割いて稼動していた。
つまりそれだけ――それほどまでにツェーンは生にしがみ付き、死を拒絶していた。
要はツェーンまだ生きたかったのだ……。
「さっさと決めてくれ、結局ツェーン……お前は死にたいのか? ……それとも死にたくないのか、早くしないと俺が壊した扉の音で皆が此処に来るぞ」
ノインは言葉を巧みに用いてツェーンをどんどん追い詰める。
幻聴かそれとも現実か……ノインに「扉が壊れた音で皆が此処に来る」と言われてから、ツェーンにはやけに周りが騒がしいように感じられた。
静寂と闇に支配されていた先ほどまでとは打って変わって、ツェーンには周りに轟く音全てがこの部屋に訪れようとするブルーメのメンバーの足音に聞こえていた。
この姿を見られたくないツェーンにとって、それは――ブルーメのメンバーの来訪はもっとも忌むべきものであった。
ノインという絶対的な死の存在、そして招かざる者の来訪……ツェーンは限界に達していた。
だからこそずっと隠してきた――見ない振りをしてきた『生きたい』という願望を……願いを閉じ込めた心の蓋を開けざるを得なかった。
ツェーンが『死にたい』と……死の願望で生の願望を塗りつぶしたのは、何もツェーンが半瘴魔化したのが全てではない。
勿論半瘴魔化した事は、ツェーンの持っていた死の願望を強くさせたのは事実だ……しかし詳しく述べるなら、ツェーンの死への願望は自身の過去の事とも合わさって歪に膨らんでいた。
そして今のツェーンは、そんな抑えてきた自身の負としての感情が爆発しそうだった。
普段のツェーンであれば、このような感情の暴走を己の特徴的な口調で誤魔化してしまうところだろうが、今回はそれをノインの存在が許さなかった。
逆に言えば今回のような特殊な環境が、ツェーンの感情を素直に吐露させる――感情を爆発させる起爆剤になった。
「……………………ない」
その音はまるで、終わりかけの線香花火のように儚く消え去る。
ノインには当然ツェーンが何と言いたいのか理解出来ていた、だがだからと言ってここで止める気は無かった。
「聞こえねぇ」
ノインは極めて冷静にツェーンに言う。
その言葉にツェーンは、己の体を蝕む震えを必死に抑え言う。
「…………たくない」
ツェーンの声は未だに小さいが、ノインとツェーン程の距離であれば十分に聞き取れるであろう声量ではあった。
しかしそれでもまだ足りないのか、ノインはツェーンに言う。
「聞こえねぇ」
「……死に……たく、ない」
その時ツェーンの声は、確かに自身の死への願望を否定した。
それでもまだノインを納得させるには至っておらず、無慈悲にもノインはツェーンを責める。
「聞こえない!!」
突然声を大きくして、ノインがツェーンを追い込む。
色々と複雑に絡み合ってぐちゃぐちゃになりながらも、今までずっと隠れていた――隠してきたツェーンの感情は、その声と共に爆発を向える。
ツェーンの内側で何年にも渡って形成された混沌の感情による爆弾が爆発すると、それは口という器官を用いて爆風を――積もりに積もった負の感情を吐き出す。
その捌け口に求められたのは当然ノインであった。
「死にたくない!!」
「もっとでかい声で言え!!!」
「……ッ!! 死にたくない、まだ死にたくない……こんな終わり方は嫌……。 月咲の為なんかじゃない……誰の為でもない、自分のために生きていたいッッ!!」
ツェーンはその顔を煌く雫で満たしながらノインに言う。
一度感情が爆発してしまえばそこから先は早い、爆発した感情がまだ爆発していない感情に火を点ける……そうしてツェーンの感情はどんどんと燃え上がっていく。
ツェーンが感情を吐き出す一連の流れが連鎖反応と呼べるのであれば、初めの一つが爆発するのが差し詰め律速段階と言ったところであろう。
「……嫌! ……嫌! こんな姿で終わるのも、自分自身のために生きる事が出来ないのも! ……でもしょうがないじゃない、あの子を……私の妹を助けるのは姉である私の役目だし……親も、頼れる人も居ない私は何にも縋れないじゃない!! それに瘴魔になったら……もう死ぬしかないじゃない――なのに……なのに、何で皆私を殺してくれないの……もう生かさないでよ、辛いよ……生きるのが辛いよ……。 どうして……どうして……どうして……どうして…………」
何もかもが爆発して泣きじゃくるツェーンは、紫色の結晶によって侵蝕された腕でノインの服や包帯を掴む。
ノインの胸倉にツェーンは自身の顔を埋めて大声で泣く。
ツェーンに乱暴に扱われるノインの傷口から血液が滴りツェーンの顔を、衣服を汚していくがツェーンにはそれは些細な事のように感じられた。
それよりも今は、自身から溢れ出る感情の全てを……半瘴魔化に接して慟哭した思いを――生への執着を、ノインを捌け口にぶつけたかった。
何時の間にかノインからは、殺気もツェーンを殺す為に向けられていたあの瘴腕も――およそツェーンを害するもの全てが消え去っていた。
瘴腕が――腕に纏っていた規則的な紫色の結晶が消え、殺すためから撫でる為に変化した右手でノインは胸にスッポリと収まったツェーンの頭を優しく触る。
「それで結局ツェーンはこの先……これからどうしていたいんだ、何を望んで生きたい?」
「わ゛た゛じは……いき゛でいたい。 そのための……キッカケが、わたしがわたしとして、生きていくためのキッカケが…………――この新東京で、生きる望みが欲しい!!」
涙で塗れた顔をはっきりと上に向け、その瞳にノインを捉えたツェーンがハッキリと言う。
そんなツェーンの額を、ノインは軽く中指で弾きながら言う。
「任せろ」
そう短くノインが答えると、ノインはデコピンをするために用いた右手をゆっくりと開きツェーンの頭を掴む。
そのまま己の精神全てを集中の海に投じ、イメージを鮮明なものへと変化させていく。
ノインがイメージしたのは――思い描いたのは、ツェーンを蝕む……ツェーンを侵蝕する全ての要因をノインが喰らう姿。
ツェーンを寄る辺としていた全ての悪が、その寄る辺をノインへと変える場面。
一度闇市でエルに対して同じ経験をしていたノインは、このイメージを簡単に作りだす事が出来た。
ただ闇市の時と違ったのは、ノインに瘴腕の使い方を教えてくれた……今は忘れてしまった大切な誰かが『この能力はあまり使わない方が良い』と警告してきたような記憶が一瞬脳裏に過ぎった事くらいである。
勿論そんな訳の解らない出所不明の怪しい記憶は、ツェーンを蝕む要因を喰らうイメージを鮮明化させるために早々に頭から捨て去ったのだが。
そして全ての準備が整ったノインが三つの音を呟く。
「喰らえ」
その言葉と共にツェーンを包んでいた全ての紫が瓦解する。
それらはまるで磁石の極のようにノインに引っ張られると、ノインの体に溶け込んでいく。
眩い光線で満たされたこの部屋の中では、何処にノインとツェーンが居るのかを把握するのは容易な事ではない。
だが次々と生まれる眩い光は、生を受けたのと同時にノインの中へと吸い寄せられ死を向える……光線は徐々にではあるが、その光量を下げていった。
どの位の時間が経ったのかは定かではない、ただ光線が治まったこの部屋に最終的に残ったのは、紫を全て脱ぎ去ったツェーンとそれを撫でるノインであった。




