第一章30 『喧嘩をしましょう』
果たして『う』と『る』の文字列が何を意味するのか、それを知る事はフィーアには出来ない。
ただ理性の欠片を取り戻したのかノインが発したその言葉に、フィーアはノインが自分を誰か別の人と勘違いしている事が何故かわかった。
だからフィーアは推測する……きっと今のノインはユエなのだと、記憶が混乱しているのではないかと。
ノインから溢れ出る異常なまでの後悔の念、そして人の名前であろう「潤」と呼ばれる存在。
その二つは密接に関係しているに違いない、となればノインと――正確にはユエと潤の間にはかなり強い繋がりがあったのだと想像するのは容易い。
だがその仮説はフィーアにとっては面白いものではなかった。
今フィーアの面前に居るノインは、きっとノインとしての割合が少なく、ユエとしての割合が多い。事実、フィーアを見てもそれをフィーアと認識できず、あまつさえユエの記憶の人物を重ねて見ている。
『潤』響きからして女性の名前だろう、ノインが現在ノインとしては正常の状態ではなかったとしても、ノインの心に誰か自分の知らない特別な女性が居るのは腑に落ちないものがある。
闇市で見た少女の特異体のように豹変したノイン、特異体の瘴魔、魔業の解析……そんな複雑な状況下でもフィーアの恋心――とりわけ嫉妬は冷静に働いていた。
「フュンフの時とは違って、顔が分からない相手だと腹の立ち方もまた違うんですね……さて……と……」
フィーアは自身の唇を舐める。真剣な顔で考えるのはどうやってノインを元に戻すかだ。
ノインは記憶を取り戻すつもりでいる、その事にフィーアは賛成だし、取り戻す事への協力は惜しまないつもりだ。
豹変したノインは、恐らく記憶の扉が開きかけている。記憶の回復という一点においては今の状況はむしろ好機なのかもしれない。
しかしこの状況が、ノインが望んでいた記憶の回復と一致しているとはフィーアには思えなかった。
きっとノインは、ノインを生かした上でユエを取り戻す――つまりはノインとユエの共存を望んでいたに違いない。
今のような――ノインが抑え込まれユエが支配している、こんな記憶の回復しかないのならきっとノインは記憶が戻る事を拒絶するだろう。
それだけノインにとって、ノインとしての自分が大切だった事は彼の日々の行動や言動からフィーアには簡単に予想できた。
豹変したノインは恐らく暴走状況――ノインの意思で体のコントロールが出来ない状態だとフィーアは考えている。
だからこそノインを戻す事ができるのは外的刺激――外部の人間による干渉がその役割を担う。
「……ノインが記憶を取り戻したら……過去の自分を取り戻したらどうなるんでしょうか?」
フィーアの口から溢れた質問に、当然ノインは返答しない。
それでもフィーアは、紫に染まる空を見上げながら言葉を続けた。
「潤さんという人の所に行ってしまうのでしょうか……それとも……」
記憶を取り戻したノインがどのような行動に出るかは、フィーアには分からない。
記憶を取り戻す手伝いに協力を惜しまない姿勢のフィーアだが、それはノインが望んでいるから手を貸すのであって、過去を――ユエを取り戻した事によってノインが自身の前から居なくなる結果を招くのなら、フィーアはノインに記憶を取り戻させないように振る舞うだろう。
記憶が戻る事で今の関係は続けられなくなるかもしれない……その懸念は最初からあった。しかし出来る限りノインの意思を尊重したいフィーアは、その気持ちに蓋をして過ごしてきたのだ。
ノインを抑えこみ記憶の扉を開こうとしているユエを前に、フィーアがした不安の蓋は外れかかっていた。
「不安なんです……ノインが私の前から居なくなってしまう事が……失う事が…………。でも、きっとノインがどんな行動を選択するかなんてその時にならないと分からないのでしょうね……」
代わり映えも無く紫色に満たされた空は、フィーアの上で渺々と広がる。そんな空を眺めていた目を再びノインの方へ向けた時、既にフィーアの目からは不安が無くなっていた。
「ノインがどんな選択をしても……そう例え私の前から居なくなっても、私が連れ戻します。 潤さんに奪われても、フィーアが……いえ、梢が奪い返して見せます、そこにノインの意思は関係ありません。 …………それでいいんですよね、きっとこれが私の……」
フィーアは自身の気持ちが出した答えに辿り着いていた、正しく言えばこの答えはノインに惹かれた時から出ていたのかもしれない。ただ今回のような――ノインの記憶が実際に開きかけた状況を受けて、気持ちに対する覚悟と正確な認識をしたのだった。
もうフィーアには迷いが無い、成すべき事はあまりにも明確だった……だから。
「さあ喧嘩をしましょうノイン」
その決意の言葉と共に、フィーアは自身の胸に輝く白銀の胸甲を取り外して地面に落とす。
記憶を取り戻す事をノインが望んでいても……それが本来あるべき形でないなら、フィーアがやる事はその中途半端に開いた記憶の扉を再び閉める事、ノインを取り戻す事。
もしかしたらノインはそれを望んでいないのかもしれない――開きかけの記憶の扉に身を委ね、記憶の回復を願っているのかもしれない。しかしそれはフィーアが許さない、フィーアが納得できない――要はその二つのぶつかり合い……争いかどうかも曖昧な喧嘩だ。
「行きますよ……戻すなって今更言われても遅いですからね!!」
強く地面を蹴ってフィーアが駆け出す。自分の体を操るセンスに欠けるフィーアにしては、その動きは思わず見惚れてしまうほどに美しく行われた。
駆け出したフィーアは鼓動一拍分の時間でノインの懐に辿り着く。ノインは何をするわけでもなく、ただフィーアの行動を見ている。
そして鋭くノインの頭に、握り締めた自身の拳を叩きつけた。
「――!?」
その行動は予想していなかったのか、ノインの顔が驚愕に染まる。だが驚愕に染まったからといって、フィーアに敵意や悪意が――あの悪辣な迫力が向けられる事はない。
「驚きましたか……ショック療法でしたっけ? ……まぁ、あの殴って何とかするアレです!」
フィーアは、狙いは潜伏させて早口で言う。
当然ショック療法を信じて拳で攻撃した気持ちはあった、しかしながらそれが十割というわけではない。フィーアが真に狙っていたのは初めてノインと会った――正確にはユエと初めて言葉を交わした際のやり取りの再燃。
実にくだらない話……けれど初めてお互いが交わした言葉。ノインが戯けてフィーアがそれに返した、ただそれだけの……思い出の軌跡をなぞる。
だがそれでもノインには届かない。フィーアの考えている以上に、ユエに抑えこまれているノインの部分を叩くのは困難なようだった。
元々そこまで期待はしていなかったフィーアであったが、それでもノインの反応が驚愕だけで、少しも思わせぶりな態度がないのには若干気分が落ち込む。
だがその程度で立ち止まるほどフィーアは弱くもないし、優しくもない。
すぐさま次の行動に移行しようとする、しかしその行動を阻害したのはノインだった。
「え?」
ノインがフィーアに向って両手を伸ばした事と、先程思いっきり拳で殴った事から、警戒をしていたフィーアだったが……その両手が自身を優しく抱きとめた事に不意を突かれる。
紫色の結晶を纏ったノインの片腕が、抱きしめられる際に背中に接触して痛い。だがそんな痛みなど意識できないほどに、フィーアは嬉しさや照れと言った感情と、戸惑いや困惑と言った感情で満たされていた。
そんな気持ちの整理もつかないフィーアを置き去りにして、ノインは言葉を紡ぐ。
「ごめん……本当にごめん…………怒っているよな? 殺す気なんて無かった……ただ潤を助けるために…………本当にごめん……」
耳元で連呼される謝罪の言葉に、フィーアの羞恥や高揚感が一瞬にして消し飛ぶ。
予想外に気持ちの良い――ノインに抱きしめられる心地の余韻を惜しみながら、フィーアは自身の小さな体躯を利用して抱擁に隙間を作りだし逃れる。
「絶対にノインに戻しますから、そしたらもう一回やってもらいますからね!」
抱擁から脱したフィーアは、全身を使ってノインの腹部に腕を回し抱きつく。ノインの腹部に自身の顔と肩を押し付けて回す腕に力を込める。
だがやはりノインから受けた抱擁と、自身から行う抱擁では感じる至福には大きな差がある。
「ノイン――戻ってきてください! ユエでも潤さんでもなく、ノインとして――私のために!」
全力で叫びながらフィーアは、腹部に押し付けていた自身の頭を上に高速で移動させる。力強く両足で地面を蹴ったためか、フィーアの頭はかなりのスピードに達している。
ノインの抱擁を逃れ腹部に抱きついたフィーアを、ノインが覗きこむには体格差の関係上ノインは下を向かなければならない。
そんな下……顔を向けている方向――もっと言うなれば腹部からフィーアの頭が高速で迫ってくる。
結果としてフィーアの頭は、フィーアの叫びと共にノインの鼻を斟酌なく貫いた。




