第一章29 『覚醒の兆し-肆-』
地と空間を容易に裂く化け物にフィーアは戦慄する。
足はガタガタと震え、まともに歩けそうもない。自身の意思を離反して独立で動く体は、フィーアの恐れを見事に表現していた。
そんなフィーアの襟を掴んで後ろに引き摺ったのはツヴァイだった。
「とりあえず下がれフィーア!!」
「なっ!? 離して下さい!!」
豹変したノインを見て、お調子者のツヴァイでも流石にフィーアの後に『ちゃん』を付ける余裕はない。
やや乱暴に後ろに退かされた事にフィーアは抗議する。その内訳はノインから離れたくないという気持ちが九割、残りの一割は消失無効の維持である。
当然ツヴァイも瘴魔の消失を考慮していないわけではない。不満で爆発しそうなフィーアを見ながら告げる。
「兎に角一旦落ち着け……焦りは盲目の原因だ。 冷静になれない奴は僅かな可能性の光も見逃すぞ!!」
早言気味にツヴァイが責める。
そんな正論で攻撃されたフィーアも少しは熱が下がったのか、襟を掴まれる事に大きな抵抗は見せない。
「それにアレを良く見てみろよ」
フィーアを引き摺りながらツヴァイが頤で場所を指し示す。その方向に目線を向けると、そこには肉塊となった瘴魔が居た。
「あれがどうかしたんですか……ノインに攻撃されて、先程バラバラになったところを見たじゃないですか……」
「だから落ち着けって言ってんだ……不思議に思えよ、何で見えてんだってな」
「あ……」
指摘されてフィーアはやっと理解に至った。
ツヴァイに引き摺られて退く事に対する不満の中には『瘴魔の消失を無効化するために、誰かが瘴魔に触れ続けなくてはならないから離れられない』そんな気持ちが極僅かだが存在していた。
当然その気持ちはノインへの恐怖や、ノインの状態を治したいという気持ちの陰に隠れたのだが……冷静になって考えてみればおかしな事である。
「どうしてですか? ノインも私も瘴魔には触れていませんよ? 今までだって消失しながら再生を行っていたのに……なんで今更……」
「そうだ、その理由が重要だ……俺は頭が良くねェから正確な事は分からんが……推測でいいなら『負ったダメージが大きすぎて消失に回すだけの力が無い』ってとこじゃねぇか?」
「成るほど……確かにそれはありそうです……」
実際ツヴァイは自信無さげに言うが、彼の意見にフィーアは概ね賛同であった。
要は、擦り傷程度の小さな怪我なら他の作業と並行して治療を行えるが、怪我をしていないところが擦り傷程度の大きさしかなければ流石に治療に専念しなければ治らない――言い換えれば治療以外の行為を行えないと言う事である。
ツヴァイに言われ幾らか温度の下がった脳を回転させて思考の海に沈む。
現在の瘴魔の状態を見て、瘴魔に対する対策は簡単だとフィーアは考えていた。
瘴魔が暴れ回っていた頃はノインの射撃指示に従って撃っていたが、今は的以外の何物でもない、これでは外すほうが難しい。
加えれば今現在の状態から再生しても、直ぐに攻撃をして現在の傷の状態まで戻せば瘴魔は消失できない――即ち攻撃で再生を打ち消せば、触れずとも瘴魔の消失化を防げ、かつ無力化する事ができるのである。
思考の海に沈んでいる間にも時間は過ぎる――つまりは瘴魔の再生は刻一刻と進んでいる。仮に瘴魔の状態をツヴァイの推知していた通りだとすると、どれほど回復すれば消失の能力を取り戻すかも分からない。
どの道ツヴァイの所見の整合性を判断している時間も余裕もない。それにフィーアも、ツヴァイの考えがそこまで枠組みを無視したものだとは思えなかった。
なら立ち止まっているよりも、それを前提に行動を起こしたほうが良い。重要なのは動き出しの早さ、時間の無駄は取り戻せないのだ。
「ではツヴァイさん、瘴魔の再生を阻止して行動を封じておいてください!!」
「それはいいが……お前はどうすんだ?」
「私は……ノインを何とかしてみます……」
瘴魔に対する考察が正しいのであれば、ツヴァイの対策によってあれだけ脅威だった瘴魔の危険性は無くなるだろう。
であれば喫緊の問題はむしろ身内――ノインの変異とも言える豹変にある。
「おい大丈夫かよ、何か策はあんのかよ?」
瘴魔に銃弾を撃ち込みながらツヴァイがフィーアに尋ねる。
「正直出たとこ勝負……博打みたいなものです。 あんなの見たのは初めて……ではないですが、対処は始めてですし」
紫色の結晶を纏ったノインから離れたため、暴れるノインの起こす暴風や大地の亀裂に悩まされる事はなくなった。
しかしそこの対策をしたところで問題はそれを起こしている本人――ノインをどうにかしなければ根本的な解決にならない。
闇市でノインは少女をどうやって治したのか、フィーアはあの時の状況を色や匂いに至るまで鮮明に思いだそうとする。
しかしどれだけ思いだしても肝心のノインが「少女を救った方法は説明できない」と言った以上はそれに縋る事はまず不可能であると考えて良いだろう。
「よし!」
フィーアは、解決策が一切思い浮かばず落ち込む気持ちに渇を入れる意味でも短く呟く。
近付いてみないことには何も始まらない、フィーアはノインの方へ一歩『ノインを絶対に元に戻す』と言う覚悟を――ノインの変化を甘受する気持ちを否定しながら進む。
フィーアが踏み出した音に、瓦礫が靴に弾かれる音にノインが反応する。
今まで暴れていた様子が嘘のように大人しくなり、その代わりにゆっくりとフィーアの方に顔を向ける。
実際にノインの顔が見えたからでも、鋭い邪悪な視線に貫かれたわけでもない……ただ振り向かれただけ。
しかしフィーアの体は覚悟とは裏腹に、ノインから向けられる異常なまでの悪意や狂気と言った悪辣な迫力に恐怖していた。
思わずノインから目線を外す。その目線が辿り着いた先にはアインスが居た。
恐らく彼もノインが豹変した事は理解していると思うが、彼は未だに魔業の解析を行っていた。
それにフィーアはアインスがこの状況に下した結論の片鱗を見る。
つまりは保険である、瘴魔が予想を反して暴れたり、ノインの暴走が止まらなかったり、何かあった際に解析をした魔業でどうにかしようと考えているわけである。
当然アインスが解析する魔業はそれほどの力を有せず徒労に終わり、保険としても役に立たない可能性を孕んでいる事は否定できない。しかしそれ以外に保険として働く可能性を秘めているものがないのも事実である。
きっとフィーアがアインスを見て感じ取った彼の思惑は片鱗に過ぎない。実際にアインスはフィーアが考えているよりも深く、広く考えて行動しているに違いない。
そんなアインスがこんな状況でも魔業の解析を続行しているのである。
ならばフィーアも自身の役割――ノインを正気に戻す事に集中しなければならない。
悪辣な迫力に負けぬように、ノインから目を背けぬように――フィーアは自身に存在する勇気と呼ばれるような不確かな、けれど前向きな感情をかき集める。
それらで全身を覆いノインと対峙する。
「……え」
だがそんな意気込みは簡単に裏切られる。というのもフィーアが目を再び合わせたノインは、警戒していたような悪辣な迫力は放っていなかったのだ。
代わりに放たれていたのは、慙愧や忸怩、自責と言った深い後悔の思い。何故フィーアにこれが感じ取れたのかは分からない。
だが確かにノインの纏う雰囲気は悪辣なものから、臍を噛むような思いに変わっていた。
思いもよらぬ展開にフィーアのどうしたらよいのか、何が正解なのか分からなくなる。しかし直前にツヴァイに言われた「冷静になれ」というのが効いたのか、直ぐに自分を取り戻す。
どうするか冷静になって考えようとした矢先……以外にも接触を試みたのは、暴走して理性の欠片など確認できなかったノインの方であった。
それは実に短い一言、だがその一言は冷静となったフィーアを再び混乱に落としいれるには十分な威力を持っていた。
ノインはフィーアの方へ一歩進んで口を開く。
「……潤……」




