会いたい、けど
「うそ……」
咲子は肩をつかむ貴也の指を一本一本外した。
あの頃とまったく変わってない――死んでいるのだから当たり前か。今は同じ年になってしまった周一。忘れたことのない黒いジャケットに、合わせた黒のヘルメットまで右手にさげて。
咲子はよろめくようにしてガレージを飛び出した。
「さきちゃん!」
「ちょっと待って!」
兄弟が咲子を呼び止める。かまわず玄関に飛び込んで、リビングに逃げ込んだ。
「どうしたの? 遅かったじゃない」
「あ、うん。ちょっとね……」
母親に周一の幽霊を見たなんて言うわけにもいかない。見た、でいいのだろう。貴也も見えているようなことを言っていたし。
「何でもないの。もうお風呂はいるね」
今日は丹念に肌の手入れをしよう。ミルクの入浴剤をたっぷり入れて、のんびり温まろう。
長い入浴を終えて出てくると、待ちかねていたかのように携帯電話が鳴る。かけてきた相手を見ると貴也。ついさっきの出来事を思い出して、一度携帯電話を置きかける。それから思い直して、通話ボタンを押した。
「さきちゃんか? さっきはびっくりしたな」
おそるおそるといった雰囲気で貴也は話し始めた。
「ねえ……あれ、見たのあたしだけじゃないんだよね?」
社会人になってすぐかけかえたグリーンのカーテン。咲子が腰かけているのは合わせて買ったグリーンのベッドカバー。小学生の頃から使っている学習机。チェスト――そしてそこに飾られている咲子と周一の写真。きっかけは何だったか忘れたけれど、たまたま家の前を通りがかった周一を捕まえて一緒にとったもの。
見慣れたはずの自分の部屋が、知らない場所のように思えた。
「俺も見えた。だけど、さきちゃんいなくなったら、すぐににーちゃんも消えちゃってさ。どれだけ探しても出てきてくれないんだ」
頼む。そう言う貴也が受話器の向こうで頭をさげている気配が感じられた。
「もう一度来てもらえないかな?」
「無理。もうお風呂入っちゃったし。明日仕事忙しいんだよね」
「そこを何とか」
「……考えとく」
結局、貴也の頼みを受け入れる気になってしまったのは。
咲子自身も、もう一度周一に会いたかったから。あの頃、周一はあまりにも大人すぎで気持ちを伝えるなんてできなかった。
通話を切って、携帯電話の待ち受け画面を見る。チェストの上の写真と同じ。周一の腕に腕を絡めて二本の指を勢いよく立てている咲子。苦笑いの周一。この時の周一は二十四歳。もうすぐ咲子も同じ年になってしまう。
幼い制服姿の自分の笑顔が眩しかった。
翌朝は、貴也とは同じ電車にならなかった。昨日は様子見だとか言っていたから、今日は別の電車に乗ったのだろう。咲子は電車の定位置に滑り込んで、父親の武志の書棚から持ち出してきた剣客小説を開く。それほど厚い本ではない。新宿に到着するまでの四十分弱で、半ばまで読み終えることができた。
出勤すると、昨夜メールで送っておいた『アルバイト アイ』に出す広告のチェックが終了して戻ってきていた。文面を少々変更しただけで問題ない。
先方の担当者と池田さんにできあがった原稿をメールで送信して――何か問題が発生した場合池田さんと共有するためにCCに入れることになっている――朝一番の仕事終了。
会社に常備しているインスタントコーヒーとマグカップを手に給湯室に向かう。
自動販売機も社内にあるのだけれど、どういうわけか非常にまずい。人によってはドリップ式のコーヒーを常備していたりするが、咲子はインスタントで十分だと思っている。
おいしいものは好きだけど、それほど食にこだわりもってるタイプでもないし。
「選考会、準備頼める? 抽出したデータ、出席者に昨日のうちにメールしておいたから、プリントアウトは必要ない。今回は全員ノートパソコン持ってくるっていうし、印刷用紙節約指令が出ているしね」
宮本さんも、マグカップを手に給湯室に入ってきた。彼女の方は蓋つきのマグカップだ。ティーパッグを入れて蓋をすれば、紅茶がおいしくいれられるという優れもの。出したティーパッグは蓋の上に置いておけばいい。
「お昼、今日はどうする予定?」
宮本さんがたずねた。
「お弁当持ってきてます」
咲子は週数回弁当持参で通勤している。父親の弁当を作るついでに母親が作ってくれるのだ。
「じゃあ悪いけど、お昼急いで食べて選考会の会場設置手伝ってくれる?」
「最初からそのつもりです」
選考会は十三時から。昼休憩が始まるのと同時に食べ始めて、半には会場設置に入ることができるだろう。
「飲み物は出しますか?」
「ペットボトル持参するって。会議室の自販機はお客様専用になったんだってさ」
「ああ、そういえばそんな通達も出ていましたねぇ」
会議室には料金を払わず使える自動販売機が設置されていた。以前はそこの飲み物は飲み放題だった。お客様来社時には、社員――新人の仕事であって男女の別はない――がいい茶葉を使ってお茶をいれたというのに、経費削減にもほどがある。
午前中の仕事を終え、選考会のために会議室を準備し、選考会が終わるのを待っていたら二十時になってしまった。選考会会場からは随時内線が入ってくる。そのたびに指定された相手に電話をかけ、出なければ一時保留、出れば仕事を受けられるかどうかの確認をするのである。こうしてある程度絞り込んだら、今度は相手方との面接だ。 これも咲子の仕事に含まれる。相手から指定された期日が少ないため大慌てだった。とりあえず十人のメンバーと、予備三名を選び終えて、相手方との面接の準備を進める。
早めに家に連絡を入れておいたから、今日は夕食は用意されていない。会社の入っているビルの一階に駆け込んで仕事をしながら弁当を流し込んで夕食終了。
残業して、最寄りの国領駅に着いたのは夜九時を回っていた。この時間帯はまだまだ人通りも多い。ヒールの音を響かせて家の前まで戻ってくると、隣家のガレージのシャッターがあがっていた。
まだ冷え込む時期だというのに、入口に寄りかかって待ちかまえている貴也。ダウンコートのポケットに両手をつっこんでいる。
「さきちゃん」
名前を呼ばれて動揺した。昨夜は考えておくとしか返事していなかったはずなのに。
「……頼むよ」
大きな男が、小さく見えた。
「俺一人じゃどうしても見えないんだ。見えても、きっと自分がおかしくなったと思うだけだ。でも、さきちゃんも一緒なら……」
伸ばされた手。指先を思わず掴む。手袋越しにその手がひんやりしているのが伝わってくる。
そうだよね、会いたいよね。
たった二人の兄弟で――ずっと離れて暮らしていたのなら。
「……じゃあ、ここからガレージの中、のぞくだけなら」
とうとう咲子は妥協する。ぎゅっと手を握り合ってガレージをのぞいた。
「ひどいじゃないか、いきなり帰るなんて」
貴也と咲子は顔を見合わせる。まぼろしなんかじゃなかった。バイクのシートに寄りかかって、長い脚を組んでこちらを見ているのは――死んだはずの周一だった。
「二人とも、俺に会えて嬉しくない? 普通、死んだ人間と話をする機会なんてないのにさ」
軽くすくめた肩。ガレージの暗めの照明の下でもわかる笑顔。
「会いたくなかったわけじゃない、けど……信じられなかったから……」
ねぇ? と咲子は貴也を見上げる。その咲子を無視するように貴也は
「にーちゃん!」
と周一に向かって駆け寄り――そして勢いよくバイクに激突した。
「いてぇ!」
脛を思いきりぶつけた貴也の声がガレージに響く。
「……残念だけど、見えてるだけで実体はないから」
昨日と変わらず、周一の声は愉快そうだった。




