細い糸
左側の体温にどきどきしながらでは、ホラー映画に集中するどころではない。
なんだかあの日から妙に貴也を意識してしまっているような気がする。いつのまにメールアドレスを交換していたのか、亜矢はメール攻撃をしかけているというのは理恵がこっそり教えてくれた情報だった。正直に言ってしまえば、面白くない。嫉妬しているとは思いたくないけれど。
のばした指先が貴也の手に触れて、思わず引っ込めてしまう。引っ込めた咲子の手の上に、貴也の手が重ねられる。
いつまで続くのだろう。この関係――けれど、周一の彼女が見つかれば何か変わるのかもしれない。
咲子は半分通過してしまっている周一の方を盗み見る。自分も幽霊だというのに、彼の目も画面に釘付けだった。
ときおり透けることさえなかったら、彼が幽霊だなんて信じられない。当の本人は、画面に幽霊らしき怪しい影がうつるたびにぎゃーぎゃーと悲鳴をあげていて、わりと堪能しているようだった。
貴也がSNSに送ったメッセージには、返答はなかった。太田美奈が勤めていた会社だけではなく、高校、大学、周一が思い出せた限りの場所に属している人間にメッセージを送ってみたのだけれど。職業関係だけではなく、同級生を探すためのSNSや地域限定のSNSまで貴也は入会してはあちこちメッセージを送り続けていた。
「探偵でも頼むしかないかなあ」
今年のゴールデンウィークは、何も予定は入れなかった。毎日咲子は貴也の家のガレージに顔を出している。どこへ行っても混んでいるし、家族旅行もここ何年もしていない。父も母も連休中だというのに出勤なのだそうだ。
「探偵って本当に誰でも探してくれるのかなぁ?」
咲子も貴也も周一も、探偵なんて雇ったことはない。彼らの調査能力がどの程度の物なのか、咲子たちにはわからなかった。素人がうかつに頼みに行っても、ぼったくられるだけのような気がしなくもない。
「……望み薄、だけどさ。小学校にまで捜索の範囲を広げてみたんだ。出身の市まではわかっているから。そこの市の小学校出身だっていう人にまで送ってみた。何かあればいいんだけどなあ」
ゴールデンウィークになっても、何の連絡もなかった。咲子は相変わらず休みの日には伊達家に入り込んでいる。出会いをもとめていると勘違いされた貴也のもとにスパム攻撃は何回もあったようだけれど。
貴也の買ったホームシアターはフル活用で、アクション物から恋愛映画までありとあらゆるジャンルの映画を三人で見た。
ゴールデンウィーク中、映画鑑賞だけで乗り切ることができるほどの本数を借りている。
「……あ」
今日は咲子の選んだ恋愛映画だった。亡くなったと思われていた男性と女性が二十年後に再び巡り会うというストーリーだった。今日の映画はあまり好奇心をそそらなかったらしく、貴也は携帯電話を握って、メールをチェックしていた。
「メッセージに返事が来てる」
「本当?」
慌てて咲子は貴也の携帯電話をのぞき込んだ。その場で貴也はSNSにアクセスし、内容を確認する。
「おたずねの人物に心当たりがあります。彼女にあなたの連絡先を教えてもよいでしょうか?……だって。携帯電話の番号とメールアドレスでいいかな」
貴也は連絡先を書き込んだ。
しばらくすると、またメールが届いた。再び内容を確認すると、
「彼女がどうするかはわかりませんが、一応連絡先は伝えておきました」
Mikeと名乗る相手に、貴也は丁寧に礼のメッセージを送って携帯を閉じる。
「連絡、あるといいね」
咲子はそっと貴也に寄り添う。周一の表情を確認する勇気はなかった。
「貴也」
ふいに周一が口を開く。
「俺、しばらく出てこない。連絡があったら呼んでくれ」
そのまま周一はすうっと姿を消す。姿を消す直前、確かに壁をたたく仕草をしたのを咲子は見たと思った。
「連絡、来るよね?」
もう一度咲子は問いかける。掴んだ貴也の手は冷たくなっていて、咲子の胸が締めつけられる。
「あたしも、もう帰る。ここにいても、もうすることないし」
焦った咲子を、貴也は呼び止めた。
「さきちゃん……飲みに行こうか。そろそろ店も開店するだろうし」
「……うん」
たぶん、飲まないとやっていられない。貴也はそんな気分なのだろう。それは咲子も同じだった。
貴也が咲子を連れていったのは、いつか二人で訪れた強面マスターのいる店だった。開店したばかりの店はまだすいていて、すべての席がまだ空席だった。
前回同様国領駅を見下ろせる一番窓際のカウンター席に二人は座った。
いつも通り、ビールから始める。今日はカクテルにもチャレンジしてみよう、と咲子はさっそくメニューを広げて次の飲み物を探し始める。
「たかちゃん……」
ぐいとビールをあけて、咲子は口を開いた。
「おばさんが島に行くかもって話聞いてる?」
「……聞いてる」
貴也は大きくため息をついた。強面マスターは、カウンターの奥から二人の様子を見守っている。
「俺は帰れって言ったんだよ。そうしたいなら俺のことは気にするなって。でもそうすると俺が一人になるとか何とか言っちゃってさ」
何年もの間、離れていた母と息子。島への往復はそれほど大変ではないけれど、ようやく一緒に暮らせるようになった今再び離れるのはしのびないのもわかる。
「一つ、聞いてもいいかな」
そっと咲子はたずねる。答えてくれるかどうか、わからなかったけれど。
「たかちゃん、大学も都内だったよね? 通おうと思えば通えただろうけれど、どうして自宅から通わなかったの?」
ビールのジョッキを静かにカウンターに置いた貴也は顔を歪めた。
「……怖かったんだ」
「怖かった?」
「にーちゃんのいない家に帰るのが、さ」
咲子は言葉を失った。貴也が大学に入学したのは、周一が亡くなった直後。確かにそうなるのかもしれない。
「……それだけ?」
「……うん」
年に何回か会っていたとしても、一緒に生活することはなかった兄。だけど、その死を受け入れることはできなくて。
そんな兄の死の直後から、その家で生活することはできなかった。だから都内に戻ってきても、横浜に勤めていた頃もかたくなに一人暮らしをしていた。
それでも兄のバイクを手放すことだけはできなくて、ずっと維持し続けていた。
「ようやく戻ってくる気になれたのは、新宿勤務になってからなんだ」
京王線を使えば、新宿までは通いやすい。いずれは戻ってこなければならないのならば、今がいいきっかけだと思ったのだ、貴也は。
「そっか……そうだよね」
貴也の気持ちは、何となく理解できた。百パーセント理解することはきっとできないだろうけれど。
「連絡――来るといいね」
咲子には祈ることしかできない。ようやくつながった細い糸。それがどうか切れずにいますようにと。
「さきちゃん」
次の飲み物を注文して、貴也は言う。
「今までつき合わせて……本当に悪かった。すまないと思ってる」
「……いいよ……だって、あたし……」
忘れようとしていた初恋。誰とつき合っていても、心のどこかで咲子をつついていた初恋。
相手がこの世にいないからこそ――抜けることのない棘。
「……知ってる」
咲子の方ではなく、グラスを見つめながらの貴也の言葉は、店内の物音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。
「さきちゃんの目、どこか泳いでいるもんな。にーちゃんを見る時」
気がつかれてた……そのことに咲子は驚愕する。貴也に気づかれているとは思わなかったのに。
「……どうして……」
咲子の声がゆれる。そしてそれをすぐに彼女は打ち消した。
「……言わなくていい。お願いだから、言わないで」
咲子のことを見ていなければ、気づくはずなんてない。今はまだ、応えられないから。
だから知らん顔をして、咲子はメニューを開く。今夜の酒は苦くなりそうだった。