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 時たまボクは自分の事がわからなくなる。

 今の静かで孤独な状況に満足している自分がいたり、逆に彼女のような存在に憧れ、誰かと関わろうと望む自分がいたり。絶対にブレのない人間なんていないのだからそれくらいのことで悩む必要もないのかもしれないけど。

 些細な事と流してしまえばそれですむ話なのだろう。

 ただ、あの気持ち悪い焦燥にそれらが関わっている気がして、なんだか落ち着かないのだ。

 本当に誰からも注目されず、ずっと一人だったなら、多分こんな風に感じることもなかったんじゃないだろうか。だけど、社会っていうのはいつまでもボクを子供ではいさせてくれないらしく、集団のたくさんのモブの中のモブAとしてボクに個を持たせようと迫ってくる。

 それは試験の点数だとか、授業態度だとか、進路のことだとか、結局はボクの上っ面だけを見るものだけど、ボクを個として定義しようとするのだ。

 それがたまらなく嫌だった。

 ふるいにかけられ、集団から切り離され、ボクをボクとしてではなく、他人の物差しで測って、だれかのレンズで歪められて、そんなボクを評価されるのが嫌だった。

 型にはめられ定義されるのが怖かった。

 それは青臭い子供のわがままだけど。

 比べられたら、劣っていることがばれてしまう。

 集団の中に紛れていれば、注目されることもない、平穏があるのに。

 ボクは集団の中の個としてではなく、集団の中の一部としてありたかった。それが楽だと知っているから。

 ではボクが彼女に抱く、この憧れというものは一体なんなのだろうか。

 考えてみてもよくわからない。

 彼女は集団の中の一部でも、集団の中の個でもない。

 彼女一人で個としてある。

 それは特別な存在だ。

 だからこそ、届かないものへの憧れなのか。

 特別、他とは違う、だから楽ではない。

 ボクの知っている彼女はいつだって笑って、楽しそうにしているけど、ボクの知らない苦労がたくさんあるはずだ。それを表に出さない彼女の強さをボクは尊敬する。

 ボクには真似も出来ないだろから。

 それがボクの抱く感情の正体なのかは定かでないけれど。

 ただなんとなく、ボクはこのまま、ずっとこのままであればいいと思った。

 変わる事への恐怖がある。

 周りや、自分が変って行くことへの。

 そんなしがらみを全部捨てられたらこの焦燥はなくなるのだろうか。

 ボクは逃げ出すことができるのだろうか。

 道も見えないのに、一歩を踏み出す勇気もないのに、ボクはただ逃げることばかりを考えていた。


 ここ数日降り続けている雨の音はもうすっかりと聞きなれて、目覚ましの変わりになることもなく、ボクの耳を右から左に抜けていく。

 目を覚まして時計を確認すればもうお昼前だった。

 曜日は水曜日で、振り替え休日や祝日でもない。完全に寝坊で遅刻だった。

 いっそのこと休んでしまおうかとも思ったが今日の六限の英語は期末の重要範囲をやると言っていた気がする。気は進まないけれど今からでも学校に行ったほうがいいかもしれない。

 重い体を起こし、シャワーを浴びてから着替えを澄ませて家を出る。食事は途中のコンビニで買おうと決めた。

 傘をたたく雨音に透明なビニール傘から空を見上げる。

 雨はあまり好きではない。

 好きな人のほうが珍しいだろけど。

 雨が続くと気分が悪くなる。

 視界が霞んで世界の輪郭がぼやける様な、そんな錯覚を覚える。

 足元の水が跳ねないよう、水溜りを避けて歩く。

 ボクの住む家は住宅街から少し離れた旧道付近にある古い民家が立ち並ぶ一角にある。

 おかげで登校路は道が狭く、舗装もボロボロだ。とくに今ボクが歩く山側の旧道は水はけが悪くて雨の日にはあまり通りたくない。回り道になるけれど、ボクは進路を変えて海側の裏道を行くことにした。

 山と海からなるこの田舎の街はなんとも歪で半端ななりをしている。

 山と海に挟まれた旧市街。山を隔てた盆地にある新市街。汽車で二十分揺られるだけで街並みは大きく変わる。二十一世紀にもなって未だ交通機関が汽車であることにはまぁ、触れないでおこう。

 ボクの基本的な生活圏である旧市街も旧道から新道の方まで上がればまた随分と姿を変える。民家と、小さな公民館や神社、寺、細々とした自営業のお店、それに漁港と転々と存在する旧道側。

 スーパーやコンビニ、役場や学校、新しく出来た団地の立ち並ぶ、新道側。

 そうして工場や、大きなデパート、ビルやおしゃれな店、本屋やCDショップ、カラオケやゲームセンター何処かの都市を衰退させて小さく纏めたような新市街。

 いろんなものが混ざって半端になってしまったような街がボクの住む狭い世界だ。

 海側の裏道はそんな狭い世界の中でも一際寂れた一角で、とくに見るようなものもなく、こんな雨の日には鉛色の空と、それを映して荒れ狂う波がただただ広がっているだけ。

 裏道は旧道よりもさらに狭くて車が通ることも滅多にない。

 遠回りになることと、潮の香りがすることをのぞけば、何かと快適な道ではある。

 荒れる大きな波の音を聞きながら歩いて行くと小さな漁港にたどり着く。

 降り続ける雨に制服が濡れて肌寒かった。漁港の休憩スペースで何か暖かい飲み物を買って少し休憩して行こうと思い立って、生臭い、磯の香りのする建物へとボクは足を踏み入れる。

 そうして隅の休憩スペースへ近づいたところで、潮の香りがふっと、途切れた。変わりに、強烈な、甘い、嗅ぎ慣れた匂いがした。

「こんなところで何してるの」

「あんまり雨が酷いからさ、雨宿り」

 彼女が煙を吐き出しながらそんなことを言う。

「そういう君こそ、もうお昼だけど」

「寝坊した」

 自販機の前に進んで暖かいコーヒーを買う。ついでに小銭入れからさらにお金を入れて、椅子を並べた即席のベッドで横になる彼女に問いかける。

「何かいる?」

「コンポタ」

 奇抜なチョイスに呆れながらボタンを押して取り出したそれを彼女に放ってやる。寝転んだまま片手でそれを器用に受け取った彼女は気だるそうにあくびをしながら体を起こした。

「流石に外で吸うのは不味いんじゃ」

「見つかったらね、みつからなきゃいいのよ。それに雨の日ってタバコが美味しい気がするんだよね」

 上手いことをいったつもりなのか、彼女は笑いながら携帯灰皿でタバコの火をもみ消して入念にコンポタの缶を振ってから飲み始める。ボクも封を開けて暖かいコーヒーに口をつける。冷えた体が内側からじんわりと暖められるのを感じる。

「これから学校いくの?」

「そのつもりだけど、君はこないの」

 問い返すと彼女は頭を掻くような素振りを見せた後、

「サボんない、マリヤ?」

 なんてことを口走った。どこまで本気なのか彼女の薄い笑いからは読み取れない。ため息を吐いてボクは返す。

「サボんないよ、あと名前やめて」

「いいじゃん別に」

「よくない」

 どうやら彼女は本気で学校をサボるつもりらしい。まぁ今からわざわざ登校して何になるのかと言う気持ちはわからないでもないけど、サボったからといってやることがあるわけでもない。それならまだ、学校に行くほうが有意義というものだ。

「じゃあ、私がこっからこの空き缶を見事ゴミ箱に放り込むことが出来たら一緒にサボろう」

 彼女が指差すのは部屋の対角線上にある小さな分別ゴミ箱だったものだ。

 もともとは二つの穴の口が開いた蓋があったゴミ箱だったはずだが、いつの間にか下部の箱部分だけの四角いだけのものになり下がっている。

 距離も開いているしそう入る物ではなさそうだが、そもそもボクがその賭けに乗る理由がない。

「何がじゃあなのか意味不明。あと、ボクに何の得もないし」

「損得でしか物事を計れないって損だと思うな」

「言ってるそばから自爆とは器用なことで」

「しょうがないから譲歩して私が外したら君の友達になってあげよう」

「いらないし」

 大体なんで上から目線なのか。

 改めて友達、と言われるとボクらはなかなかに奇妙な関係のような気がする。たまに会って駄弁ったり、言葉を交わさなかったり、互いに秘密を握り合って、でも特に利用する気もない。ボクらの関係とは一体なんなのだろう。

 そもそも、ボクは彼女の名前すら知らない。

 今更本人に聞くことも出来ないし、他人に聞くのもなんとなく憚られた。彼女に興味を持っていると他人に知られるのが嫌だった。

 少なくともボクらは友人や友達といった関係でないことだけは確かだった。

「大体なんで友達?」

「君そういうのいなさそうだから、欲しいかと思って」

「いらん同情をありがとう」

「そんな拗ねないでよ、友達には無料でなってあげるから」

「だからいらないって」

 辟易としたボクの呆れた声とは対照的に彼女はカラカラと笑う。まったくもって楽しそうで羨ましい限りだ。

「よしわかった、外した時の条件、君が決めていいよ」

「え、何これやること確定?」

「当然」

 何が当然なのかまったく定かではないがこのまま彼女と話していても埒があかなさそうだ。先程も確認したとおりここからあのゴミ箱を狙うのは難しそうだし、せっかくだから有効活用させてもらおう。

「じゃあ、外したら名前で呼ぶの禁止」

「どんだけ嫌なの、名前で呼ばれるの」

「君が思ってる以上にかな」

 出来ることなら改名したい程度には。

 誰かに名乗るときは苗字し告げないくらいには。

「名前に相応しい人間になろうとは思わなかったの?」

 片目をつぶりゴミ箱との距離を計るようにしながら彼女が問う。

 それはさすがに、あまりにも愚問ではないだろうか。

「こんな大それた名前に? 冗談きついって。大体この名前に相応しい人間ってどんなのさ」

「私みたいな人間かな」

 迷う余地もない即答だった。

「自分で言うかなそう言うこと」

「自称じゃないよ、貴方が言ったんでしょう、君になら似合うかもしれないって」

 確かに、そんなことを言った覚えがある。

 何だ? だったらボクは彼女のようになればいいのか? 馬鹿馬鹿しい。あまりにも素材が違いすぎる。子供向けのデフォルメされたプラモデルを改造して大人向けの高いプラモデルのクオリティを再現するようなものだ。

「じゃあまず髪の毛でも伸ばして見る?

「いいんじゃない? 似合うと思うけど」

 ボクは鼻で笑って嘆息する。

「いつにもまして冗談が多いね」

「割と真面目なんだけどね。まぁどうせ私が勝つから、いいんだけどさ」

 喋りながら彼女は軽い動作で右手から缶を放った。彼女の手を離れた空き缶は、綺麗な放物線を描きゴミ箱の中央へと吸い込まれて乾いた音をたてる。

「ね、マリヤ」

 満面の笑みを浮かべて彼女はボクを見る。

 なんで忘れていたんだろう、ボクが彼女に敵うわけがないって事を。

 いつだってボクは彼女の掌の上で弄ばれるだけの存在。

 諦めとともに吐き出した息は白く、まだ残っていたコーヒーを流し込んで、彼女の真似をして空き缶を放る。

 ボクの投げたそれはゴミ箱にはじかれ、床の上を転がって空しい音を響かせた。


「で、何で学校?」

 サボろうと言った彼女に黙ってついてきた結果、たどり着いたのは学校の校門だった。

 まあこの人通りのない雨の日に新市街やらに行って目立つよりはマシな気はするけど、学校まで来るなら真面目に授業を受ければ良い気がするんだけど。

「これから寒さが本格的になる前に多少なりとも秘密基地の防寒対策をしようと思ってね」

「一人でやればいいんじゃ」

「結構な作業量だから一人じゃちょっとね」

「あっそ、で、何すればいいの具体的に」

「モノは用意してあるからそっち着いてからね」

 上機嫌な彼女の後に続いてボクも学校へと入る。堂々と傘をさして歩くわけにもいかず雨に濡れないよう、目立たないよう、飼育小屋や体育館、武道館の軒下を経由して部室棟へ辿り付く。

「で、どうするの?」

「一階奥の演劇部の物置に色々あるはずだからそこから拝借しようと思う」

「ばれないの?」

「今は部室棟の演劇部の部室は使わずに実習棟のホールと準備室がメインのはずだから大丈夫でしょ。暗幕もあそこから貰ったし」

 話しているうちにもう件の部屋の前までたどり着いていて。不思議なことに錠前は開いていて、出入りは自由のようだ。

 彼女が忍び込んだ後に続いてボクも部屋に入る。

 秘密基地に初めて入った時と同様に、そこは埃っぽい空気に満たされていた。小さな窓から微かな明かりが漏れているものの、中は暗く、彼女が携帯を取り出してライトを点けたのに習ってボクも携帯で辺りを照らす。

「それで何を探せば良いの」

「毛布が入ったダンボールがあったと思うからそれを、私はガムテとか探すから」

「ガムテ?」

 何に使うのかはわからないけど必要なものなのだろう。深くは聞かず辺りを捜索し始める。

 頼りない明かりで辺りを照らすと木で作られた棚と積み上げられたダンボールの山が広がっているようだった。ダンボールには中身がマジックでわかりやすく記してあり、衣装や台本といった重要そうなものから、マスクやら袋といったなぜか大きなダンボールが複数用意されたものもあった。仮面フェチでもいたのだろうか?

 その表記のおかげで案外はやく毛布の入ったダンボールは見つかったものの一抱え以上ある大きなダンボールに入っていて一人で運び出すのは難しそうだった。

 彼女の手を借りようと棚を回りこんで彼女を探す。

 といってもそれ程広い部屋でもない、二つ先の棚の間で座り込む彼女の姿を見かけて声をかける。

「毛布みつかったけど」

「案外早かったねこっちも準備できたし、ちょうどいいけど」

 立ち上がった彼女の手には組み立てられた段ボール箱が二つあった。

「これに毛布いれて運ぼう」

「用意がいいことで」

 二人で戻って毛布の入った段ボール箱を開けて見ると、なかにはきちんと袋に納まった毛布が出てきて、そのまま使っても問題はなさそうだった。箱に入れてそそくさと物置をでて秘密基地へと運び込む。

「でもなんで演劇部の倉庫に毛布?」

「昔は結構大きな部活で止まり込みの稽古とか頻繁にあったみたいだよ。今じゃそういうのもないみたいだし、有効活用させてもらおう」

 演劇部が大きかったってのはちょっと意外だった。たまにホールで見かける練習なんてどうみても遊んでふざけているようにしか見えないのに。

「一時期体育館の使用で運動部ともめてそれが原因で規模が縮小したとかなんとか」

「詳しいね」

「武道館もそへんの理由で建ったみたいだね。古臭い学校の癖にあの建物だけ少し新しいのはそう言う事情みたいだよ」

「ふぅん……」

 まぁ正直どうでもいいけどさ。

 運び込んだ毛布を秘密基地の中において彼女はついでに持ち出して着ていたダンボールとガムテープ、それにはさみで何か作業を始めていた。

 ボクはそれを眺めながら、薬缶を火にかけて二人分の飲み物を用意する。

「何してるの」

「隙間風が入ってるところがあるから目張りしたら多少ましになるかなって」

「そこまでここにこだわる必要あるの?」

「どうだろう、まぁ。どうせ暇だし、ちょうどいいかなって」

 言いながら彼女はてきぱきと作業を進めていく。

 紙コップを二つ用意して片方にはコーヒーを。

「何にする?」

「寒いし紅茶にブランデーで」

「入れるの、本当に」

「当然」

 半ば呆れながら彼女の言葉どおりにもう片方にはティーバッグをセットしてお湯を注いで、ブランデーを垂らす。

 安物ながら、コーヒーと紅茶のいいにおいが広がる。

 二つのコップを机に並べると彼女も作業の手を止めて戻ってきた。

「悪いね用意してもらって」

「別に」

 相変わらず部屋は寒くて、コーヒーを飲んでもそれ程体は温まらない。彼女もそれは同じなのか、早速運び込んだ毛布を取り出して、なぜか、上機嫌でボクの横に腰掛けて毛布を差し出した。

「寒くない?」

「寒いけど」

「毛布使う?」

「もう一枚もってこないの?」

「二人の方が暖かいし」

 そりゃそうだろうけど。

 もしかして酔ってるんだろうかと思ったけど。そんなにすぐ酒が回るわけもないし、あんな少量で酔う人間だっていないだろう。

 彼女のニヤニヤという擬音の似合いそうな顔からして、からかっているんだろうことは予想できた。

 あんまり拒否して彼女を楽しませるのも嫌だったので大人しく毛布の端を受け取って自分の肩にかけた。彼女はそれを特に気にした様子もなく同じように自らの肩にかかるように毛布を羽織る。自然と体が密着する。

 彼女の言う通り、暖かくて、随分とましになる。

 隣で器用に彼女がタバコを吸い始める、こう近いと流石にすこしけむい。

「ああ、ゴメン、タバコくさいかな」

「別に、嫌いな匂いじゃないし」

「子供は甘いチョコレート好きだしね」

「別に、大人でも好きな人はいると思うけど」

 というか好き好んで吸ってる自分はどうなるんだ?

 彼女の甘い香りにクラクラする。

 コーヒーの苦い味を香りを味わってもその匂いは消えない。

 相変わらず雨が降り続いている。

 寒さに身を寄せ合いながらボクらは放課後までずっとそうして雨の音を聞いていた。




 十二月になると寒さは加速度的に増して行き、空は今にも落ちてきそうなほど重く鈍い鉛の色になり、それを映す海も灰色に濁っていた。

 そうして霞んでいく旧市街とは反対に新市街はクリスマスが近づくにつれ色を鮮やかにしていった。

 駅前から徐々に広がるようにライトアップされていく街並みは年々華美になっていて、この古臭い街並にはにつかわしくなく、滑稽にしか見えない。

 そんな偽物の街でもそこに住む人々は気にしないのか、皆明るく笑っている。

 ボクの通う学校もそのクリスマスと冬休み前の空気が徐々に流入を始め、教室は新しく生まれたカップルや、クリスマスまでに恋人を作る方法の話などで盛り上がっているようだった。

 そんな彼らと対照的にボクは一人寒さを増して行く冬と同様に、憂鬱を深くさせていた。

 期末試験が近づいていた。今回の試験は範囲が一学期の時よりも随分と広くなっていて全教科、全範囲をカバーするのはかなり骨が折れる。得意な数学や物理はまだいいが、歴史や英語はかなり辛い戦いになることが予想される。

 進学校でもない普通の高校なのだから本当はそれ程勉強をがんばる必要なんてないのだけれど。他になにもないボクはただただ勉強に打ち込んでいた。

 憂鬱の理由はもう一つあった。

 それは一枚の藁半紙のプリントだ。

 まだ正式なものではない進路希望の調査書。

 高校受験の時も散々迷った挙句、結局適当に、逃げ道を残しながら決めたこの学校。

 だけど次はそうも行かない。

 もう逃げるように適当な道を選ぶことは出来ない。

 まだ今回は進学か就職か、どちらを希望するかだけの簡単な内容。後でまだ書き直しの修正の効くものではあったけれど、それはボクの退路を確実に一つ潰す。

 少しずつ、少しずつ、決断の時は迫ってくる。いつまでも続くような、続いて欲しい、回り続ける日常の中、それだけは一歩ずつ確実に、近づいてくる。

 何かに対して責任を追うことが嫌だった。

 だからずっと逃げてきた。

 どこまでも逃げたかった。


 口から漏れた深いため息は空気中に白く煙り、やがて虚空に溶けて消えた。

 揺らめくオレンジの灯りと甘い匂いの充満する秘密基地でボクは珍しく教科書も開かずに机に身を投げ出していた。

 酷く憂鬱だった。

 英語で言うとメランコリックだ。

 下らない自分の思考にまた重くため息を吐いた。

 冷たい机の温度が心地いい。

 相変わらず基地の中は寒くてまともな暖房器具の導入はできなかったけど、先日の防寒対策と彼女が持ち込んだ大量のカイロのおかげで随分とましになっていた。

 基地の中は日に日に物が増えていく。彼女が暇つぶしに読む本や買い置きのお菓子、いつの間にか増えていた大きな姿見や、イヤホンが接続してあるラジオ、暗幕の増設の際にくすねて来た工具箱に、何に使うのかもわからないパイプやダンボール。

 曰く、そのうちまた基地を増築するのに使うのだといっていたけれど本当かどうかはわからない。

 単純に物が増えるだけでなく、入れ替わったものもある、彼女とボクが腰掛けていた椅子は古臭い木とパイプのものから少し古ぼけたデスクチェアに進化を遂げていたし、古臭いスチール製、木製の本棚は暗幕で覆いやすいようホームセンターで購入したメタルラックと入れ替えた。

 本当に秘密基地のような体裁になりつつあるここの大将であるところの彼女は秘密の基地らしく秘密の甘い香りの煙の出る棒を咥えてご満悦だ。

 なんだかみんな馬鹿馬鹿しくなってくる。

 彼女に付き合って秘密基地の改装なんてしてる時間があれば勉強していればこの憂鬱も多少はましだっただろうか。勉強している間も憂鬱になって対してかわらなかったような気もする。

 ここは彼女の秘密基地であると同時に、ボクの隠れ家でもあった。

 いろんな場所から逃げて、逃げて、流されるままにたどり着いた、ボクの居場所。

 そこですら憂鬱から逃げられないというのなら。

 ボクは戦わないければいけないのだろうか。

 この暗く、鬱屈した気分の悪い元の根源と。

 誰かが倒してくれればいいのになんて、それは甘い考えだろうか。

 今まではそれでどうにか凌いで来た、逃げて、目を逸らし、誰かが助けてくれるのを待っていた。もう、それは通用しないのだろうか。

 ぐるぐるとぐるぐると思考が回る。

 甘い香りと、揺らめく炎。

 ポツリと漏れたのは馬鹿馬鹿しいボクの言葉。

「学校爆発しないかな」

 誰もが一度は考えたことがありそうな馬鹿な妄想。

 それを言葉にして見たところでなにも変わりはしない。

 たとえ百人が妄想しても、千人が望もうとも、一万人が呟いても、変わらずに学校はそこにあって、現実は何一つ揺るがない。

「いいねそれ、面白そうだ」

 彼女がゆっくりと煙を吐きながら、真面目な顔でそう言った。

 携帯灰皿でタバコの火を消して、アトマイザーで甘いコロンを一吹きすると、彼女は深く椅子に腰掛けてボクの言葉を待っているようだった。彼女の琴線にどの辺が触れたのかはわからないけど、ボクとしてはこんな無意味な呟きにそんなに食いつかれても正直困る。

「別に深い意味なんて」

「深い意味なんてなくてもいいじゃない、実際に起きたら面白そうでしょ」

「面白くもなんともないと思うけど」

「そうかな、私は面白いと思うんだけどな」

 多分そう思うのは野次馬だけだろう。当事者になったら面白いですまされる事態ではないと思うのだけど、彼女の感性はやはり何処かずれている。

 優等生を演じているかと思えば、タバコは吸うし、サボるし、こんなところに秘密基地を作るし。とにかく彼女は自らの欲求に素直だ。

「大体実行に移したら犯罪だし」

「そんなの今更じゃない」

 彼女はそう行って胸ポケットを軽く叩く。

 そこには可愛らしいオレンジ色のシガレットケースと銀色に鈍く光るジッポが収まっていることをボクは知っている。

 だからこそため息を吐く。

「わかってるならやめたら? 体にも悪いし」

「そういうわけにもいかないよ。これは記号的なものだから」

「なにそれ、意味がわからない」

「それでいいんだよ。世の中ってそういうもんだから」

 彼女は一人納得したようにうんうんとしきりに頷く。意味がわからない。それは今に始まった事じゃないけれど。

「まぁさ、ともかく私は校舎が爆発したら間違いなく大爆笑するわ、学校なんて消えてなくなればいいと思う。ついでに邪魔くさいもう動いてない工場の煙突とか、寂れ切った漁船しかない港だとか、団地に人が移り住んでもう誰も住んでないアパートだとか。みーんな目障りなもの全て爆発四散しちゃったら気分爽快だと思わない?」

 それはまぁ確かに気持ちいいかもしれないけど。

 実際そんなことになったら大変だろうなと冷静なことを考える自分もいた。嫌いな街だけど、生きていくうえではここにいなければならない。ボクらは結局ここで日々を過ごしていくことしかできなから。

「街を出ればいいんじゃない?」

「簡単に言うけど、現実味ないでしょ」

「そうかな?」

「お金だってかかるし、そもそも犯罪者になったら警察に追われるし」

「どうせ追われるなら強盗でもしてお金作っちゃえばいいんじゃない」

「日本の警察なめすぎだよ」

「いいじゃん別に、考えるだけなら自由だよ」

「まぁ、そうだけどさ……」

 結局、そう、妄想でしかない。彼女ですら妄想の域を出る事ができない。そのことになぜか少しだけほっとしている自分がいた。

「どうせなら車も奪ってどこか遠くに行きたいね」

「車運転できるの?」

「ハンドル握れば走るんじゃないの?」

「子供でももう少しましな知識もってる」

「じゃあ電車とかかな。街を出るとしたらどこにいくのがいいだろうね」

「さぁ? ここじゃなきゃどこでもいいんじゃない? 見つかりにくい場所なら尚いいだろうけど」

「田舎もいいけど都会かなぁ。人の中に紛れるほうが見つかりにくそうだし」

 楽しそうに語る彼女。馬鹿馬鹿しい妄想を膨らませ、目を輝かせるその様に少しだけ違和感を感じる。

「どうかした?」

「いや、なんか意外だと思って」

「何が」

「君がそんな風に何処かに居なくなりたがっているのが」

 ボクみたいな人間の望みであればそれはわかる。というかそれはボクの望みそのものだ。だけど彼女は、ボクとは違う。いろんなものを持っている。約束された将来がある。彼女ならどんな未来でも選べるはずなのに。

「案外、自由ってわけでもないもんだよ。まぁ確かに今の生活も嫌いじゃないよ。真面目に優等生してみたりその裏でちょっと悪いことしてみたりさ」

 彼女は再び胸ポケットからケースを取り出して唇に一本タバコを咥えて火をつける。そうしてゆっくりと吸って、吐いて。

「でもまぁまだ見ぬ世界を見てみたいっていうのは誰しも同じなんじゃないかな。贅沢なことかもしれないけどね」

 ぷかりぷかりとタバコをふかす彼女は憂いをたたえた目でどこか遠くを見つめていた。それは始めて見る彼女の表情だった。

 彼女も、彼女もまた、ボクと同じ同年代の子供なのだと、なんとなくそう思った。同じだなんておこがましいかもしれないけど、確かに彼女は今は、今だけかもしれないけど、ボクと同じ悩みを抱える、たしかな同胞であった。

 偶像の女の子はそこにはいなかった。

「別に贅沢でもないんじゃ」

「そう?」

「どこか、遠くへいってみたいね」

「そうだね、どこかなんて知らないけど。マリヤはどこへ行きたい?」

 窓の外で風が鳴るのが聞こえる。塞ぎきれなかった隙間風の冷たさに二人して震える。蝋燭の炎がフっと消えた。

 タバコの先の小さなオレンジ色の点だけがぽつんと輝いていた。

 じりじりと進んでいた小さな灯りは唐突にその速度を上げ、やがて彼女の手でもみ消された。闇があたりを覆う。甘い彼女の香りが強く存在を主張していた。

 ボクは答えを返せなかった、ボクはどこへ行きたいのかわからなかった。

 この暗闇の中のように、道はどこにも見えなかった。

 ボクはどこへ行きたいのだろう。

 どこへいけるのだろう。

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