第一章31 『自我』
ノインが盛大に鼻血を撒き散らす。当たりどころが良かったのか、威力が強かったのか……ドクドクとまるで心臓の鼓動に合わせるように血が滴る。
ノインの鼻から滴る血液が、下に居るフィーアを汚す。
それを受けて慌ててノインは、自身の鼻を紫色の結晶を纏っていない方の腕で押さえる。
そしてそんな行動に出たフィーアに文句を言う。
「〜!! ――いっ……痛ってぇな! 何すんだよフィー!?」
「!! あ……あ……の、のいん? ノイン!!」
フィーアはノインの鼻に頭突きをしただけだ、そこに何かノインを正気に戻すような要素があったとは思えない。
だが事実としてノインが戻っている、原因究明は後回しにフィーアは喜びを全身で表す。
「ノイン良かった! ノインなんですよね? そうですよね?」
「? 当たり前だろ……いちいち聞くまでもないだろ……代替俺が俺じゃないってどう言う――アッ……ぐゥ!」
安心したのも束の間、再びノインの様子が怪しくなる。
一時的な痛みでノインの人格がユエを抑え込んで前に出ているのだとしたら、今起こっているノインの苦しみはユエが出てくる兆候なのではないかとフィーアは予測する。
もしユエに戻ってしまえば、今度同じ道を辿ってまたノインを引きずり出せる保証はない。
だからこそ今回のチャンスを――偶然とも呼べる奇跡との邂逅を逃すわけにはいかなかった。
「ノイン頑張ってください! 兎に角記憶の扉を急いで閉めてください。 今すぐです、今すぐです、ハリー!!」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ! これが俺の記憶? つかどうやって閉めれば――ッ〜う!」
ノインが必死に自身を保とうとしているのがフィーアにはわかった……当然それが上手くいかない事も含めてである。
だからこそフィーアもノインの記憶の扉を閉める手伝いをしようと慌てて行動を起こす。
「と、とりあえずノイン、もう一回頭突きしましようか?」
「いや待ってくれ! 流石にこれ以上の出血はマズイ――ってあれ?」
ここまで会話してノインが違和感に気付く。
自分を失う前は確かに音の通り道は潰れていたはずである、声など出そうと思ってもそれは嗚咽に強制的に変換させられていた。
「声が……出てる!? それに身体中の傷も何だが軽微になっているような気が……」
「な、何だが言われてみれば、私もそんな気がします。 ……本当にもう一回頭突きを試してみましょうか?」
「よし。 俺が――ッ。 押し潰される前に……頼む」
「それじゃいきますよ! 三、二、一――」
フィーアの頭突きまでのカウントダウンが始まる。
しかしそれは後一秒のところで起きた現象によって阻止された。
「傷が軽微になった気がする」そう言ったノインの体から血が噴き出したのだ。
まるで『ピュー』と擬音が付けられるほど勢い良く、ノインの体から血が飛び出す。
「あ、ちょっと待ってストップ、ストップ! 今頭突きされたら今度こそ絶命するから。 だからフィー、何で頑なに構えを解除しようとしないの!?」
今にも頭突きを繰り出しそうなフィーアを、ノインが慌てて制止する。
結局のところ『傷が軽微になった気がする』と言うのは、気がしただけで全然そんな事はなかったわけである。
「くっそ、最悪だ。 痛えし、自分の記憶に抑え込まれそうになるし……」
「ノイン兎に角ファイトです、記憶の扉なんてぶっ壊しちゃってください」
「いや、ぶっ壊れたらマズイだろ……最悪もう開かないんちゃう?」
「私的には全然それでオッケーです」
「……おい……」
いつも通りのフィーアにいつも通り返答する。フィーアへの対応はノインしか出来ないのだ。
露骨に前面には出さないが、ノインの体はユエによる抑え込みを回避するために必死だった。いつも通りの会話をしながらも発汗が止まらず、体中は大量の汗で湿っている。
そんな今にも千切れそうなノインの自我が織り成す糸を、ユエの自我と言う鋏から守っていたのはフィーアの声であった。
「……くっ……ア……」
ノインの中でノインとユエが激しく自我を――体の主導権を求めて争う。
その戦いの終着点にはノインの叫びの後に辿り着いた。
「あァアああぁあああああぁああアああァあ」
ノインが両手で顔を押さえて叫ぶ。
その叫びが、両者の自我争いにおける決着の兆しであった。
叫び終わり、両手で顔を押さえたまま硬直するノインをフィーアは固唾を呑んで見守る。
次に聞こえる声が、ノインが発するものならフィーアは狂喜するだろう、だがもしユエが発したものであるならフィーアはまたノインを引き摺りだすところから始めなければならない。
フィーアは当然自我の争いにノインが勝利すると思っている、だが万が一――万が一にもノインが記憶の扉を閉める事ができなかった場合に、それを行えるのは相棒であるフィーアだけだ。
故にフィーアは構えをとり、ノインの言葉を待った。
未だ硬直治らぬノインにフィーアの緊張が高まる。
発せられるはずの言葉を待つ時間が悠久の時のように、途方もなく続く歳月のように感じられる。
『待ち遠しい』この言葉が今のフィーアを表すのに最も適しているだろう。
そしてその時は訪れる。
「――――――――――――」
ノインの口から息が漏れる、それは言葉ほどの意思を持ってはいないが、フィーアには何か重みのある意思に感じられた。
ゆっくりと手を動かすノインをフィーアは食い入るように見る。手が排除され、徐々に晒されるノインの顔にフィーアの視線はもう釘付けであった。
「ごめんフィー……心配かけた」
優しく掛けられたその一言にフィーアは貫かれる。
フィーアが見た顔、そしてフィーアが聞いた声はノインのものであった。
それが意味する事はつまり、ノインとユエの自我争いにノインが勝利したという事実だった。
ノインの声をフィーアが最後まで聞いたのかは分からないが、ノインが元に戻った事実を前にフィーアの体はノインの方へ既に駆け出していた。
「のいん! ノイン、ノインでいいんですよね?」
目に溜まった涙が今にも零れ落ちそうなフィーアが抱きつく。
「ああ……たぶん? きっと、メイビー?」
「なんですかそれ、ひょっとしたらノインじゃないかもって事ですか? メイビーじゃなくて十中八九にしてくださいよ」
そう言うフィーアの顔は、涙と笑みで混ざりきった表情になる。
そんな愛おしいフィーアの髪を撫でるために伸ばした手を見てノインが気付く。
「え……なんじゃこりゃぁぁあああああ」
ノインは紫の結晶に包まれた自身の腕を見て絶叫する。
自分が見た自身の腕の異常性を、信じられないという気持ちと、顔を覆った時手ではない感触がしたため受け入れようとしている気持ちが入り乱れる。
「え……ちょ? フィー、何これ……どうなってるの?」
「さぁ私に聞かれても……ノインは覚えていないのですか?」
そう問われ、ノインは最も近い記憶にアクセスする。
そして思いだしたのは空白の、何も存在し得ない虚無の気持ちだった。
「……そうだ、フィーを失う未来が視えてそれで…………頭が真っ白になって、そこからは……」
フィーアが瘴魔の腕に貫かれた未来を視てから先の事をノインは覚えていない。正確に言えば何だかぼんやりとした、曖昧模糊な記憶はあるのだが……その記憶も暗い悪夢のような苦しいものであまり思い出したくはない。
つまりノインの記憶を今一度整理すると……フィーアが死ぬ未来を視た後、気付いたらフィーアの頭突きで鼻血を出していたという事になる。
故に何故自身の腕が、まるで闇市で見た少女の特異体のように変異したのかはノイン自身にも理解が及ばない。
「まぁいいか、今は考えていても仕方ないし……とりあえずフィー、助かったあれから戦況はどうなった?」
「はい……先ず現在の瘴魔が、ツヴァイさんの撃っているアレです」
そう言ってフィーアが指さす方向には確かにツヴァイの姿があった。たが瘴魔らしきものは見当たらない。
一瞬消失の可能性を考えたノインであったが、それではツヴァイが射撃できている事と噛み合わなくなってくる。そこでまさかとは思うが、ツヴァイの先にある物に注目した。
「なぁフィー、瘴魔ってもしかして……あの肉の塊みたいな、赤くて丸いやつ?」
「はいそうです」
短めに告げられた肯定の言葉に、ノインの驚愕が爆発した。
「はあああああああああ? 何でだよ、あんなに苦戦していたのに……どうして肉塊に成り果ててんだよ」
「あれ、ノインがその腕でやったんですよ。 覚えて――ないですよね」
「まじかよ……ちょっと俺強すぎんだろ……」
ノインは、自身が瘴魔を容易く屠ったと聞いても俄かに信じる事が出来ない――だが記憶がないのだから自分で自分を否定する事も出来ない。
そもそも、フィーアが「ノインがやった」と言っているのだから、ノインには疑う余地などない、ただ受け入れるのに時間がかかるだけである。
驚きながらも状況を把握するために周辺を見渡す。
瘴魔が肉塊となっているくらいだ、他にも大きな変化があってもおかしくはない。
「瘴魔が肉塊になった事以外は……特に進展なしと言うか――俺が暴れていたからか」
「そうですね……ノインが暴れ出して意図せず瘴魔を肉塊にして、ツヴァイさんは肉塊の監視を、私はノインの対応を、アインスさんは保険として魔業の解析の続行を……と言ったところでしょうか?」
「俺置いて逃げれば全員生き残れたんじゃねえの?」
「ノイン……怒りますよ? それは全員ではありません」
「そうだな……悪い…………さてと! 俺も正気に戻ったんだ、さっさと脱出しちまおう」
「ですね、急ぎましょう」
フィーアとノインは、目を合わせて頷くと移動のために足を動かす。血が圧倒的に足りないノインは相変わらずふらついているが、フィーアに支えられながらも一歩ずつ進む。
厄介な瘴魔は肉塊となり、脱出における最大の懸念であったノインも正気を取り戻した。後は全員でこの場から脱出すればそれで終わりのはずだった。
だがやはりと言うべきか、こんな最悪な世界では思うように事は運ばない……ノインとフィーアが脱出を二人に提案しようとした時、一瞬にして嫌な――不吉な予感が場を支配した。
「な、なんですか……この背筋が凍るような気配は……」
「わかんねぇ……わかんねえけど、随分と嫌な気配だ……」
そんな不吉な気配……殃禍の予感がする鐘の音は、あの肉塊から放たれていた。
今は肉塊となってはいるが、元々は瘴魔であるのだ……気を抜けば再生が始まってしまうように侮らないほうが身のためである。
そんな要注意対象の肉塊が何やら好ましくない何かを発している。素直に脱出させてくれないであろう事は容易に想像がつく。
肉塊から発せられた不吉な何かを感じ取ったフィーアとノインであったが、当然アインスとツヴァイもそれに気付いている。
むしろツヴァイは誰よりも肉塊に近かったからか、受け取った者の中でもその不吉な何かの正体に一番近いところに居た。
「オイオイオイ、マジか! 皆やべぇぞ、コイツ……此処に他の瘴魔を呼んでやがる!!」
そんな焦りを多分に含んだツヴァイの声を聞いて、誰もが不吉な何かの正体に気付いた。




