第一章28 『覚醒の兆し-参-』
「フィーはダブルワンへ、ツヴァイはゼロに射撃!!」
ノインの射撃指示が通る。
瘴魔の消失を無効化するために、瘴魔の腕にしがみつくノインには先程までの力はない。要は今現在余った腕で攻撃されると、ノインには対処しきれない。
だからこそノインは紫色の瞳で腕を視る事に徹していた。ノインの瞳は理由こそ定かではないが、瘴魔の腕がどのような軌跡を描いて動くかが解る。
ならば後は瘴魔の行動の先手を取るだけで、殆ど敵の動きを完封する事が出来る。
『タァン』と乾いた音がフィーアとツヴァイの魔業から響く。
またその音と同時に瘴魔の腕も先端が抉れ、再生の為に黒い触手が幾重にも重なり合う。
「ノイン、次の射撃指示を!!」
フィーアが魔業の遊底を操作しながら、瘴気を弾薬として装填する。
「ああ……ツヴァイは変更なし、フィーは方向をワンオーへ修正――射撃!」
二つの乾いた音が再び響く。
ここまで瘴魔の動きを制限する事数分、アインスが魔業解析に要する時間を順調にノイン達は稼いでいた。
ただその事実にノインの心が騒ぐ――順調な事は彼らにとって非情に喜ばしい事である反面得体の知れない焦燥に駆られる。
『果たして本当に瘴魔はワンパターンの攻撃を仕掛けてきたのか……一回目の襲撃からなにも学ばなかったのか……』そんな湧き上がるのを止められない不安は、むしろ順調に物事が進んでいる故の病かもしれない。
きっと取り越し苦労――杞憂だとノインは自身の料簡を否定する。体が死にかけているから陰惨的な感情や思考しか浮かんでこないのだと結論付けた。
琴線に遠慮なく触れようとする、そんな這いよる黒き何かを抑えながら、時間を稼ぐ事に再び全意識を動員する。
「ツヴァイ、一時の方向に修正後射撃!」
「あっ……ああ、解った!」
相変わらずツヴァイの態度には疑問が残るが、ノインは不安同様にツヴァイのそれを努めて無視する。
射撃指示を出し瘴魔の行動を制限すると共に、傷を負わせる。アインスの解析時間を稼ぐために何度も繰り返しているこの作業――だがその作業にも限界の時が迫り始める。
瘴魔の腕に傷を負わせるべく振り上げた短剣がノインの手から落ちる。
その事実にノインが自身の手を見ると、短剣を握っていた手は細かい痙攣を起こしていた。
もうノインは自身の手に力が入っているのか、それとも入っていないのか、その判断などついていなかった。刺激の伝達が滞るようになったのは何時からか……そんな体の異常を幾つも無理矢理黙らせて体を動かす、それが今のノインの状態であった。
その状態を知れば、医学の心得など無い者でも直ぐに絶対安静を言い渡すだろう。だが例えそのような人物が現れたとしてもノインが止まる事はない。
「チッ……この糞ったれの体め……もう少し動けって!!」
自身の軟弱とも感じられる体にノインは短く不満を告げる。
しかし直ぐに自身の手から零れ落ちた短剣の落下する軌跡を、紫の右目で視る。
その軌跡から読み取ったタイミングで、ノインは短剣の柄を自身の歯で噛み咥える。そして咥えたまま瘴魔の腕に短剣を何度も突き刺した。
「うっつ……ぐ!!」
鋭い痛みに併せてノインの歯茎から血が滴る。どれだけ刺激の伝達が鈍ろうが、痛覚だけは鋭敏な事に若干苛立ちを覚える。
だが逆に言えば何も感じなくなったときこそ命の終わりである可能性は否定できない、むしろ痛みは命の灯火が消える事を拒む最後の防風壁であるのかもしれない。
だが例えそうだとしても、今のノインには痛みが――歯茎からの出血が、行動を阻害してくる全ての要因が邪魔だった。
最早瘴魔の血と、自身から溢れ出る鮮血で染まったノインにとって、歯茎からの出血など無いのと同じだ。だが口で刃物を扱うのは想像以上に難しく体力を消耗する。
ただでさえなけなしの体力を出して動いているのだ、この消耗は大きい。
「―――――――――――!?」
口で短剣を振り回しきれなくなり、瘴魔に短剣を突き刺したまま崩れ落ちる。
だが崩れ落ちると言っても、消失を防ぐために瘴魔の腕は離さない……しかしノインが驚愕したのはそこではない。
ノインが驚愕したのは射撃指示を下そうとしたが、その音が口から零れ落ちなかった事実である。
音の通り道は最早乾き掠れ、代わりに血の匂いと鉄の味で充満している。音を出そうとすればするほどそれは酷くなりノインを苦しめる。
酸欠の金魚のように口を必死に動かしても、出るのは擦れた……音に成る筈だった何か、それが意味するところは体の限界と射撃指示の絶息であった。
「ノイン!!」
フィーアが叫ぶ。
射撃指示が下らなくなれば、フィーアとツヴァイは自身の勘と経験を元に撃つしかない。
だがそれでは瘴魔の腕を抉る確実性に欠ける。
瘴魔の腕が銃弾の嵐を耐えきれば、その下で腕にしがみつくノインの命はいよいよ危ない。
ノインの命など、体など心配の域をとうに超えている気がするが、それでも命を脅かす要因が増える事をフィーアは容認できない。
だからこそフィーアは瘴魔に向って駆け出す。
フィーアがとった行為は自分も瘴魔の腕にしがみつく……だった。
しがみつく人員を増やし、瘴魔の攻撃における選択肢を多様化させる事で、ノインにのしかかるリスクを低減しようとしたのである。
「ふっ……くぅ……はっ!」
小さな体躯に在する全膂力を動員して、暴れ狂う瘴魔の腕に喰らいつく。
当然ノインからすれば、フィーアが瘴魔の消失抑えるために、ノインのリスクを軽減するために前線に出るなど、憤激ものである。しかし音を失ったノインでは何をする事も出来ない。
「――――――――――」
何度口を動かしてもその役割を全うしない自身の口と喉を恨めしく思う。
悔しさか、怒りか、唇を強く噛む――歯が鋭利な凶器となって唇から血液が滴るが、ノインは現在そんな事を気にしていられる精神状態にない。
アインスの魔業解析時間を稼がなければと思う気持ち、ツヴァイの様子を気にする気持ち、フィーアを守りたい気持ち、そして自身に這い寄る黒き焦燥。
そんな様々な心情が混濁――渾沌と入り乱れた中でノインはその右目で視る。
フィーアが瘴魔の腕で貫かれる未来を、紫に染まる目で確かに視る。
「 」
それは言葉として音が出なかったわけではない。
掠れた喉の所為でも疲労の所為でもなかった。
ノインが呟いたのは確かな空白――何もない虚無を……フィーアを失う未来に対して呟いた。
一瞬心臓が強く鼓動する。
ドクンと強く心臓から全身に血液が巡る、その血液はまるで沸騰しているかのように熱い。
一秒は一分に、一分は一時間に、一時間は一日に変わる。
瘴魔がフィーアを貫く一瞬の刹那を、ノインは悠久の流れへと――時間の概念を超える。
自身を縛る柵全ての息の根を止めて……ノインはただ一言。
「フィィィィイイィ!!」
その瞬間、何が起こったかは誰にも理解できなかった。
ただフィーアとツヴァイにはノインの左手が紫色に光って爆発したように見えた。
その爆発した光がおさまった頃には、フィーアを貫くはずだった瘴魔の腕は跡形もなく消し飛んでいた。
消し飛んだ瘴魔の腕に対して現れた――いや在ったのは左腕に紫の結晶を纏ったノインの姿であった。
左腕は紫色の固体に包まれ、それが腕全体を肥大化させる。
本来の手の部分には、獣を思わせるように鋭い爪のような結晶が五本上向きに生えていた。
紫色の光による爆発の影響か、ノインの顔を半分覆っていたガスマスクもボロボロになって地面に落ちている。
誰が見ても異常な状態、人間なのかと疑いたくなる事実を前にフィーアだけはある程度冷静でいられた。
何故ならフィーアだけはその状態、状況に見覚えがあったからだ。
「闇市の……あの子の、特異体の結晶!?」
それは闇市でノインが治療した少女の症状に酷似していた。
纏う場所に差はあれど紫の結晶で体を覆う……本質は変わらない。
今考えればノインが紫色の目を獲得したのも、ひょっとするとコレが原因なのかもしれないとフィーアが思う。
だが紫色の目を持った時とは明確に違う、そんな不安がフィーアの胸中で渦を巻く……あの時はノインに、ただただ紫色の目が現れただけだった。
別に紫色の目を獲得したノインの性格が変わったわけでも、別人になったわけでもない。『ノインの瞳の色が変わった』本当にそれだけの印象だった。
しかし今紫色の結晶を纏ったノインに対して、フィーアの怜悧な感覚は、異質な何かを感じ取っていた。
大きさで表すなら余りにも微小すぎる差。
ノインと共に居る時、いつもなら暖まる気持ちが今は吹き荒ぶ風のように冷たい――その程度、感覚的な誤差とも言える違和感だった。
その違和感を大きくさせてはならない、ノインをその違和感で満たしてはいけない――そうフィーアの本能が叫ぶ、警鐘を鳴らす。
理由は解らない、理由は解らないが……恐らくフィーアは紫の結晶を纏ったノインに恐怖を覚えていた。
フィーアの本能に今、面前の瘴魔の事など一切含まれていない、完全にノインで満たされている。
つまりフィーアの本能は、面前の特異体よりもノインの方が危険だと、潜在的に判断したのである。
フィーアはノインを、何とかしたいと思いつつも有効的な策が何一つ浮かばない事に焦っていた。
今のフィーアにできる事と言えば、まるで壊れたロボットのように『ノイン』の三文字を永遠と繰り返す事くらいである。
無駄だとは思うが、無駄だと解っていても、フィーアは愛しい人物の名前を叫ばずにはいられない。
「ノイ――」
しかしフィーアの声は、圧倒的な暴風の暴力によって遮られる。
複雑に絡み合った風の音が、フィーアの声音を鼻で笑うかのように消し去る。
暴風の原因は単純明快で、ノインが結晶を纏った腕を振ったからだった。
まるで空間が裂け、悲鳴を上げているのかと錯覚するほどの威力を含んだそれは、ただノインが腕を振っただけにすぎない。
それほど、ただ腕を振っただけにしては異常な威力であるのだ、事実フィーアがしがみついていた瘴魔が半分以上消し飛ぶ。
勿論瘴魔の再生はすぐさま始まるが、誰もが今まで切羽詰っていた状況が一転……蹂躙の兆しに驚いた。
「ウガァ……あァガっ……アァアア」
ノインは苦しみながら腕を振り続ける。その度に空間が悲鳴を上げて裂け、立っているのがやっとなほどの暴風が吹き荒れる。
そう先程瘴魔が消し飛んだノインの攻撃も、正確には攻撃ではない。ただノインが腕を振っただけ――つまりたまたまノインが腕を振った先に瘴魔が居たのだ、意図したものではない。
そこから導き出されるのはつまり『ノインは今瘴魔を敵と認識できていない、あるいは錯乱状態にある』と言う事である。
苦しみ奇声を上げながら、結晶化した腕を振り続けるノインに理性や知性の欠片は見られない。
そこに居るのはただの獣……化け物であった。
「ハッ……ハッはッハッ……フフフフ」
不敵な笑みと規則性のない歓声を零しながらノインが腕を――振るう、振るう、振るう。
結果として空間が裂け、大地に亀裂が生じ、治りかけていた瘴魔は再び肉塊となった。
血と返り血に塗れ、人間とはかけ離れた腕と目を持ち、不敵な顔……そして笑みを浮かべる――その何もかもがノインを人間だと主張する者の根拠を塗りつぶす。
「ハハははハはハハはハハはははは」
笑いながら暴れ回る怪物を前にフィーアは足が竦んでいた。




