あわただしい月曜日
朝、人は皆同じ方向へ向かって歩いていく。あと二時間もすれば、逆方向に向かって歩いていく人もふえてくるのだけれど、この時間は駅から新宿方面へ向かう電車に乗る人が大半だ。
「さきちゃん」
駅近くの踏切で声をかけられた。
「おはよう」
咲子はふり返る。スーツの上から黒いコートを着た貴也は、別人のように見えた。
「社会人っぽい」
「ぽいって何だ。立派に社会人だろ」
ホームに並ぶ。貴也の手が、咲子の手に落ちる。咲子はパスケースと親書サイズの本を右手にまとめて持っていた。
「……本」
「新宿まであたしは乗り換えないから、中では読書をね」
「何読んでるんだ?」
「ナイショ」
「……けちっ」
「けちでいいもん」
手にしていたのは『ねらった男をおとすための三十のルール』――とても貴也に見せられるようなものではない。 貴也を「おとそう」とかいう意志はこれぽっちも持ち合わせていないけれど。
駅について、定位置の一番後ろの車両にが来る位置に並んで待つ。
「何で一番後ろなんだよ」
「少しだけすいてるから」
貴也の視線が、咲子の手にした本に落ちる。
「俺も本持ってくればよかった」
「貸さないよ? ……ていうか、何で一緒に乗ろうとするの?」
「様子見ってやつ?」
何の様子かわからないまま、二人はやってきた電車に乗りこんだ。
この時間は、一番後ろの車両の混み具合はそれほどでもない。
「それじゃあ遠慮なく」
隣の車両との境目、いざとなれば壁によりかかることのできる定位置に咲子は滑り込むと本を開いた。
男性からの誘いにのるべき時、断る時、何を着るべきかからスマートな不倫のしかたまで。
「この本の通りにしたら意中の男性をゲットできた!」と会社の同僚が、彼氏いない歴一年になろうとしている咲子を気つかって貸してくれたもののだけど、これで落ちる程度の男ならいらないような気がする。
昨日帰りがけに押しつけられて、半分昨夜のうちに読んだ。新宿に着くまでに読み終えて、同僚に返すことにしよう。
急に接近する気配を感じて、咲子は顔をあげた。隣で携帯をいじっていたはずの貴也が咲子に密着している。
「悪い……こっちの電車、こんなに混むのな。さきちゃん、この状況でよく本なんか読んでられるな」
「そのうち慣れるよ。貴重な読書タイムだから、頑張って読んでる」
頑張るほどのことかと、貴也が口の中で文句をつけたのは聞かなかったことにする。
いつもほど、人が密着してこない。
顔を本から車窓にうつして、ん、と思わず口の中でうなる。かばわれている。さりげなく周囲の人からかばわれている。
ここは一つ、胸がきゅんとしておくべきなのだろうか。咲子は男をおとすためのルールに目を落とし――この手は貴也に通じるだろうのかと、違う方向に思考をむけていた。
南口の方へと向かう貴也と新宿駅で別れ、咲子は西口へと回る。新宿の西口に乱立する高層ビル群の中の一つに咲子の勤務先はあった。
月曜日の咲子は忙しい。朝からばたばたと社内を走り回り、夕方になっても作業の手は止まることはない。
「『チェックジョブ!』さんに出す原稿は?」
先輩の宮本さんがやってきて咲子にたずねた。
「もう池田さんに確認してもらってます。今から登録するとこで」
「それじゃよろしく――明日の面接は会場設置誰だっけ?」
「須藤さんが何人か連れて行ってくるって言ってましたよ」
丸めた模造紙を抱えて立ち去る宮本さんを見送る。
それから机上のパソコンに向き直って求人募集サイトを開くと、咲子は慣れた手つきで入力を始めた。
何度も使っている求人募集サイト。基本的な情報は登録済みだから、面接会場と日時、あおり文句を修正してやる程度でいい。
「青木さん、入力終わったので確認お願いします」
一緒に仕事している一年早い先輩に頼むと、
「今確認しちゃうから、ちょっと待ってて」
と返ってきた。
咲子が働いているのは、人材派遣をメインとしている会社だ。各企業から依頼をされて、サポートセンターのオペレーターや、技術者を派遣している。
人の出入りが激しいために、毎週のように求人広告を出し、面接を行っている。
咲子は人材募集を担当しているチームの一員だった。
青木さんが咲子の登録内容を確認している間に、咲子はコーヒーを入れ替えて、今度は『アルバイト アイ』に出す広告を作り始める。今度は求人募集サイトではなくて雑誌の方だ。
咲子の登録内容を確認しながら、青木さんが言った。
「そうそう、オペレーター十人増やしてほしいんだって。イケダソフトのサポートセンター」
「いつまでにです?」
軽快な音をたててキーボードを叩きながら咲子は返す。
「再来週」
「んじゃあ登録メンバー抽出して選考会を――何人抽出します?」
「他社で仕事入っちゃってるのもいるだろうからねー。百人くらい候補出さないとだめかも。明日選考会するから、会議室確保お願い」
「『アルバイト アイ』に出す広告終わったら、抽出しましょうか?」
「ん、その前に『チェックジョブ!』さん、三カ所修正」
入力原稿が机に滑ってくる。
「すみません……」
「いいって。イケダソフトの方は、わたしがやっておくから、会議室だけ取っておいて」
咲子は指摘された箇所をなおし、会議室を確保して、時計を見上げる。午後六時。定時ぴったりだ。
今度は先輩チェックも無事に終わり、募集情報をサイト上に公開して終了。
『アルバイト アイ』に出す広告は、池田さんに確認してもらうためにメールで送っておく。次の作業は明日の朝以降だ。
「今日はお先に失礼しますね」
「お疲れ!」
夕方以降に選考会――登録メンバーの中から、仕事を依頼する相手を選出する会議――や、登録会――派遣社員希望者との面談――が終わっていない場合は、比較的定時にあがれることが多い。
新宿駅南口に回って、そこから高島屋方面へと歩く。朝読んでいた本は返してしまったし、紀ノ国屋で新しい本を買って高島屋で化粧品でも見るつもりだった。
南口の横断歩道を渡ろうとすると、
「さきちゃん!」
もう耳になじんだ声に呼ばれた。咲子とは逆に新宿駅方面へと歩いてくるのは貴也だった。
「あれ、もう帰り?」
「今日は直帰」
長身の貴也は新宿駅の雑踏の中でも目立っていた。
「さきちゃんは?」
「紀ノ国屋に本でも見に行こうと思って」
貴也は新宿駅に向かっていたはずが、自然と咲子と並んで高島屋方面へと歩いていく。
「飯は?」
貴也がたずねた。
「帰ってから食べるよ。今日遅くなるって言ってないし」
「……そっか」
「何?」
「いや、時間あるなら飯でもと思って。今日うちの母親いないんだよ」
営業と言えば帰りは不規則になるのだろう。成人した息子の分まで夕食を用意する気にならないと言うのは祐子らしい。
「じゃあ家で食べれば?」
するりと咲子の口からそんな言葉が出てきた。周一が生きていた頃、よく咲子の家に夕食を食べに来たものだった。相手が貴也でも、それは変わりない
「それはできないって。いいよ、ラーメン屋でも寄って帰る」
「いいっていいって。どうせ何かあるよ。ビールでも買っていけば、うちの親むしろ喜ぶし。今から電話しておけば何かなくてもどうにかしてくれるって」
固辞する貴也は気にせず、咲子は携帯電話を取り出して母親を呼び出す。
「肉じゃがとおひたし三種類盛り合わせ、五目豆だって。どうする? もっと肉々しいメニューの方がいいなら今度にしようか」
「……お邪魔しますっ」
咲子の携帯電話ごしに、貴也は叫んだ。受話器の向こう側から、
「お酒はないからねー」
と、少しはしゃいだ典子の声が返ってきた。