第一章42 『二人の関係』
馬鹿みたいに長い時間を掛けて、ノインがフィーアの言葉を受け止めて出た反応は「は」の一文字だけだった。
時間をかけてフィーアの言葉を理解したわりには――いや実際は欠片も理解していないのかもしれないが……兎に角ノインは先程紡いだ一文字以外に紡げる音を失っていた。
「…………あ……えっと…………な……と……」
最早考えが纏まらず、色々な情報がグルグルとノインの頭の中を駆け巡り正常な思考能力を強奪していく。
そんな目の焦点も定まらずフラフラと体を揺らすノインを、フィーアが現実という名のナイフで容赦なく切り付ける。
「ツェーンさんが半瘴魔化したんです……先ずはこれを受け入れてもらえない事には先には進めません……」
「ツェーンが半瘴魔化した」そう告げるフィーアの言葉を必死で否定したい衝動に駆られる。
だがノインとフィーアには奇妙な信頼関係がある……つまり『フィーアが言っている事はノインにとって疑う余地の無い絶対的真実』であるのだ、ノインはツェーンが半瘴魔化した事を認めざるを得ない崖に立たされていた。
自身に去来する圧倒的な絶望感に苛まれながらも、ノインは何とかその喉から音を絞り出す。
「…………誰だ……」
「はい?」
表面上はひどく穏やかであるが、確実に憤懣を孕んだノインの声にフィーアが反応する。
「何が……ツェーンを……!」
「の、ノイン?」
フィーアから見て明らかに今のノインは異質であった。
ノインの奥から感じ取れる純粋すぎる黒い殺気にフィーアは掛けるべき声を見失っていた。
「なあ答えてくれフィー……人か? 瘴魔か? ツェーンが半瘴魔化した原因は何だ?」
「それを知って……どうするのですか……?」
それはあまりにも無粋な質問であったに違いない。
お互いの事を感覚的に把握できる二人にとって、夥しい量の殺意に塗れたノインがツェーンの瘴魔化の理由を知って起こす行動などフィーアには簡単に予測がついていた。
だがそれでもフィーアは聴かずにはいられなかった、フィーアの考えではなくノインの口から直接聞きたかったのだ。
そしてノインの口から出たソレを、フィーアは否定したかった。
つまりはツェーンの半瘴魔化を受けて、また無理をしようとするノインを許す事が出来なかったのである。
フィーアはノインを失う事を極端に恐れていた。
薄情と指摘されるかもしれないが、実はフィーアにとってツェーンが半瘴魔化した事はどうでもいい事であるのだ。
勿論ツェーンが助かる方法があるのならば、それに全力を注ぐだけの情や仲間意識は持ち合わせている。
しかし寧ろそれより大切な事は、ツェーンが半瘴魔化した事を知ったノインが無茶な行動を起こした時に考えられるノインへと降りかかる代償の大きさである。
それが大きければ大きいほど、フィーアの中でツェーンの半瘴魔化に対する対応の優先度は圧倒的に下がる。
これはフィーアがノインの記憶を取り戻すのに協力する姿勢と根っこは同じだ。
要はノインが望む事に協力はするが、もしその出来事が『死』と言う形でフィーアからノインを奪う可能性を孕んでいるならばフィーアはそれを全力で拒むという事だ。
ツヴァイを助けに言った時のようにノインがフィーアを連れて行くのであれば問題ない……とは言えないが、フィーアはある程度なら容認できた。
というのもそれであれば少なくともフィーアは、ノインに――最愛の人に危険が迫っている事を知らずに失う事はない……危機に関してそれを排除する努力が出来る。
例えその努力空しくノインを失う事になっても、傍に……一緒に居さえすればフィーアは直ぐにノインと同じ場所へ――ノインの跡を追う事が出来るし、ひょっとしたらフィーアは命を落とすかもしれないが、そのおかげでノインが助かるかもしれない。
それならまだフィーアは自身を納得させる事が可能であった。
だがノインにとってはフィーアもツェーンも等しくブルーメの守るべき存在でしかない。
つまりノインはブルーメのメンバーに等しく困っていたら手を貸し、命を脅かす何かが迫っていたら助けるという事である。
相棒という立場である分ノインの気持ちは、若干でもフィーアに偏っているのかもしれないが、基本的なノインのスタンスはブルーメの楯だ。
ノインは仲間の危機に関しては直情的なところがある、そんな状態のノインに――憤懣と憤慨に満たされたノインに、ツェーンの事を話せば暴走する可能性がある事は容易に想像がついた。
だからフィーアはノインに『ツェーンの半瘴魔化』の事を話すのはあまり乗り気ではなかった。
それを聞いたノインが無茶する事は明白であったし、それによってもしノインが暴走すればノインに齎される被害に想像が及ばなかったからだ。
それに何よりフィーアの支配欲がそれを許さなかった――つまりフィーアはノインに特別扱いされたかったと言い換えても良い。
それでもフィーアがノインにツェーンが半瘴魔化した事を話したのは、『ノインには殆ど害がない』かつ『ツェーンを半瘴魔化から救う事が出来る』の二つを満たすような策をフィーアが持っているからに他ならなかった。
だからこそフィーアはノインに「受け入れてもらえない事には先には進めない」と言い、ノインの直情的な部分を抑えようとしたのだ。
勿論それは失敗に終わっていた……案の定ノインは、フィーアからツェーンの状態を聞きその身に誰もが恐怖するほどの憎悪を纏った。
そしてその憎悪をぶつける先――行き先をフィーアに尋ねている。
それはある意味フィーアの予想通りではあった、ツェーンの状態を聞いたノインにフィーアが幾ら「取り乱すな」と勧告したところでそれが徒労に終わる事はある程度覚悟していた。
しかしそれとは対極に、フィーアが言った事であればある程度ノインはそれに従ってくれるのではないか……そんな期待も持ち合わせていた。
結果が前者であった事にフィーアは少し顔を不満色に染めると、とりあえずノインを落ち着かせるために動く。
「兎に角……落ち着いて私の話を聞いてくださいノイン」
「落ち着く? ……寧ろ何で落ち着いていられるんだよ!? ツェーンが――仲間が半分瘴魔になったんだ、直ぐにでもそれを止めるために行動しねぇと!!」
フィーアが「落ち着け」と言ってもノインは聞きそうにない。
その態度が理解できないわけではないが、フィーアはそんなノインの態度に先の事も合わさって若干苛つく。
「ああもう! 面倒くさいです、さっさと落ち着いてください!!」
そう言いながらフィーアは持ちうる全ての力を込めてノインを――ノインが傷を負っている部分を抓る。
流石に傷だらけの体にフィーアの抓りは有効的で、ノインは嗚咽を漏らしながら黙り込む。
「!! だ、だ、大丈夫ですかノイン! ごめんなさい……つい……」
若干苛ついていたのもあったが、思わずノインを抓った事にフィーアが謝罪を述べる。
だがどうやらフィーアがノインに与えた痛みは、ノインの狭まった視野と暴走気味だった思考回路を正常に戻すのには効果的だったようで、涙目になりながらもノインはフィーアの言っていた落ち着きを取り戻す。
「いてて……いや、こっちこそ悪い……取り乱すな、落ち着けって言われていたのにな……」
傷を摩りながらノインがフィーアに告げる。
その様子に先程行ったノインへの攻撃が大事無い事と、ノインが纏っていた夥しい量の殺気が消えた事をフィーアは確認すると、改めて冷静になったノインに頭を下げる。
「いえ、ノインがある程度ああなる事は理解していたのにも関わらず……ノインは私達の為にこんな大怪我を負ったのに私は…………」
ノインを落ち着かせる――黙らせるために、咄嗟に手が出た事実にフィーアは自責の念に駆られる。
思い返せば思い返すほどに、怪我を負った者への態度としては最低だったとフィーアは認識し、しかもそれをノインに行った事に自身の目に零れそうなほど大きな涙を浮かべる。
だが元はと言えばフィーアに「取り乱さずに……落ち着いて」と言われていたのにも関わらず、それを無視したノインが悪いのだ。
想像以上に元気を――活力と気鋭を失ったフィーアにノインは慌てて言葉を送る。
「いや……フィーは悪くない! 悪いのは俺だって……フィーの言う事も聞かずに自分勝手に振舞って」
「いえ……私達のために傷を――命をかけてくれたノインに手を上げた私が悪いんです……何で……なんで……」
そこからは罪の擦り合い……ではなくどちらも自分が悪だと主張する、罪の取り合いが始まった。
それが収束しそうな頃には、もうそこには何時もと違う二人の距離間の居場所は無かった。
「……だから俺が!」
「いえ、私が!」
「………………………………………………」
「………………………………………………」
暫しの静寂の後、ノインとフィーアが互いの顔を見て同時に零す。
「「ふ」」
その一文字を皮切りに二人の笑い声が重なる。
ノインは笑う事によって全身の傷が痛むが、今はそんな事が気にならないほど何故か幸せな気持ちに満たされていた。
何が可笑しかったのかは分からない――ただ一頻り笑い終えたところで、フィーアが目に浮かべた涙を右手の人差し指ではらいながらノインに言う。
「それでですねノイン……ツェーンを助けられる方法があると思うんです」
フィーアの言葉にノインが頷く。
「そうだな、フィーアの言う通りだ……多分俺なら出来るだろうな」
冷静になったノインにはフィーアがツェーンを助けるために描いているビジョンがある程度理解できていた。
気付けば簡単な事で、寧ろそれに気付けなかった己を恥じるくらいであった。
「ノイン……私達の仲間を――ツェーンを救ってあげてください」
「ああ任せとけ」
この日を境にフィーアとノインはお互いの関係を一つ深化させた。




