第一章18 『二度目の治療』
少女の青い瞳に映るノインは少女が起きた事を理解すると、彼女にまだ自我がある可能性を考えて声をかけようとする。しかしノインがその口から音を零すのよりも速く、拘束された少女が低く唸る。
「……グ……ル……」
およそ意味があるとは思えない長く低い少女の唸り声は、フィーアとゼリクにも届いたようで、武器を持たないフィーアはノインに警告をゼリクは手に既にナックルダスターを装着している。
「ノイン!! 第二形態とは言え武器を持たないのは危険です!」
「小僧、拘束してはあるがとりあえず下がっておけ」
ノインは二人の警告を聞きながら少女の瞳を見る。瘴魔の目、その瞳に何故か懐かしさを感じながら自身がこれから何をすればいいのかを確信する。
「……いいぜ、来いよ……」
少女に短く告げノインは数歩後ろに下がる。
それに呼応するかのように拘束されていた少女が大きく吼え、腕と足を大きく動かす。すると少女を拘束していた鎖や枷はまるでその役割を失ったかのように脆く簡単に破壊された。
その様子を目の当たりにし、ノイン以外の二人が驚く。
「なっ! ゼリク、あれは瘴魔拘束用の拘束具ではないのですか!?」
「いや、確かに瘴魔を拘束する為の拘束具だ。 第二形態までなら破れるはずがない!!」
対瘴魔拘束具は人間に近い状態の瘴魔、即ち第一形態、第二形態の瘴魔を拘束できる物である。それを簡単に破った少女に対して導かれる答えは一つだけである。
「まさか人間の形をした特異体……そもそも第一でも第二でもねぇって事か!?」
特異体――即ち瘴魔の順当な進化の過程から外れた異質な存在。特異体は通常の瘴魔とは異なり、例外無く少なくとも何か一つは特殊な能力を備えている。
現在の状況にゼリクは、その特殊な能力の一つを「人間の形を保つ」と結論付けていた。
「そんな事がありえるのですか? 人間状態の特異体なんて報告された例は今まで一度も……」
「前例が無いだけかもしれん――とにかくヤバイぞ、こんな闇市の真ん中で特異体が暴れだせば、その被害は計り知れん!!」
ゼリクが少女を瘴魔の第一形態と思った理由は人間として判断できる形をとった特異体が今まで報告された事が無いためである。他にも幾つか理由はあるのだが、今のゼリクにはもっと懸念すべき事があった。
特異体の瘴魔としての強さは、瘴魔の第四形態を凌駕している事が殆どである。第三形態に苦戦したノインを見ても、そんな存在が闇市で暴れる事になれば死者の数は一桁ではすまないだろう。加えるならば闇市内での武器所持禁止のルールも状況を悪い方に傾ける要因となっている。
そうまさにノインが危惧した状況になりつつあった。
そんな状況にゼリクは頭を素早く回転させる。彼は狼狽をすぐさま押さえ込む、頭の中はこの状況にどう対処するかで満たされていた。
この切り替えの早さは流石闇市の統率者と称賛できるものなのであろうが、ゼリクが脳内で展開する対策案の中に劇的に被害を抑える案は無かった。逆に言えば特異体が懐に潜り込むとは、それほどどうしようもない絶望的な状況なのである。
ゼリクは自身が考え得る全ての対策案を即座に精査し、その中で最も被害が軽微であろうものを選択する。被害が軽微とは言っても、特異体の前では誤差、微々たるものであろうが。
軽く舌打ちして自分の愚かさを呪う、だが後悔に身を委ねる時間は無い。ゼリクが行動を起こそうとするのと同時に少女も、特異体も動く。
体を前傾にし、腕を低く下げ少女はノインを鋭く睨む。ユラユラと体を揺らしながら徐々にノインとの距離を詰める。
少女の体を覆う紫色の結晶はまるで狐の尾の様に彼女の尾骨周辺から扇状に展開されている。特異体との単独対峙など普通の人間してみれば死以外の何者でもない。通常なら激しく動揺し、混乱し逃げてしまうところだがそれに対してノインはひどく落ち着いていた。
「フィー、ゼリクとりあえず俺に任せてくれ……何とかできる……はず」
ノインの胸には少女の頬に触れたときに在ったものと同様の根拠の無い確信が在った。しかし根拠無い確信では他者を納得させる事は出来ない。当然ノインの身を案じているフィーアにとってノインの発言は彼女を納得させるには至らない。
「駄目です、駄目です! それにノインはこの間の怪我も完治していません、それに加えて瘴魔と……特に特異体との戦闘なんて本当に死んでしまいます!!」
確かにノインの傷は治りきっておらず体を動かすのに最高の状態とは言えない。それを考えるならば、訓練場で第三形態にやっとの思いで勝利したノインが特異体に勝つ可能性は万に一つもないというフィーアの考えは妥当と言えるだろう。
「解った小僧に……いやノインに任せてみよう、但しこっちでも備えさせるそれでいいな?」
意外にもノインの提案を受け入れたのはゼリクであった。彼の発言にノインは驚きつつも感謝を右手で表す、逆にフィーアは信じられないと言った顔でゼリクを睨んだ。
「ゼリク何を言っているんですか!? 本気でノインが特異体に勝てるとでも!?」
荒げるように告げるフィーアをゼリクは一瞥する。
実際に要求を呑んだゼリク自身もノインが特異体をどうにか出来るとは思えなかった。
では何故ゼリクはノインにこの事態の収拾を任せるに至ったか、勿論ゼリクに被害を抑える案が無いのだから、何か意味ありげに言うノインに賭けたといった一面がある。だがしかしそれ以上に、考えるよりもノインを見た瞬間からゼリクを支配して止まない直感が、事態をノインに託す選択を彼に取らせていた。
結局はあいつなら何かやってくれるかもしれない……、とそんな不確かで絶対な「勘」に委ねたのである。
「いや、勝つ事に関しては絶対に無理だろうとは思っている」
「だったら――」
「――ただ、勝つのではない解決法をノインは持っていそうだ……まぁ当然それを全部信じる事は出来ねぇから備えさせては貰う。 こっちにも備える時間は必要だし、なにより俺達が準備している間、あの瘴魔の嬢ちゃんは待ってくれそうにねぇからな」
そう言うとゼリクは腰に付けた無線機のような物を引っ張る。無線機の横についているボタンを操作しながら未だ納得のいかないフィーアに対して口を開いた。
「それにな、お前もあのノインって小僧が好きなら少しくらいは信じてやってもいいんじゃねぇか?」
ゼリクの発言にフィーアは苦虫を噛み潰したような顔をする。そんな極めて苦々しい顔つきをしばらく続けた後、決心したようにノインに言う。
「わかりました……ノインに任せます。 その代わり上手くいかない場合は私も戦います! 上手くいっても最低三十分は怒りますから!!」
「なんじゃそりゃ……」
フィーアのあまりにもの過保護さにノインは苦笑する。当然立場が逆であるならばノインもその過保護さを遺憾なく発揮していただろうが、そもそもこの件に関するフィーアとノインの認識は違う。
ノインは特異体の少女との対峙が単独でも上手くいくという確信が在る、つまりフィーアのノインが特異体に殺されるという心配が杞憂に終わる事は分かっているのだから、その過保護さに苦笑する以外無い。
「おい小僧! ナックルダスター位なら貸せるがどうする!?」
「いや、大丈夫だ……そもそもそんな激しい戦闘になんてならない」
先程から少女は一切動かない、ある程度ノインとの距離を詰めてからはまるで、動く事を許可されるのを待っているかのようにノインの事を見つめているだけである。ノインは少し着ている服をずらし首元辺りの肌の露出を増やすと。
「来いよ、直ぐに治してやる」
そんな言葉が無意識にもノインの口から少女へと送られる。ノインは今、過去の経験――つまりは「ユエの記憶」によって自身の体が勝手に働いている事を悟っていた。だがそんな、ノインの知らない記憶の衝動に身を委ねているのは不思議と悪い気分ではなかった。
開かれた自身の記憶の扉からは記憶ではなく経験が送り込まれる。
深く浅い呼吸を数度繰り返し、ゆっくりと目を開く。特異体の少女をノインの双眸が捉えると同時に、軽く手のひらを曲げ開始の合図を送る。
少女はノインの許可が下りるとノインの元に素早く移動する。いや、素早くというのは適切では無い、少なくとも……フィーアにとっては少女がノインの元まで瞬間移動でもしたかのように見えた。特異体としての瘴魔の身体能力はそれ程他を圧倒している。
「ノイン!!」
任せるとは言ったものの、やはり心配なフィーアは思わずノインの名を叫ぶ。そんなフィーアに大丈夫だという目配せを一瞬送り、ノインは露出させた首元の肌を少女に見せる。
少女はその肌に鋭く歯を突き立てる。それはまるで吸血鬼が血を吸う様子にフィーアは見えた。
そのまま食い千切ってしまいそうな勢いの少女から首元に鋭い痛みを感じたノインが少し顔をしかめる。
首元からは鮮血が零れ、その鮮血が床を一滴一滴赤く染めるのと同じくして、ノインも行動に移る。
噛みついた事によって固定された少女の頭をノインの右手が掴む。少し指先に力を入れるようにしながらノインはたった三言――三つの音を呟いた。
その三音はフィーアやゼリクまでの距離を泳ぎきれず、二人には届かない。しかし密着している少女は確実にその三音に貫かれていた。
ノインが三音を呟いた後、突然部屋を風が吹きすさぶ錯覚に襲われる。そんな在りもしない風をフィーアが振り払うのと同時に「ピシッ」と甲高い音が部屋を支配する。
その音がした方へ目を向けたフィーアが見たのは、少女が纏っていた結晶に亀裂が生じている場面だった。
徐々に彼女を覆う結晶の罅が大きくなっていく、結晶の至る所に亀裂が走り凄まじい音を立てる。そしてノインの首元に顔を埋める少女がそれを上げたのと同時に、少女の結晶はついに瓦解した。
結晶がガラガラと音を奏でながら少女から剥がれ落ちる。しかしその結晶は床に到達する前にその状態を固体から気体へと変化し霧散する。最終的にその場に残ったのは、肩まで美しい青い髪を伸ばした少女のみとなった。
瘴魔化から解放され気を失った少女をノインは優しく抱き抱える。自身の予想通りに事が運んだ嬉しさに浸るのも束の間、ノインの記憶の扉は再び固く閉じる。
記憶の扉が閉じる事に寂しさを感じつつ少女の髪を数回撫で、ノインはゼリクを鋭く睨む。ノインの頭に今あるのは瘴魔から解放された少女のこれからの処遇に対する心配だけであった。
フィーア達の場所へ少女を伴って歩き出すノインの顔は、何かを決意したように晴れない。
ノインの首筋を黒い稲妻が駆けていた。




