第一章38 『未だ目覚めぬ』
目を開くとそこは真っ黒な空間だった。
辺りを見回してもそこには何も存在せず、新東京における人や瓦礫も……あの忌まわしき瘴気でさえそこには無かった。
そんな果てしなく広がる黒にノインは困惑の一言を零す。
『ここは……一体?』
しかし困惑の一言を零したノインは異変に気付く。
光が冒涜されたこの世界においてノインの零した物は、音として認識されなかったのである。
それが意味するところはつまり、ノインにはおよそ口と呼べるような器官が現在存在していないと言う事を意味していた。
『はあ!? ちょっと待って……俺に何が起こった!!』
現在の自分が口を持たない事を正しく認識したノインは、素直に混乱する。
彼も十九年近い歳月を生きているが、口という器官そのものを失った経験は始めて――そもそもそんな経験をした者がいないだろう……混乱は妥当と言える。
しかし彼の器官的損失は口だけに留まらなかった。
口以外の器官を確認したノインは、口だけではなく自身の肉体さえ失っている事に気付く。
通常なら少し視線を動かすだけで確認できた腕も脚も体も、そこには何も無かった。
そこまで来ると口を失ったという表現は最早適切ではない、もっと正しくは肉体を失ったと表現するべきであろう。
だがこの事実にノインがさらに混乱を深めるという事にはならなかった、むしろ口を失ったと思っていた時よりも気分は落ち着いていく。
『果たして肉体を失った自分はどのような姿で存在しているのか?』と言う疑問は残るものの、このあまりにも非常識すぎる状況をノインは夢かそれに近しいものではないかと察したのである。
『さて……どうしたもんかね……俺は、えっとどうなったっけか』
肉体は失っているものの正常な思考は許されているため、ノインは直近の記憶――自身の最後の記憶について検索をかける。
するとそれは、ノイン以前の記憶とは対照的なほどすんなり手に入れる事が出来た。
『そうか……思いだした。 確か特異体に襲われたツヴァイを助けに行って、それで……』
考え巡るノインに広がったのは自身が暴れた情景、フィーアが死亡する未来を視て己を失った記憶――そしてそんな暴走した自分をフィーアが元に戻してくれた記憶だった。
順に思いだしていくと、肉塊となった特異体が引き寄せていた瘴魔を一掃してからの記憶はなく、その意識のない時間帯――即ちフィーア達に任せたそれ以降の物語の運びが気にかかった。
だが今はそれを追及している時間をノインは持ち合わせていない。
この悍ましい空間が、ノインの予想通り夢やそれに順ずるものに由来して形成された物であるならば、フィーア達の現在の状況を知るためにも一刻も速くこの空間から脱出する必要があった。
『肉体無くして、どうやってこの空間から出ますかね……まあ夢だとするなら、きっと今の俺は俺の精神的な何かだろうから……目覚めるのに肉体はいらないか? いや、そもそも夢――睡眠からどうやって自分の意思で目覚めるんだ??』
まるで新東京で始めて目覚めた時のような……あの灰色の壁の近くで始めて目覚め、右も左も解らず異世界を疑った時のような――いや、現在の新東京の状況を考慮し、旧東京と比べれば此処は十分異世界と呼べるものなのであろうが。
兎に角あの時行ったような軽い自問自答を繰り返す。
ただ、一人で目覚めたあの時と今回とで決定的に違ったのは『ノインにすぐ状況を説明してくれる人の有無』であった。
あの時は、瘴魔から助けられその後ブルーメのヌルとフィーアに新東京に関する事を教えてもらったが、今回は自分以外にも存在がもう一つあった。
今までこの真っ黒な空間に自分一人だと思い込み、その存在に気付かなかったのは新たに存在として現れたからか、それとも他の要因が関係しているからかは分からない。
ともあれノインがその存在に気付けたのは、その存在がこの空間から脱出を試みるノインに会話を――コンタクトをとったからである。
「なぁ……この夢はじきに覚めるからもう少し落ち着いたらどうだ……」
『……え?』
ずっとこの空間に一人だと思い込んでいたノインにとってそれはまさに青天の霹靂。
まさかこの狂った意味不明な世界で、自分以外の……別の誰かに話しかけるなど想像もしておらず、ノインを激しい衝撃と驚愕が襲う。
しかし驚いたのも束の間、さらなる衝撃――真っ黒な世界で他者と邂逅するよりも遥かに巨大な衝撃がノインを呑み込んだ。
『お……俺ぇぇぇぇえええええぇぇぇええ!?』
そう肉体の無いノインに話しかけてきたのは、肉体を持ったノインだった。
真っ暗な狂気の世界で他者と邂逅するだけでも奇跡に近い出来事だったのだが、その他者と言うのが他者でなく、自分であったのだからノインは口無き状態でも全力で驚きを叫ぶ。
「うるさいな……あんまり叫ぶなよ……なぁノイン?」
『な、な……ん。 なんで俺が居るんだよ、俺は俺で一人のはずだろ? え、まさかここで双子とか言う設定出てきちゃう?』
混乱でどんどんと口の回る速度が上がっていくノインを見て、肉体を持つノインは溜息を零す。
「頼むから少し落ち着いてくれ、これじゃまともな会話も出来ないだろ? ……それに本当はノインだって俺が誰だかは理解しているんじゃないのか?」
『は? それって一体どう言う――』
「どう言う意味もクソもない、俺はお前でお前は俺だ……まあ今は別々になっちまったけどな……」
そう言いながら肉体を持つノインは自身の頬をポリポリと掻く。
それを見ながらノインは、肉体を持つ自分が言った言葉の意味を解釈する事に全力を注ぐ。
そしてある可能性に辿りついた。
『そうか……お前がユエか……』
「大正解……お前がノインとして生きる事になった――いや、お前が忘れてしまったお前の過去のような物であり者だ」
そう言いながら肉体を持つノイン――ユエはノインの前にゆっくりと腰を下ろし続ける。
「今まではずっと出て来る事は叶わなかったんだが、ノインお前『瘴腕』を使っただろ? あれは俺が教わった技でな……お前は無意識に使ったのかもしれんが、それをお前が使おうとした所為で固く閉ざされた扉の向こうから一時的にこちら側に渡れたってわけだ」
『瘴……腕? あの紫の固体を纏った腕の事か?』
「ああお前の想像で正しいよ、元々闇市で少女の瘴気を喰ったり、体内の瘴気を眼に移動させたり……俺の持っていた技術の記憶を引き出していたから、記憶の扉はかなり緩くはなっていたんだが、決定的に記憶の扉を開けたのはあの瘴腕が原因だな」
『つまり……俺がその瘴腕ってのを使うために、固く閉ざされていた過去の記憶――ユエの技術を、扉を開けて使ったって事か』
「まあそう言う事になるな……それでいきなり扉を開くもんだから、俺の十九年近くある記憶が、一瞬のうちにノインに流れて混乱――暴走したってわけだな……」
『……なら俺はもうユエとしての記憶を取り戻したって事か?』
「いやまだだな……今記憶の扉がゆっくりと閉まっている、きっと閉まりきったらまた過去の事を――ユエとしての記憶は失うだろう」
ノインはユエとしての記憶を取り戻す事を目指しているが、ユエの言った「記憶を再び失う」と言う事に関してそこまで落胆する事はなかった。
というのもノインにとってはブルーメで生活できればそれで十分なのだ、別にユエとしての記憶を取り戻す事については急務でも絶対条件でもない。
「やっぱりそこまで残念そうな顔はしていないな……」
『あぁ……ユエとしては不満かもしれないが、俺は今に――ブルーメの皆とこの世界を生きる事に楽しみを、生の実感を覚えているんだ。 別にユエの記憶が欲しいわけじゃない、ただ自身の過去をしっておきたい……俺が取り戻したい理由はこれだけなんだ……』
ノインの言葉にユエが少し残念そうな顔をしたのをノインは見逃さなかった。
「そうか……それは少し残念だな、お前が取り戻したいと言うならば記憶の扉が閉じかけている今なら何とか出来たんだがな……」
『あ~何となくわかるよ……アレだろ、閉じかけている記憶の扉の先にユエじゃなくて、俺が行くんだろ?』
「ああそういう事だ、だがそうすれば当然ユエには戻るが――」
ユエが言いかけたその言葉にノインは被せる。
『――ノインは消滅する』
被せられたノインの言葉にユエは頷いて肯定を示した。
『悪いが、俺はどっちも所持していたいんだ……ユエもノインもどっちも欠けちゃ駄目な気がするんだ……欲張りなのよオレ』
そう告げるノインの言葉にユエは少し前に見せた残念そうな顔とは対照的なほど、綺麗な笑みを浮かべる。
その笑みはノインの欲張りと言う発言に対して「俺も同じだ」と言っているように感じられた。
「そうか……そうだな。 ならこの肉体は返すよ……お前が入れ」
『え……でもいいのか? ユエだってきっと待たせている人がいるんだろう?』
『肉体を返す』その意味は『主導権はノインになる』という事である。
そうなればユエは再び封じ込められてしまう、つまり次は何時出てくる事ができるかは分からない。
ノインでさえ待たせている人がいるのだ、それに比べてユエはノインの肉体を十九年近くも使って生活している。
関係を持った人々の数はノインの比じゃないだろう。
「ああ大勢の人を待たせて、んでもって迷惑をかけていると思う。 だが言ったろ「俺はお前」なんだ、お前がブルーメと共に生きたいというのも理解できるのさ」
記憶は違っていても、やはり根本的な部分は違えていないのだ。
ユエはノインの気持ちを簡単に共有する事が出来た。
だがらこそ肉体の主導権を巡る争いが、両者の意識がはっきりしているこの場で起こる事は在り得なかった。
『そうか……悪いな、絶対お前も――ユエも取り戻すから』
「あぁ頼むぜ、だがゆっくりやってくれて構わない。 きっと俺がいなくてもあいつらは――待たせている人達は上手くやるだろうからな……」
完全に信頼しきった目で遠くを見つめるユエを見てノインが言う。
『信じているんだな……』
「ああ」
ユエの発言に、そこまで信頼できる仲間が過去の自分に居た事を嬉しく思う。
だがそれと同時にノインは、そんな仲間を羨ましく思い、またそんな仲間を忘れてしまった事を情けなく思っていた。
「ま! 兎に角だノイン……お前が目覚めれば、俺は記憶の扉に戻って消えちまう、だからその前に教えてやろうと思ってな」
『教えるって何をだよ?』
「どうせここで幾らユエの記憶をノインに喋ったところで目覚めりゃ消えちまう。 だから瘴腕の使い方を教えてやるよ……あれは技術だ目覚めても消えずに残るかもしれないし、実際持っていたら何かと便利だぞ!」
『それはありがたいな、是非頼む』
「任せとけって、俺も戻る体がなくなるのは嫌だからな」
ユエの指摘にノインは今までの瘴魔との戦闘で無理していた事を少し反省する。
確かにノインはいつも生と死の間を彷徨っている。
『ワリ、今後はもうちょっと気を付けるわ』
「ほんと頼むぜ……んじゃ何時目覚めるかも分かんねぇからさっさと始めるぞ、とっとと肉体に入りやがれ」
『ああ』
その言葉と共に真っ黒で光を冒涜していた空間には光が差し込む。
それからどれくらい時間が経ったのか、ユエとしての記憶全てを忘れてノインはゆっくりと目を覚ました。




