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糸は切れずに

 それから三日間。貴也からは何の連絡もなかった。

 家は隣同士なのだし、通勤に使っている駅も一緒だし、道ばたですれ違うことも多かったというのに、それもなかった。

 メールも電話もならない。それは久しぶりの静けさで、けれど咲子の方から貴也に連絡する気にはなれなかった。

 連絡をしたら、見ないふりをしてきた気持ちと向き合わなければならない。

 あの日、店からの帰り道もなんだかうまく話すことができなかった。どちらからともなくつないだ指先から伝わってくる体温が、貴也の気持ちを代弁しているようで。それに応えきれないことをどう伝えればいいのかもわからなくて、ただ早く帰りつくことを願っていた。


「咲子、祐子さんのこと聞いてるんでしょう?」

 あれから三日目の夕食。ゴールデンウィークも終わり、残業していた娘につき合ってテーブルについた典子は、自分の前には湯呑みを置いていた。

 急須からゆっくりお茶を注ぎながら、咲子の答えを待つ。

「おじさんのいる島に行くか行かないかって話?」

「うん。寂しくなるわねぇ」

 隣家とは二十年以上のつき合いになる。夫婦が別々に暮らすようになってからは、こちらに残った周一が咲子の家で食事をしていくこともあった。だからこそ咲子が周一になつく余地もあったのだけれど。


「聞いたっていうか……まあ、ちょろっとね」

 今夜は生姜焼きだった。何度教わっても母と同じ味にはならなくて、結局食べたい時はねだって作ってもらうことにいつの間にか決まっていた。

「あの家にたかちゃん一人残すのが心配だって」

「でもさあ、たかちゃんだってもう六年一人暮らししてるわけで……一人になっても困らないでしょう?」

 聞いたことはないけど、六年一人暮らししているなら最低限の家事処理能力は持ち合わせているんじゃなかろうか。


「あんたさあ、たかちゃんと結婚したら?」

 もう少し、タイミングを選んでくれ。そう抗議するのも難しかった。せき込んだタイミングに、味噌汁が鼻に入ったから。

「どうし……どうして……」

 慌てて母親の差し出したティッシュで、鼻を拭って問い返す。

「だってつき合ってるんでしょ?」

「別にそういうわけじゃ」

「何もないの?」

「なーんも」

 まあ、失礼ねえと逆に典子は憤慨し始めた。


「あんなに一緒にいるのに何もないだなんて。いい雰囲気になるとか、手をつなぐとか、押し倒すとか何もないわけ?」

「……」

 押し倒す推奨の母親というのもどうなのだろう。とはいえ、咲子の沈黙から母の勘は何かを掘り当てたようで、一気にご機嫌になる。

「なるほどねー、好きなんだ」

「娘の恋愛事情に口つっこまないでよ」

 反対にむっすりとした顔になった咲子は、目の前の生姜焼きに集中力を奪われているふりをした。


「何よ、何よ。いいじゃない。男前だし、稼ぎはいいし。あんた何が不満なわけ?」

 隣家の幼なじみは、母一押しの交際相手だ。

「不満があるってわけじゃなくて。たぶん、好意っつーか、一緒にいて居心地いいとは思うけどさ」

「何が不満なのよ? 男前すぎるのが気に入らない?」

「違うってば」

 確かに、男前か不男かと問われれば確実に男前に分類されるし、背も高いし、体もいい。脱いだところを見たことがあるわけではないけれど。


「どうせばれてるんだろうけど、昔周一さんが好きだったわけ」

「ああ、彼もいい男だったわよねえ。どっちかっていうと可愛いタイプだったけど。何、たかちゃんの顔が気に入らないの? あんたそりゃ贅沢ってもんよ。カッコいいんだから、そこは目をつぶりなさい」

「いや、そうじゃなくて」

 この人の娘を二十四年やっているわけだが、いまだに母親の思考回路がわからない。


「たかちゃんと一緒にいると、どうしても周一さんのこと思い出しちゃうし。今まで誰とつき合ってもそうだった」

 こぼれでた娘の本音に典子は表情を変える。

「周一さんと何かあったとかいうわけじゃないんだけど――でも、たかちゃんと一緒にいるとどうしても思い出しちゃって――たかちゃんが周一さんの弟だからよけいに」

「あんたねぇ。死んだ人間は抱きしめてくれないのよ?」

「わかってる」

 そんなのわかってる。典子が言う以上に咲子はわかっている。毎日自覚させられている。


「わかってる。でも、まだ無理なんだ。ごちそうさまでした」

 これは誰にも言えない咲子だけの秘密。残りの食事を一気に流し込んで、咲子はテーブルを立った。

 自室の窓から確認してみる。まだ、隣家の明かりはついていない。祐子も貴也も仕事から帰ってきていない――祐子は夜勤だろうか。

 風呂に入って寝ようか。明日は久しぶりに登録希望者の面接をしなければならない。立て続けに何人もの人間と顔を合わせることになるから、気を抜くことはできない。


 風呂に入って出てくると携帯電話に着信が残っていた。貴也から、三回。

 携帯電話を握りしめて、咲子はディスプレイをにらみつけた。風呂に入っているだけの間に三回かかってきたということは、緊急の用件――心当たりは一つしかない。

 貴也に電話をかけるのに、こんなに緊張したことはなかった。


 発信ボタンを押して、相手が出るのを待つ。着信音が鳴るのを心の中で数えた。一回、二回、三回、四回……。

 五回目が鳴りかけたところで、貴也が出た。

「も……もしもし?」

 声が震えているのがわかった。電話越しにそれは貴也にも届いただろうか。

「さきちゃん」

 耳元でささやかれる名前に、胸が高鳴る。次の言葉を期待しているのか恐れているのか、自分でもわからないまま。


「見つかった! 相手から連絡が来たぞ」

「待ってて! すぐに行く!」

 慌てて適当な服を掴んで、外に出てもおかしくない格好に着替える。

 貴也はガレージの前で待っていた。

「ねえ、なんて、なんて?」

「……一度会って、話が聞きたいって」

「ホント!?」

 思わず貴也に飛びつく。背中に抱きついたことはあっても、正面から抱きつくのは初めてだった。予想よりたくましかった胸板に赤面して、慌てて突き放そうとすると、貴也の両腕が背中に回される。


「お前らー、見せつけるな!」

 ガレージのシャッターを閉めたままでいても、周一は姿を現すことができる。

「まったく、人が死んでいると思って!」

 口ではそう言いながらも、周一は笑っていた。

「それで、いつ会うんだ?」

「今、都内に移っているらしいんだ。最寄り駅は京浜東北線の蒲田だから、国道一号沿いのファミレスはどうかって」


「……そっか」

 あれから六年。仕事の場所が変われば、住む場所も変わるだろう。

「今度の土曜日、午後に会ってくる。バイク使えばそれほど時間もかからないだろうし」

「……あたしは?」

「……さきちゃんが一緒でも、彼女には見えないだろうなあ」

 周一の姿が見えるのは、なぜか咲子と貴也だけだった。

母親である祐子でさえも、ガレージに顔を出した時も周一の姿は素通りしていて。


「でも……」

 会ってみたい。周一が想いを寄せた人に。

 こっそり指輪を用意するほど、愛していた人に。

「だって、ここまで来たら見届けたいじゃない。それに」

 咲子は強いて笑顔を作った。

「相手の人からしたら、今さら何? て思うかも。男の人一人よりは、あたしが一緒にいた方が安心したり、しないかな」

 相手が一対一での話し合いを望むのなら、咲子は席を外せばいい。


「せっかくの休みなのに……」

 と、貴也は言ったのだが、咲子からしてみれば今さらだ。二月の末に再会してからずっと、ほぼ毎週末をこの二人と過ごしているのだから。

 相手が指輪をどうするのかは、わからないけれど。

 細い糸が切れずにつながったことに、心の底から感謝したい気持ちだった。

 

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