第一章44 『急ぐ』
月明かりだけが照らす回廊を車椅子に乗ったノインが、その車椅子をフィーアに押されながら移動する。
辺りは完全に静寂に制圧されており、この世に存在する命が今ノインとフィーアだけではないのかと錯覚させてしまうほど、闇以外は身を潜めていた。
そんな極めて不気味な回廊を進む。
今ノインはそんな不気味に注意を割く余裕を持ち合わせていなかった、代わりにノインの心の大半を占めていたのは『ツェーンを救う事』この一点――ただこの事だけに思考の全てを捧げていた。
逆に言えば、そうするだけノインにとってブルーメのメンバー一人一人は大切な存在であり、欠けてはならない大切な者だったのである。
「しかし皆は……俺が瘴魔化を治療出来ると知ったら驚くだろうな……」
ノインは言葉を漏らす、その言葉には確かな重み――ノインの覚悟が宿っているようにフィーアは感じられた。
もしノインがツェーンの瘴魔化を治療し、それに成功したら……ノインの覚悟の根本はその場合の話であった。
この新東京において瘴魔は非常に厄介な存在である、恐らく新東京での生存のみを考えるのであればその脅威は、新東京を箱のように囲う壁とその守護者である傍観者よりも大きいだろう。
何故なら人間を攻撃対象として認識してくる上、新東京を跋扈するほどその個体数が多い……壁を破ろうとしなければ干渉して来ない傍観者に比べればその危険度は遥かに高い事は明らかと言える。
だからこそ新東京内で最低限度の安全な暮らしを実現するためには、この瘴魔の数を早急に減らす――つまりは駆除する必要があった。
事実今は総司令官の死によって機能していないが……機関の一番大きな目的は、新東京内における瘴魔の根絶である。
今まで人が瘴魔に変わる事はあっても、瘴魔が人に戻る事は無かった……要は瘴魔の数を減らすのは即ち瘴魔を討伐する事に他ならなかったわけである。
だがここでノインという人物が出てきた――瘴魔を人に戻す者が出てきたと言い換えてもいい。
この出現はつまり瘴魔の固体数減少にあたって、必ずしも討伐を行う必要が無いという可能性が出てきた事を示唆していた。
瘴魔の討伐には少なからず被害が出る、それが怪我程度か順応者数人の命か、果たしてそれ以上か……ともかく瘴魔と戦闘を行うと言うのはそれだけのリスクがあると言う事である。
だがこれに対してノインの瘴魔化における治療方法が完全に確立すれば、戦闘を行う必要は無くなるかもしれない。
加えて瘴魔となった人が戻れば、その人と再び会う事が可能になるわけだから裁きの日以降瘴魔となった大人達――両親や当時十六歳以上だった者と再会を果たす事が出来る。
当然再会するためにはその者が瘴魔としてまだ新東京で生きている必要があるし、第一特定の人物を瘴魔の中から探す術など無い……もっと根本的な話をするならば、今まで殺してきた瘴魔に対する倫理的問題も捨てきれない。
つまりは治療が出来たから――治療を行える者の存在が広まったからと言って、それが認められるに至るまでの問題が多すぎて今すぐにどうにかなるものでもない。
それでも『瘴魔を元に戻す事ができる者』の存在が広まれば、様々な問題を無視してでも頼りにしてくる人達であふれかえるのは想像に難くない。
ましてやそのような人物を機関が野放しにしておくとは考え辛かった。
そうつまり『ノインが瘴魔を人に戻す事が出来る』という事実が広まれば広まるだけ、厄介事に巻き込まれる確率は上昇していくのである。
故にノインは闇市でエルを瘴魔から人に戻した事をフィーア以外のブルーメのメンバーには黙っていた、ノインが瘴魔を治療できる事が知れ渡ればブルーメには居られなくなるかもしれないという気持ちがノインにこの選択をさせたのだ。
勿論治療方法が曖昧で、それを行うノイン自身も説明する事が叶わないから黙っていた側面もある。
しかしやはりそれはオマケのようなもので、実際に話さなかった理由はブルーメと皆と共に生きていたいという願望が大半であった。
だがツェーンが半瘴魔化した事を受けて、彼女の治療を行う都合上……もうノインが瘴魔を人に戻す事が出来るという事実を少なくともブルーメに隠す事は出来なくなる。
それはつまりノインのこの特殊な力を知る人間が増えるという事であり、ノインのこの特殊な力が世間に知れ渡る可能性が上昇するという事と同義であった。
今回ツェーンを治療した事によってノインの噂が新東京に知れ渡り、ひょっとするとノインはブルーメを追われる事になるかもしれない。
そこまで理解した上でノインはツェーンを治療する事に決めた、例え追われる事になってもノインはツェーンを優先する覚悟を決めたのである。
それはブルーメと生きるためにユエを後回しにしたノインにとっては辛い決断であった。
だが共に生きると決意したブルーメのメンバーの一人が――ツェーンが窮地に立たされていると知り、それを無視する事が出来なかった……無視したくなかったという気持ちも存在していた。
しかしここまでの事実を重ねた重いはずのノインの覚悟も、フィーアの紡いだ言葉によって一瞬で崩れ去る。
「……えっと、ヌルやアインスさん達を含めた皆さんは、もうノインが瘴魔化を治療出来る事を知っていますよ?」
「おん?」
あまりに衝撃的な一言にノインが凍りつく。
そんなノインから出た言葉はおおよそ意味があるとは思えない二文字だった。
「ですから……皆さんは――正確にはツェーンを抜いてですが、ノインが瘴魔化した人間を元に戻す方法を持っている事を知っていると言っているんです」
「あ……いや、聞こえなかったわけじゃないんだよ。 え、何皆もう俺が闇市でエルを助けた事知っているの?」
「はい、三日ほど前に……」
「俺の覚悟をかえせよぉおぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉおおぉぉ」
ノインは心の限り叫ぶ。
これでもかなりツェーンを治療するにあたって、ノイン自身が持つ瘴魔化を治療できると言う異常性を打ち明けるか否かを相当悩んでいたのだ。
いや悩んでいたというのは正確ではない、もっと正確には闇市でエルを治療して以降どのタイミングで切りだしたものかと考えていたのであった。
何時かは当然話すつもりではいたのであるが、ツヴァイの救出が入った為にそれはどんどんと遅れていた――即ちツェーンの瘴魔化が、ノインが持つこの異常な力を打ち明ける事の背中を押したとも言える。
しかしこれから話そうとしていたところ……フィーアは既に「ツェーン以外のメンバーは知っている」と告げてきたのだ。
しかもその状態で三日も径過しているのだから……ノインの覚悟は完全に根っこの根っこから――寧ろ根っこが生えていた土台ごと折られてしまった。
「フィー……そういう事はもっと早く――ちょっと待て三日!?」
覚悟を折られたノインがフィーアに少しばかし抗議の言葉を返す。
だがその途中でフィーアの言葉が気にかかったのか、その抗議は最後まで紡がれる事無く別の質問へと姿を変える。
「三日……より正確には今日が拠点に帰ってきてから三日目の夜です。 つまりはノインが気絶をしてからおよそ四日が径過していると言ったほうが分かりやすいですか?」
「おいおい……今回は大分お寝坊さんだな俺」
ノインがツヴァイの救出において意識を失ってから、ある程度の時間が過ぎている事はノイン自身も理解していた。
何故なら気を失う前は夜では無かったし、そういった周囲から得られる情報から時間的な変化には起きた際に気付いてはいた。
だが問題はその長さにある。
今回の場合では、まさかツヴァイを救出に向ったあの日から四日も径過しているとは思っていなかったのである……だがしかしそれを告げられた上で考えるのであれば、フィーアとエルが既にかなり仲が良いのも納得がいく。
「本当に心配したんですから、その辺分かっていますかノイン?」
「あ……ああ、しかし三日――いや殆ど四日か…………おいそれってちょっとまずいんじゃねえか!?」
ノインは自身が眠りについていた時間を改めて正確に認識すると、焦りを覚える。
ノインが焦りを覚えた事……それは即ちツェーンの瘴魔化の進行具合に関する事だった。
「俺が眠っていたのが代替四日間だろ……それでもってツェーンの瘴魔化が四日前から始まっていると仮定するなら、こんな話をしている無駄な時間は無いんじゃないのか!?」
瘴魔化が起こった人間の侵蝕係数は、安定している人とは異なり日々増加していく……つまり瘴魔化が発症してから四日間放置されていたツェーンの現在の状況がノインには非常に気がかりであった。
「ノインが危惧している事は十分に理解できますが、先程も時間的余裕はあると言ったように……まだ暫くは大丈夫です」
「その根拠は?」
「まだ暫くは大丈夫」そう言うフィーアにノインは根拠を求める。
フィーアが言うからには大丈夫なのではあろうが、ノインは現在心を覆う不安を払拭するために少しでも言葉以外の何かが欲しかった。
「根拠はコレです」
「これは抑制剤??」
フィーアが車椅子に座るノインに差し出してきたのは、体内の瘴気の活性を抑える『瘴気活性抑制剤』であった。
体内の瘴気の活性を抑えるなど、順応者や適格者が怪我を負った際に侵蝕係数の増加を少しでも抑える為に用いる薬である――事実現在のノインにもこれが打ち込まれており、その所為で適格者であるノインの傷は未だ生々しくその体に刻まれている。
ブルーメに加入してからというもの、ノインはこの抑制剤に非常にお世話になっている。
だからこそ何回もこの薬を打ち込まれたノインは、この薬を差し出された事で直ぐに閃く。
「そうか……瘴気の活性を抑えて、侵蝕係数の増加を阻止しているわけか……」
瘴魔化による侵蝕係数の増加は、瘴魔化した事によって体内の瘴気が活性化する事に起因している。
つまりその活性化を抑制剤で抑える事で侵蝕係数の増加を抑えていると、フィーアは伝えてきたのである。
勿論ブルーメに備蓄されている抑制剤には限りがあるし、抑制剤を打ったからと言って完全に侵蝕係数の増加を阻止できるわけではない。
急いで治療を行ったほうが良いのは変わりなかった。
「それでフィー……ツェーンの侵蝕係数は?」
「そうですね……今朝の時点で『282』でしたので今は『290』を超えていると思います」
「『290』か……」
何時かフィーアに説明された侵蝕係数の話をノインは思いだす。
その時のノインの記憶は『200』後半にて身体的に変化が、『300』以上で完全な瘴魔に変化し始めると記録していた。
「成る程……余裕はあるが結構ギリギリなわけか…………だからこそ俺が瘴魔化の治療が出来る事を話したのか納得したよ」
フィーアがノインの許可無しに『ノインが半瘴魔化の治療を出来る事』を話した理由にノインがやっと辿り着く。
フィーアは納得した顔のノインを見て、車椅子を押す力を増しその速度を上げながらノインに話すために口を開く。
「納得してくれたようで良かったです。 ツェーンさんの状態を初めてみた時からノインなら治せるかもしれないと考えていました、だから誰にも手出しされないように最初の段階で皆には釘を刺しておいたんです」
そうつまりフィーアは『ノインが半瘴魔化の治療を出来る事』をブルーメのメンバーに話す事で彼らの行動を制限したのである。
もっと詳しく言うならば……ノインなら治療が出来る可能性がある為、ノインが起きるまで何もするなと言う圧をかけたという事である。
この新東京では瘴魔化を発症した者が、自我が在るうちに自殺……または人間としての自我があるうちに殺してくれと頼むのは珍しくない。
実際に醜い化け物に――倒す事が厄介な第三形態になる前に、その可能性を摘み……倒せるのであれば、新東京に住む者にも利点があるし、瘴魔化してしまった者も化け物になる前に人間として生を終える事が出来る。
寧ろ瘴魔化してしまった者はさっさと殺してしまう――言い方は悪いかもしれないが、新東京には現在このような流れがある。
当然他の人は瘴魔化の治療が出来るなんて事は知らないのだから、この流れを変えよう思う者は居ないし、否定する理由も無い。
故に半瘴魔化してしまったツェーンもこの流れに則り、早々に殺されてしまう可能性が存在していた。
だからこそフィーアはノインがこれを治療できる事を打ち明けたのだ、打ち明ければノインが目覚めるまでツェーンは生かされる――つまりツェーンを人間のうちに処分しようとする人間の行動に釘を刺せるのである。
その甲斐あってかツェーンは瘴魔化が発症して四日経ってもまだ生きているし、何とかノインもギリギリのタイミングではあったが目覚める事が出来た。
もう後はツェーンの治療を残すのみとなっていた。
「……この先にツェーンが……」
ノイン達は闇に満たされた回廊を移動し、遂にツェーンが居る部屋の前まで辿り着いていた。
限りなく平凡な木製の扉がノインの前に鎮座しているが、その先にはツェーンが――半瘴魔化したツェーンが居る、ノインは『ゴクリ』と喉を鳴らし、目を鋭く開く。
「ノイン……準備はいいですか?」
車椅子を押していたフィーアがノインに問う。
車椅子のグリップ部分を握るフィーアの拳に力が入るのをノインが感じて答える。
「ああ勿論だ」
ノインはツェーンが居る部屋へと続く木製の扉にゆっくりと手をかけた。




