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「学校爆発しないかな」

 そんな言葉がポツリと漏れた。

 十二月の始め、期末テストを間近に控えた寒い日の事だった。

 場所は寂れた部室棟の使われていない物置のような部屋の中。

 部屋の中には甘ったるい香水と、タバコの匂いが充満していた。チョコレートのような甘い甘い香りだ。

 その香りの主は口からゆっくりと煙を吐いてボクの方を見つめて真面目な顔で言った。

「いいねそれ、面白そうだ」

 長い髪と整った顔立ちに似合わないハスキーな声。

 彼女は携帯灰皿でタバコをもみ消すとコロンを一吹きして椅子に深く腰掛けなおす。玉座に着く国王のようなその尊大な態度で、彼女は言外にボクの話の先を促している。

 ボクの呟きは別にたいした意味のない、誰もが一度は考えるようなくだらない現実逃避に過ぎないのだけど、陛下はその言葉に大変興味を示したようだ。

「別に深い意味なんて」

「意味なんてなくてもいいじゃない、実際に起きたら面白そうでしょ」

「面白くともなんともないと思うけど」

「そうかな、私は面白いとおもうんだけどな」

 いつも思うけどこの優等生はどこかずれている。

 勉強が出来るくせにタバコは吸うし授業はサボるし、とにかく自分の欲求にただただ素直なのだ。

「大体実行に移したら犯罪だし」

「そんなの今更じゃない」

 言いながら彼女は自らの制服の胸ポケットを軽く叩く。そこにはオレンジ色のからいらしいシガレットケースと銀色に鈍く光るジッポが収められている事をボクは知っている。

 そうして別に好きでもないのに彼女がタバコを吸っていることも。

「わかってるならやめたら、体にも悪いし」

「そういうわけにもいかないよ。これは記号的なものだから」

「なにそれ、意味がわからない」

「それでいいんだよ。世の中ってそんなもんだからさ」

 こうやって意味があるのかないのか、わけのわからない会話も日常茶飯事だ。

「まぁさ、ともかく私は校舎が爆発したら間違いなく大爆笑するわ。学校なんて消えてなくなればいいと思う。ついでに邪魔くさいもう動いてない工場の煙突とか、寂れ切った漁船しかない港だとか、団地に人が移り住んでもう誰も住んでないアパートだとか。みーんな目障りなもの全て爆発四散しちゃったら気分爽快だと思わない?」

 それはまぁたしかに気持ちいいかもしれない。

 ボクはこの街の事があまり好きではなかった。嫌いなところをあげていったら両手両足の指では足りないくらいに。

 例えば代わり映えのしない、くすんだ灰色の街並み。中途半端に開発が進み、そこかしこに残る緑と自然のあと。

 ボクが生まれた頃にはもう煙を吐き出さなくなって久しい煙突。

 生臭くて、さび付いた漁港、子供が人形遊びに使う家みたいな似たり寄ったりの気味の悪い団地。

 その影響でもう誰も住んでいないままの、壁のような四角い灰色のアパート。

 明確な理由があるわけではないと思う、ただ、なんとなく時の流れに取り残されたようなこの街並みが嫌いだった。

 彼女もまたボクと同じようにこの街が嫌いなんだと思う。

 少し歩けばコンビニにあたる。欲しい物も少し電車に揺られればすぐに手に入る。必要なものはあった、満たされている。でもだからこそこの街に住む若者たちは変化のないこの街を嫌っているのだろう。たとえこの街から出て行って別の街にたどり着いても、きっと何も変わりはしないけれど。

 ただ不満であると、恵まれていないと、漠然とそんな風に自らの不幸を確認して、仕方ないと諦める。

 

 ボクが彼女について知っていることはそれぐらいのことで。

 ボクは思った以上に彼女の事を何もしらなかったのだと、後になって思うのだった。




 家から近い、部活動に所属しなくてもいい、そんな適当な理由から選んで入った高校での生活は、志望動機の適当さと同じく、何事もなくただただ静かに過ぎていた。

 二学期が始まっても友達はいなくて、近くの席の人たちと軽く話す程度。もともと人付き合いは得意でもなかったし、一人でいるのが楽だと思っていたから別に苦ではなかった。

 ただ、だれとも喋らない一日があると、少しだけ、寂しい気分にもなったりした。

 そんな埋もれていく日常の人々の中にも特別な輝きをもった人間というのはいるもだ。

 名前は知らない。

 黒く長い髪は遠目にも目立つ。

 健康的な肌の色、珍しい灰色の瞳。

 少しかすれた、特徴のある声。

 いつも成績で上位を収め、所属する水泳部でも市内でトップの成績。性格もよく、非の打ち所がない。

 そんな彼女の周りにはいつも笑顔があふれていた。

 ボクとは違う、物語の主人公に相応しい、そんな女の子。

 ボクは彼女の姿を遠巻きに眺めていた。

 素直にすごいなと思うこともあれば、完璧な人間なんていやしないだろうと妬むこともあった。

 だけど直接関わありあいになることなんてなかった。ボクと彼女の間に接点と言えるようなもの何一つなかったし、積極的に関わろうとも思わなかったからそれは当たり前のことだった。

 彼女がこの校内で有名人だからといって、彼女に無理してボクが近づいたところでボク自身の何が変わるわけでもない。そもそも相手にもされないだろうし。きっと一言二言話しておしまい。記憶にも残らないで、次に合うときには誰だっけと言われる。

 ボクには漫画の背景の顔すら書かれない人と大差のない程度の存在感しかない。

 そんなモブでしかないボクが偶然彼女と接点をもったのは高校に入学してから実に半年以上経った秋も終わりのある放課後の事だった。

 いつものように放課後の暇な時間を図書館でつぶしていると司書の先生が話しかけてきた。文芸部に貸し出している本の返却期限が来ているから変わりに受けとってきてくれないかと、そう頼まれた。

 断りたかった、でも声がでない。他人と喋るのが酷く苦手だった。よく見知った人にすら声をかけるのを躊躇する。お店で店員に話しかけるのだって怖い。

 自分のかすれた声が嫌いだった。喋ろうとしても、声がか細くかき消えてしまいそうになるのは、そんな自分の声を人には聞かせたくないから。

 くわえて頼みを断るという他人を拒否する行為が怖かった。もっと正確に言うならば他人に嫌われるのが怖い。

 関わることすらしようとしないのはその表れの一つで。チグハグなその考えは一体どこでボタンをかけ違えた結果なのか、自分ではわからない。

 そんなわけもあってボクはしぶしぶと先生に対して頷きを返すことしかできなかった。

 読んでいた本の貸し出し手続きを済ませてボクは図書室を出る。そうして向かうのは校舎の反対側に位置する部室棟だ。部活に所属していないボクは当然、そこに足を踏み入れるのは初めての事で、そのものめずらしさに視線が左右へと泳ぐ。

 一目見て古い建物だなと思った。

 豆腐を思わせるように四角いその単純な構造、雨風で汚れた灰色のコンクリートの壁、出入り口のスチール製の引き戸をを開けて中に入るとそこには混沌とした光景が広がっていた。

 廊下の壁にはところどころにマジックで落書きがされていて、昔の漫画に出てくる不良の溜まり場を連想させる。

 どこかからともなく聞こえてくる笑い声や話し声になぜかびくびくとしてしまう。

 等間隔に並ぶ各部の部室の扉からすると、各々の部室の広さはそれ程ないように見える。この狭い部室に何人もの人間がすし詰めになっていると思うとその人口密度の濃さに吐き気を催す。

 現に部室に入りきらないのか剣道部の男子が何人か部室の扉の前で着替えをしている。ボクはその光景から目を逸らして二階の文芸部の部室へと向かう。

 二階は一階に比べると随分静か、というよりも人の気配をあまり感じない。落書きなんかも見当たらなくて随分と平和なようだ。その事に少しだけ安堵しながらスチールのドアに掲げられたプレートを確認しつつボクは文芸部の部室をさがした。

 程なくしてすぐに部室は見つかった。

 その部室の前にはダンボール箱が置かれいて、その中に図書室の本が数冊無造作に置いてあった。なんとも雑な返却方法に少し呆れるものの、部室に足を踏み入れる必要がなかったことに胸を撫で下ろす。

 目の前の部室からは明るい、楽しそうな話し声が聞こえた。会話の内容までは聞き取れないし、盗み聞きする趣味もないから何を話しているのかはわからない、ただ、なぜか惨めで寂しい気持にった。

 別になにか悪い事をしたわけでもないのに、この場にいるのが苦痛で仕方ない。

 数冊の本を鞄に放り込み、早くこの場を去ろうと立ち上がる。図書室によったらすぐに帰ろうと踵を返したその時、鼻先を甘い匂いがかすめた。

 甘い、ミルクチョコレートのような、強い香り。

 我が校に料理部なんてあっただろうか? 首をかしげながら思い出してみてもそんな記憶はない。

 そもそもあったとしてこんな設備のなさそうな部室棟で活動なんてできるとも思えない。

 不思議に思ってボクはその匂いのするほうへと誘われるように歩き出す。不思議と先程までの気持は落ち着いていた。この匂いのおかげだろうか。

 その匂いは部室棟の奥、埃の積もる行き止まりの部屋の扉から流れてきていた。

 少しだけ開いたその扉からボクはゆっくりと中を覗き見る。

 そこは物置のような部屋だった。

 他の部室に比べると大きなスペースを取っているようだけれど、中にはこれでもかというほど物に溢れていて、古いカラーコーンや、バスケットの得点ボード、空気の抜けた大小さまざまなボールの入ったカゴに、壁際の棚やスチールの戸棚にはたくさんの本や紙類が詰め込まれている。

 その中に香りの元となるようなものは見当たらない。扉の小さな隙間から視線をどれだけ巡らせてみてもそれらしきものは見当たらずにボクはその扉に手をかけてゆっくりと開いた。

 積もった埃が舞い上がる。

 靴が汚れるのも構わず、一歩を踏み出す。

 埃っぽい空気の中、甘い匂いが強くなる。

 部屋の中央あたり、仕切りのように並ぶ本棚のさらに奥からその匂いは流れてきている。

 雑多に物の溢れたその部屋の奥へ、香りに誘われるように一歩一歩進む。

 風の流れを感じる。

 本棚の先、その匂いの元を確認するためにボクは踏み出してそこを覗き込む。

 小さく開いた窓。

 授業に使う少し古い机と椅子。

 そこに、彼女が腰掛けていた。

 長い黒髪と対を成すような、白い煙。

 彼女の右手、人差し指と中指に挟まれたオレンジ色の細長い棒状のもの。

 その先に灯った火。

 そこから甘い、チョコレートの香りが風に揺られて運ばれてくる。

 彼女はボクの姿に動じる事もなくその煙を立ち上らせる棒を口に咥え、大きく煙を吐いた。

 甘い匂いが強く香る。

「ああ、みつかっちゃったか」

 笑顔で言いながら彼女は胸ポケットを軽く漁って、そこからオレンジ色のケースを取り出してボクの方へと向ける。

「君も吸う?」

 中には彼女が吸っているのと同じタバコが数本入っていた。

 思わずいつもの癖で首を縦に振りそうになるものの、手を強く握って首を横に振る。

「そう」

 彼女は残念そうに言うと箱をしまって、代わりに携帯灰皿を取り出してタバコのを灰を落とす。ゆらゆらと立ち上る紫煙と、チョコレートの蕩けそうな香りに頭がくらくらした。

 事態に頭がついていっていない。どうして彼女がこんな場所にいるのだろうとか、なんでタバコを吸っているんだろうとか、疑問ばかりが頭の中を渦巻いている。

「何しにこんなところまできたの君は」

「甘い匂いがして、それが気になって」

「窓開けたのがまずかったかな、今まで誰もこなかったんだけど」

 彼女はそんな風に言いながらもタバコを吸うのをやめる気はないのか話しながらもしょっちゅう煙を吐き出している。

 暫くそのまま静かに時間が流れた、彼女はゆっくりと煙を吸って、ボクはどうしていいかもわからずただそれを眺めていた。やがてタバコがその身をほぼ灰にすると彼女は吸殻を携帯灰皿へと押し付けてこちらに視線を投げた。

 綺麗なその瞳と目が合う。

 灰色の瞳、ボクと同じ色の瞳。

「それで君はどうしたいのかな、万理也」

 名前を呼ばれて息が止まる。

 なんでボクの名前を知っているんだろう。

 質問よりもそのことが気になってしかたなかった。

「どうして、ボクの名前」

「前に珍しい名前の人が同じ学年にいるって聞いてね、覚えちゃった。まぁ普通はつけないよね」

「そうだね、しかも苗字が安部だっていうんだから笑えない。アじゃなくヤなのはせめてもの優しさかな。半端すぎて逆に迷惑だけど」

 ボクはこの可愛らしい名前が嫌いだ。

 子供の頃はこの名前のおかげでよくからかわれた。今でこそ直接そういった事を言う人はいないけど、多分、似合わない名前だと思って笑っている人はたくさんいるだろう。

「私はいい名前だと思うけど」

「君になら似合ったかもしれないね」

 ボクが苦々しくそう返すと彼女は小さく微笑んだ。

 その微笑の意味がボクにはわからなかった。

「それで、君は私の喫煙現場を見てしまったわけだけど」

 話題が一つ前に戻る。

 たしかに彼女がタバコを吸っているのには驚いたものの、別にボクはどうこうするつもりはない。他人がタバコを吸っていようが、酒やシンナー、危ない薬にまで手を出していたとしても特に何かを言うこととはないだろう。

 関わって面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。嘘臭い正義を振りかざしたってろくなことになんてならない。

「どうもしない。吸いたければいくらでもどうぞ」

「寛大な御心に感謝ね」

「おちょくってる?」

「そういうわけじゃないけどさ、これでも私一応、この学校じゃそれなりに有名だと思うわけ。そんな私の弱みを握ったのに何もしないってもったいないと思わない?」

 自分からそんなことを言うなんて彼女は馬鹿なんだろうか。それとも悲劇のヒロインにでもなって自分に酔いたいのだろうか。

 こうして話してみると随分と彼女に抱いていたイメージとその姿が食い違ってなんだか頭が痛くなってくる。

「思わない」

「欲がないのね」

「かもね」

 ああ、もう早く帰りたい。甘い匂いの出所も掴めたし、鞄の中の本を図書室に届けてもう今日は帰ってしまいたい。普段あまり喋らないせいか、とても疲れた気がする。

「私のことめんどくさいと思って早く帰りたいとか思ってるでしょ」

 どきりとした。

 クスクスと笑う彼女。でもその目は真剣で笑ってはいない。

「カマかけただけよ、態度があからさますぎるよ君。ため息吐いたのは無自覚かな?」

「ばれたしもう隠す必要もないかな。それじゃボクはこれで」

 手を軽く振ってその部屋から出ようと彼女に背を向けて歩き出そうとした瞬間、目の前に彼女がいた。ほんの一瞬目を放した隙に雑多な荷物に溢れたこの狭い部屋で彼女はボクの目の前まで移動してきていた。

 運動もできるとは聞いていたけど、こんな身軽に動けるなんて、三つ四つ年上にもいないんじゃないだろうか。

「ちょっとからかいすぎたかな、ごめん。私さ君の事が気に入っちゃったみたい、黙っててくれるみたいだし、今度はお礼をかねてお茶でも用意してゆっくり話したいんだけど」

 あまりに近いその綺麗な顔にドキリとする。

 ボクを覗き込むその瞳は、少し切なげに揺らめいて見える。

 少しだけ、ほんの少しだけ、もう少し彼女の事を知ってみたいと思った。ボクの抱いていたイメージとは違う彼女の本当の姿というものを。

 うなじのあたりを爪の先で掻くのはボクの悩むときの癖だ。

 夕焼けの赤い日差しが部屋の中に長い影を落としている。

 埃っぽい空気と、甘い残りが胸いっぱいに広がる。

 運動部の喚声も、吹奏楽部の演奏の音も遠く、ボクは彼女の瞳を覗き返した。

 生暖かい風が淀んだ甘い香りを流していく。

「別にいいけど」

 ぶっきらぼうに、気だるげな、自分の声が漏れた。少しかすれた聞き撮りづらい声。

 ボクのそんな答えに彼女はニヤリと勝ち誇ったような笑みをみせる。

「それじゃあ日程は追って連絡するよ」

 弾むような嬉しそうな声で彼女は言う。なにがそんなに楽しいのかボクには理解出来ない。こんな冴えない相手とお茶の約束を取り付けて何がしたいんだか。

 不思議な人だ。

 だから興味を持ってしまったのかもしれない。

「そう、もう帰っても?」

「いいよ、と言いたいところだけどちょっとまって」

 まだ何かあるのかとうんざりしていると彼女は自分の鞄をあさって、淡いピンクの花模様があしらわれた小さなアトマイザーを片手に戻ってきた。

 そうしてその小さな容器をこちらに向けて数度吹きかけると、あのタバコに似た甘いチョコレートのような匂いがふわりと、香った。

「念のため、タバコの匂いは隠蔽しておかないとね」

 自分から香る甘い匂いを不思議に感じる。

「明日には匂いは消えてると思うからそれまでは我慢して。それじゃまたね」

 手を振る彼女に小さく頷いてボクはようやくその部屋を出た。ドアをまたいで一歩廊下に踏み出すとそこはまるで別の世界のようで、遠のいていた放課後の喧騒がボクの近くへと戻ってきた。

 先ほど時間は夢だったのではないかと思うほどの不思議な落差。

 チャイムが鳴る。

 放課後、鍵を閉めて回る前のチャイムの音。

 ボクは急いで図書室へと向かう。

 自分の体から香るチョコレートような甘い匂い。

 彼女の匂いだけが、不思議な放課後の時間の残り香としてそこにあった。




 彼女との出会いから暫く、ボクの生活は特に変わる事もなく、代わり映えのしない何の変哲もない毎日がただただ静かに続いていた。

 時折校内で彼女とすれ違うことがあったけど、彼女はボクの事を気に止めた様子もなく、周囲の人たちと会話を続けていた。

 ボクみたいに目立たない人間と喋っていたらどんな関係なのかと邪推もされるだろうし、懸命な判断だろう。ボクとしても変に絡まれるよりは楽だったし、ただの社交辞令だったんだろうと思って、ただただ、普通にすごした。

 そうして寒さも気になり始めた十一月の頭。

 日も落ちてあたりが暗くなり始めた頃図書室から出てきたボクの前に再び彼女が唐突に現れた。

 図書室のドアを開けたときに、あの匂いがした。

 濃く、むせる様な彼女の香り。

 匂いの出所を探るように視線を巡らせると、図書室の扉に彼女が体を持たれかけさせてそこにいた。

「やぁ、奇遇だね」

 白々しい言葉だと思った。思ったけど言いはしない。自然ともれ出るため息は止めなかったけど。

「人前でため息って失礼だと思わない?」

「他意はないし、それとも心当たりが?」

「ひねくれてるわ」

 呆れたように言いながらため息を吐いた彼女にはあえて何も言わない。めんどくさそうだし。

「それで、何の用」

「この間お茶を用意するっていったでしょ、都合がついたからさ」

「今から?」

 携帯の時計を見ると時刻は十八時前。厳しい家なら門限の時間。これからお茶をして帰るとなれば、普通の家でもあまり良い顔はされないような気もする。部活をやってるなら別かもしれないけど。

「時間、まずい?」

「別に」

 家に帰ってもどうせまだ誰も帰ってないだろうし。帰っていたとしても、ボクが家にいようがいまいが気にするような人でもない。

 家はボクが生まれたときから母子家庭で、母はずっと仕事一筋で家事はボクの仕事だ。女手一つでマイホームを購入するような仕事好きな人だから家には殆どいない。だから別に帰りが遅くなったってそんなに気にすることもない。

「準備が無駄にならなくてすむなら幸い。それじゃいこうか」

 そう言って歩き出す彼女の後にボクは黙って続いた。

 暫く歩いて実習棟を出て、教室棟を出て、渡り廊下から部室棟へ、そうしてたどり着いたのは先日と同じ、部室棟の二階の一番奥、物置のようなあの部屋だった。

「なんでここ」

「あまり人が寄り付かないし、いろいろ便利なのさ。遠慮せずどうぞ」

 促されるまま開けられたドアから中へと踏み込む、相変わらず埃っぽい部屋。電気のついていない部屋は随分と暗くて足元も見えない有様だ。

「電球切れてるからちょっと不便だけど我慢して」

 言いながら彼女はどこから取り出したのか銀色の重そうなライターで明かりを点す。ぼんやりと照らされる部屋の中を彼女が先に発って歩く。前に訪れたときとは違い窓には暗幕が張ってあるのが見て取れた。

「中で明かり使うと外から丸見えになっちゃうからその対策だよ」

「わざわざそんなことまで?」

「一人になれる場所と時間ってのは貴重なものだよ」

 部屋の奥へとたどり着く二つの机と二つの椅子を並べた席の上には蝋燭と紙コップが用意されている。彼女は手にしたライターから蝋燭に火を移すとライターをしまってさらに部屋の奥へと踏み込む。

 離れたところに置かれたもう一脚の机の上にはガスコンロやティーバック、ココアの袋やコーヒーのビンなどが所狭しと並べらている。いつの間にやらここは完全に彼女の私有スペースと化しているようだった。

 どこからか取り出したヤカンとミネラルウォーターで彼女はお湯を沸かし始める。

 近くの本棚に目を向ければもともと収められていた紙類はどこへいったのか、漫画や小説がずらりと並んでいる。そこに並ぶラインナップは少しマイナーなものが多くて、不思議とボクの好きな本と傾向が似ていた。

 ガスコンロの火を眺めている彼女の背中に垂れる髪はボクとは対照的に長い。あの髪の毛に触れたらどんな感触がするのだろうかと、そんなことがふと思い浮かぶ。ボクのこの短い癖毛とは違って柔らかい感触がするのだろうか。

 蝋燭の炎がゆらりと揺れる。彼女の髪の毛も風もないのにかすかに揺れた。

 ヤカンの音がやけにうるさい。なんとなく気まずくてその背中にボクは質問を投げる。

「いちいちめんどくさくないのこんなことして」

「案外楽しいものだよ、秘密基地ごっこってやつかな。君もワクワクしない?」

「別に」

 ワクワクなんてしない。ボクはそんな風には思えない。昔なら、小学生くらいの頃ならまた違ったのかもしれない。

 思えば最近何かにドキドキしたり、ワクワクしたり、興奮というか、期待というべきなのか、そういった感情を抱いたことがないような気がする。

「どうしてこんなこと始めようと」

 そう聞くと彼女は振り返って悩むように右手で後頭部をかくようにして首をひねった。

「どうしてって言われてもね、成り行きっていうかさ、別に私、人付き合いが特別好きだとか勉強が好きってわけじゃないし、むしろめんどくさいわ。だけど必要だからやってる。嫌々だから当然ストレスもたまるわけ、その発散とでもいえばいいのかな」

「コレも?」

 いいながら右手の人差し指と中指を立て口元に当てる仕草を見せる。

「ソレはまた少し違うかな」

 ヤカンの音がいいかげんうるさくなってくる。彼女は火を止めて紙コップにティーバックを入れてお湯を注いでいる。

「砂糖とミルクは?」

「いらない」

「そう、イメージどおりだ、置いてある水だから味はそんなによくないけど」

 両手に紙コップを持って彼女が戻ってくる。片方をボクの前に、もう片方を手に彼女は向かいの席に座る。

「君は逆に随分想像してたのと違うね」

「そう? 君はどんな想像を私に対して抱いていたのかな。興味があるよ」

 素直に答えるべきかどうか迷う。ボクは彼女に対して幻想にも近い尊敬の念のようなものを抱いていたから。

 少し悩んでボクは素直に言ってしまうことにした。ボクの抱いていた想像よりも彼女はよっぽどフランクで軽かった、だから話しても問題ないだろうとそう思った。

「静かで聡明な人だと思ってた。品行方正で容姿端麗、才色兼備で完璧。正直憧れたこともあったし、嫉妬した事もあるくらい、住む世界が違う人だと思ってた」

「へぇ、それは光栄だね。実際話してみてどうだった? 幻滅したかな」

「安心した、かな」

「安心?」

「やっぱり完璧な人間なんていないんだって、完璧な人間とか不自然できもち悪いし」

「なるほど、じゃあもう少し人間味を見せたほうがいいのかな」

 そんな風に呟いて彼女は紅茶に口をつける。ボクも手元の紙コップを持ち上げて香りを楽しむ。まだ湯気のあがる熱いそれを冷ましながらゆっくりと口に含むと鼻から抜けるようなクラクラとするような強い香りがした。不思議に思って口を離すより早く、閃光が目を焼いた。

 徐々に視力が戻ってくる、原因を探ろうと辺りを見回すと、彼女が携帯を片手にニタニタと笑っていた。どうやらボクの姿を写真に収めたらしい。

「いやいや嵌めるような真似してごめんね。君はちゃんと約束を守って誰にも喋らないでいてくれたようだけど、念には念をと思ってね」

 なんのことだかさっぱりわからない。

 ボクが混乱していると彼女は机の下から何かを取り出して机の上に置いた。ゴトリと重い音がする。揺れる蝋燭の炎に照らされるそれは琥珀色の瓶だった。ボクは思わずそれに手を伸ばす。

「ブランデー……?」

 ラベルを確認していると再び閃光が走った。

 それでようやく事態を把握した。

「警戒心が薄すぎるんじゃないかな、まぁ私にはそのほうが都合がよかったわけだけど。これで君も完全に共犯だね」

 嬉しそうに言う彼女とは対照的にボクは重い、それはそれは気持ちのこもった重いため息を吐いた。

 彼女の言うとおりボクはまんまと嵌められたわけだ。

 前に約束を取り付けられた時からおかしいと思うべきだったのだ。彼女のような人間がボクなんかにかまうこと自体がおかしかったのだ。ボクの中にあった彼女に対して抱く幻想がその疑心を打ち消してしまっていたのだろうか。

「それでその写真でボクをどうゆするつもり?」

「人聞きが悪いこと言わないでよ、あくまで保険だよ。君が先生に告げ口しないためのね」

 自棄になってブランデー入りの紅茶を一気に煽る。慣れない香りが鼻から抜ける感覚が新鮮だ。

「そう怒らないで。私だって私なりに平和な学校生活のために必死なんだから」

 苦笑する彼女の顔にはその言葉を裏付けるような憂鬱さが見て取れた。それは毎日鏡でみるボクの表情に少しだけ似ている気がした。

 炎が揺らいで彼女の表情が一瞬見えなくなる。再び明かりに照らされた彼女の顔はいつもと同じ隙のない澄ました完璧な笑みだった。

 彼女といるとどうにも調子が狂う。

 結局ボクは何者でもないのだ。

 彼女に、特別である彼女に声をかけられて、もしかしたら、なんて少しだけ期待してしまったのだ。モブでしかないのに、何を期待したっていうんだろう、何かが変わるなんてことあるはずもないのに。

「君に興味があるって行ったのはあながち嘘でもないんだよ」

 ボクなんかのどこに興味をもつっていうのか、平凡で、普通で、いや、それよりも下か。何一つ他人に誇れるようなもはもっていなくて。平凡じゃないのは名前くらいのもの。呪いの様な、大嫌いな可愛らしい名前。

「貴方は、貴方が思う以上に魅力的だよマリヤ」

 真っ直ぐに見据えた彼女の顔は笑っている。馬鹿にしたような、可愛らしい発音で呼ばれた名前。腹がたった、苛立った。本気なのか、それともからかっているのか、わからない。 けど、彼女の言葉を信じたい自分がいた。自分のような人間にも他人に誇れるなにかがあるのではないかと。

 彼女はもう随分と温くなったであろう紅茶を一気に飲み干すと胸ポケットからシガレットケースを取り出してそこからタバコを一本取り出して、ケースをこちらへと差し出してくる。

 首を横に振ると特に気にした様子もなく彼女はケースをしまって蝋燭からタバコに火を点して口に咥えた。

 あの甘い香りが部屋へと広がって行く。

 蝋燭の揺らめく頼りない明かりだけが照らす部屋ではよりいっそう匂いが敏感に感じ取られる気がする。甘い、甘い、チョコレートの香り。

 彼女が咥えているのはもしかしてタバコじゃなくてシガレットチョコなんじゃないかって疑ってしまいそうになるくらい濃密な甘い香り。

「どういうきっかけで吸おうと思ったの」

 少し前にはぐらかされた問いを再び投げてみる。彼女はゆっくりと煙を吐いてから口を開く。

「なんだろうね。反抗心かな? それとも単に大人の真似事をしてみたくなったのかもしれない」

「案外無駄なコトをするんだね君も」

「無駄とも言い切れないと思うけどね。こうして君と出会うきっかけにもなったし」

「ボクに出会ったからってなんだっていうのさ」

「秘密を共有しあう仲ってのはなかなか楽しいものだよ。私のこんな一面を知っているのは君だけだ。もっと誇ってもいいんじゃないかな」

「自分の事でもないのに自慢なんて、ましてや人に言えないようなこと」

 呆れてため息を吐くボクとは対照的に彼女はタバコを片手におかしそうに笑っている。一体何がそんなに楽しいんだろうか。酒に酔ってるんだろうか。ただまぁ気楽そうで何よりなことだ。こっちの気も知らないで。

「その割に、羨ましそうな顔しているね」

「どこが」

「私にはそう見えたってだけだよ。君がどう思っているかはしらないけどね」

 クスクスと彼女は上機嫌に笑う。たしかにその能天気さを羨ましいと思わなくもない。

「何事も難しく考える必要なんてないんじゃないかな。やりたい用にやればいいさ。私達はまだ間違いを犯すことを許される歳だよ。かなり、ギリギリだけどね」

「間違いを許されるからといってわざと間違っていいことにはならないと思うけど」

「手厳しいね、耳が痛いよ」

 涼しい顔でそんなことを言いながら彼女は煙を肺に貯める。その姿はもはや清々しいくらいに堂々としている。

「今を大切にしろとか、時間は二度と戻らないとか言うつもりはないけどさ、まぁやりたいと思ったことくらいはやってみていいんじゃないかな」

「君はもう少し自重すべきだと思うけどね」

 やりたいこと、ね。

 そりゃ君みたいないのはそういうこともいっぱいあるのかもしれないけど。ボクにはそんなやりたいことなんで何も思い浮かばなかった。語るほどの夢もなければ興味のあることだってない。漠然とした何かをただ求めるだけで、具体性のある思考なんて何一つなくて、同じ場所をただただぐるぐると回っている。

 時折降って沸いたような思いつきを追いかける気にはなれない。

 そんなものを追いかけたってその先にあるのは失敗と後悔。

 どこにも正解なんてなくて結局時間だけが過ぎていく。

 息が詰まりそうなくらい、ボクの生きる世界は狭く閉じている。

「本当に?」

 突然の問いかけが何を意味するのかわからずボクはただ、首を傾げた。

「なんでもないよ。さて、そろそろいい時間だしお開きにしようか」

 言いながら彼女は机の上の紙コップを握り締めてそのまま近くのゴミ袋へと放り込む。

「そうそう、帰る前にこれ」

 あの日と同じように彼女はボクにアトマイザーを向けて香水を数度吹きかける。こんなに濃い匂いをさせたら逆に怪しまれるんじゃないかと思うけど、こんな時間に誰かに会うこともないだろう。

「片付けは私がやっておくよ、それじゃあまたね」

 彼女はそう言って手を振る。ボクはうな垂れるように頷きながら、仕方なく手を振り返す。そうして彼女に背中を向けて歩き出す。部室棟を出るとすっかり暗くなっていた。冷たい冬を間近に控えた空気に思わず身震いする。自分の輪郭をはっきりと感じられるようなその冷たい空気の中、甘ったるいチョコレートの香りが妙に浮いている。

 部室棟の奥、ボクが先ほどまでいたと思われる部屋のあたりを眺めても、暗い窓があるだけで中の光が漏れている様子はない。まるでそこには本当は何もないように、ただただ真っ黒な窓があるだけだ。

 冷たい風が吹いた。身を縮みこませる。

 ふわふわとした甘い匂いが風に溶けていく。

 体が冷える前に早く帰ろうと、ボクは急いでその場を離れた。




 別に学校が嫌いなわけではないと思う。

 親しい友人はいない、ろくな会話をすることもなく時間が過ぎていく、昔少しいじめられた経験がある。それでも別に学校に行く事自体をやめようと思ったことはなかった。

 それは惰性とか、習慣とか、そういったものだったのかもしれない。

 むしろ学校にいるほうが安心できた。

 学校に行って授業を受けていれば何かを間違うことはない。

 それは正しい行動だから。

 困るのはその後、放課後や、休日。

 部活にも所属していない、特に趣味のないボクは持て余した時間をどう潰せばいいのかよくわからなかった。

 本を読んだりテレビを見たり、他人の真似事もしてみたけれど、それでも妙な焦燥感は消えない。どこかでこんなことをしている場合ではないとそんな想いが燻っていた。でも、具体的に何をすればいいかは一向に答えが出る気配もなかった。

 空洞だけが自分の中にあった。

 青臭くてダサい悩みだ。

 厨二病、ヒロイックシンドローム、言い方はいくらでもあったけど、有り触れた不幸にボクは大層困っていたのだ。それは生死を左右するほどの深い悩みではなかったけれど。


 校内で時たま見かける彼女は相変わらず人気者だった。

 誰からも好かれ、周りにはたくさんの人が集まっていて、彼女はその中央で儚げに笑う。あの部屋でボクに見せた横暴な態度や、感情など億尾にも見せず、完璧な優等生の形としてそこにあった。ボクはそんな彼女の二面性に素直に感心し、今までと別種の、また違った憧れを抱いた。

 ボクも彼女のように器用に立ち回れたらまた何かが変わっただろうか? なんて、無駄なことを考えてみたりする。

 そんな無駄な仮定をこねくり回しても何一つ変わりはしないことはよく知っている。

 だからそんな考えは頭の片隅に追いやって、必要なことだけを考える。高望みをしたって叶いはしないのだから。


 時計の針の音と誰かか本のページを捲る音、それに自分の握るシャーペンがノートの上を走る音が聞こえる。目の前にあるのは数学のノートと参考書。今日の六限にだされた課題を早速図書館で片付けているところだった。

 課題や予習復習を楽しいと思ったことはなかったけど、嫌いでもなかった。それはボクが学校に対して抱く気持ちに似ていた。こうして課題を片付けている間は他のことを考えないですむのが楽でよかった。

 そんな数式と微かな音だけが支配するボクの世界に、唐突に言葉が飛び込んできた。今は現国の気分じゃないんだけど。

「何をしてるのかな」

「見てのとおり数学の課題」

「隣に座っても?」

「目立つからやめて」

 声で彼女だとわかったから向かいに腰掛けたその姿に視線を向けることはしない。今は目の前の問題を解いてしまいたい。凡人並の集中力しかないボクは話しながら難しい計算式なんて解けないし。

「そこ、計算まちがってる」

 彼女の細い綺麗な指がボクのノートの一点を抑える。言われて見れば、確かに初歩的な計算ミスをやらかしていた。消しゴムで消して正しく書きなおす。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 暫くして問題を解き終えてようやく頭を上げる。ここは図書室だと言うのに彼女は購買で買ったらしきココアを堂々と飲んでいる。周りの視線が痛い。ため息を吐くの我慢してボクは彼女に聞く。

「何の用」

「君があそこに遊びに来てくれないからこっちから誘おうかと」

「そんな約束した覚えが」

「またねって私は言ったと思うんだけども」

 ああ、たしかにそんなことを言っていた気がする。でもそれがあそこを再訪するなんて約束にはならないと思う。

 あれからまた一週間ほどが経っていた。

 ボクは日々時間をつぶすことに必死だった。家と学校の間を行き来するだけの日々。なんの役にたつのかもわからない知識だけが無駄に増えていく。

「ボクだって忙しいんだ」

 早く出ていってくれというふうに手を振るが彼女は気にした様子もなく机の上に身を乗り出して携帯を突き出してくる。

「なんならこれ、私の友人に一斉送信してもいいんだけど」

 その液晶に映るのは、薄暗い部屋でブランデーのボトルをしげしげと眺めるボクの姿だ。ゆする気はないなんて言っていたのはどの口だろうか。そう言い返そうとも思ったけれど、やめておく。これ以上変に目立ちたくなかったし、なにより彼女のほうが立場が強い。

「わかったよ、付き合うよ」

 諦めて筆記用具や教科書を鞄にまとめてすぐに席をたつ。これ以上他の人達にも迷惑をかけられない。

「やっぱり人間は素直が一番だと思うわ」

 そう言って笑う彼女に引きずられながらボクは図書室を出る。

 彼女が一体ボクに何を求めているのかまったく想像もつかなかったけれど、それからボクはちょくちょくあの秘密基地を訪れることとなった。

 最初の方こそ写メで脅されて嫌々だったけれど、放課後に行く場所があるというのは思いのほかボクにとっては快適なことだった。

 何より放課後の学校をうろついていると彼女がどこからとも泣く表れ、否応なしに目立たされるのだから他に心休まる選択肢もなかったのだけれど。


 十一月も半ばに入るともう随分と寒くて、今日は朝から雨が降っていたこともあり、なおさら気温が低い。振り続ける雨は勢いを増し、ボロい秘密基地の天井から時折染み出して逆さまのカラーコーンに水をはる。

 白い息を一つ吐いて、多少はましになるようにと薬缶に水を入れ火にかける、ついでに蝋燭にも火を点して頼りない光源を確保する。

 秘密基地の迷彩はあれからまた進化していて、窓に張られていた暗幕はボクらがよく使う一角を覆うように変更され、また一層と目立ちにくさを増していた。

 そんな彼女自慢の基地の中にはまだ当人の姿はない。ボクより先に来ていることもあればこない日もある。別に彼女に会おうが会うまいがどうでもいいことなのだけれど、一人でここにいるのはなんとなく怖かった。

 それは薄気味悪さとかそういった怖さではなく、単純に教師や他人に見つかった時の対応をどうすべきかという悩みだった。

 お湯が沸いてコーヒーを淹れたところで、ちょうど、彼女が扉を開けてそそくさと入ってきた。

「何か飲む?」

「紅茶で」

 頷いて新しく紙コップを一つ取り出して紅茶を入れる。シュガーポットもついでに。

「ありがとう、しかし君も随分と染まってきたね」

「なにが」

 熱いコーヒーに口をつけながらぶっきらぼうに返す。指先から伝わる熱い熱と、苦く暖かい液体が冷えた体をほんの少しだけ温めてくれる。

「何の疑問もなくお湯沸かして飲み物入れてるけど見つかったら普通に停学だからね」

「その時は君のせいにするから」

「うん、やっぱり随分染まってるわ……」

 珍しくやれやれと疲れたような素振りを見せる彼女を尻目にボクは鞄を漁っていつものように勉強道具を取り出して課題に取り掛かる。今日は苦手科目の英語だ。日本から出るつもりも、出られる要素もないボクがなんでこんなものを学ばないといけないのか甚だ疑問だ。

「しかし君も対外真面目だね。こんなところで勉強なんて。目悪くなるよ」

「別にメガネかければいいし。それより君の方こそ課題ちゃんとしてるの」

「当たり前。私の成績知ってるでしょ」

 そういえばそうだった。こんなでも彼女は優等生だ。こうして向き合っていると忘れてしまうけど。いったいいつ勉強してるんだか。少なくとも学校にいる間は授業中くらいしか彼女が自由になる時間はないとおもうけど。

「天才肌だから、授業だけで十分なのよ」

「さいですか」

 神はなぜ彼女にニ物を与えたのか。この破綻した性格と引き換えなのだろうか。

「まぁ家に帰ったら予習、復習と課題くらいはしてるよ。後はノートの取り方がポイントかな。なんなら勉強教えてあげようかマリヤ」

「いいよ、別に。あと名前で呼ぶのはやめて」

 これはしょっちゅう言っていることなのに彼女はからかう様にボクの名前を何度も呼ぶ。その度にボクは割りと本気で苛立つ。その苛立ちが子供じみていることは理解していた。

 珍しい名前、大それた名前、それにそぐわない平凡な自分。そんなことに悩んでいる自分のことも嫌いだった。

「そんなに嫌?」

 彼女の問いかけに素直に頷いて返す。

「そう」

 彼女もまた同様に頷くと、ロウソクからタバコへ火を点して吸い始める。

 彼女が吐いた煙がオレンジの炎を揺らす。雨音にかき消されることなく響く、天井から染み出す雨漏りの規則的な音、彼女の香り。薄暗い部屋の中、タバコがジリジリとその身を灰に変えるゆったりとしたその速度よりも時間の流れを遅く感じる。

 赤と白と黒が揺らぐこの不思議な空間にいる間はなぜかあの焦燥感を感じることはない。

 この静かな時間は嫌いではなかった。

 そんな心地よい静寂を破ったのは小さく可愛らしい彼女のくしゃみだった。

「くしゅん」

 鼻がむずむずするのか、鼻を数度鳴らした後彼女が呟く。

「寒い」

「寒いね、暖房器具でも置いたら?」

 適当に返しておいてノートから目は離さない。

「置く場所がないし火事になるわ」

 ブルリと体を震わせて彼女は煙を吐く。

「それも、いいかもね」

 この古ぼけた建物が大きな炎の中に呑まれていく様を想像すると、胸を暗い喜悦が満たした。目のまで揺れる小さな火ではない、赤い、赤い大きな炎。全てを燃やす大きな熱。

 それを夢想するだけで何故だか妙に満たされる。

「何、破壊願望でもあるの」

「さぁ、どうだろう」

 自分で何かを壊したいとかそんな風に思ったことはなかったし、実行に移して見たこともない。ただ、胸中に抱いた炎のイメージはボクの中に強く焼きついて燻っている。

「寒い」

「寒いね」

 先程と同じ中身の無いような会話。

 だけど、その言葉が次の言葉のための踏み台であることがなぜかわかった。それは慣れとか、情とか、もしかしたら絆とかいうもののせいだったのかもしれない。

「隣に、座っていい?」

 彼女の言葉にボクはうなずきを返す。距離が縮まって、彼女の体温を身近に感じる。

「マリヤがデレた」

「寒いだけだから」

 彼女の言葉を聞き流してボクは手元の宿題に一層集中する。

 寒い。

 とても寒い。

 なのに顔が少し、熱い。

 薄暗い部屋、照らすのオレンジの炎だけ。

 多分悟られはしないだろう。

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