ハッピーバースデー
日付が変わるのと同時に、メールが届いているのに気がついたのは翌朝になってからだった。
『誕生日おめでとう』
とだけ書かれた本文と、ろうそくの立てられたケーキの絵文字。貴也からのものだった。
他に何人かの友人から同じようなメールが届いていたものの、貴也のは日付が変わるのと同じタイミングに送られていて、まるで彼女の誕生日を祝っているみたいだと咲子を苦笑させた。
いつもと同じ時間に家を出る。
家から百メートルほど歩いたところで、「さきちゃん!」と呼ばれた。咲子のことをそう呼ぶのは一人だけだ――生きている人間では。
「おはよう。メールありがとう」
後で返信しようと思って、まだしていなかった。
「誕生日、おめでとう」
もう一度ぴかぴかの笑顔で言われて、咲子の表情もつられて変化する。
「今日は何読むんだ?」
手にした文庫本を指さしてたずねられる。今日持ってきたのは、何度もテレビドラマ化されている時代小説だった。
あまり異性の目にふれさせたくない実用書ではなかったことに少し安堵する。
実のところ、貴也と電車が同じになることはあまりなかった。営業職の彼は客先に直行することも多いらしく、日によって乗る時間が違うようだ。
「今日、暇?」
本から視線を離した貴也の言葉に、咲子はとまどった。
「たぶん、定時にはあがれると思うんだけど」
今日は、遅くまで続くような仕事はない。
「……飯、食いに行かないか? 新宿で」
新宿で、食事。
自分の住んでいる近所で食べに行くのとは少し重みが違う。今日は出勤用のスーツを着ているし、どこへ行ってもそれほどうくとは思えないのだけど。
仕事がどうなるかわからないから、家では今日は祝いらしいことはしない。毎年、誕生日のお祝いというのは前後の週末にすることになっていた。といっても、家族三人で外食する程度のことなのだけれど。
そう言えばこのところ新しい本を書うこともしていなかった。
早く帰ることのできる日は、なるべく早くまっすぐ帰るようにしていたから、本屋をのぞく余裕もなかった。
「高島屋とかあっちの方でよければ。本屋寄りたい」
「……店、決めていい? 希望があるなら言ってくれれば俺の方で探しとく」
「サザンテラスにイタリアンがあるから、そこがいいな」
「わかった」
ホームに入ってからは、二人とも口を開かなかった。無言の人波に加わって、やってきた電車に乗り込む。
ああ、やっぱりかばわれている。いつもの定位置について本を読みながら、咲子の意識はときおり右隣に立っている貴也へとむいてしまう。
最初の日は、ずいぶん混んでいると言っていた彼ももうずいぶん慣れた様子で、器用に片手で本を読んでいた。
人が乗り込み、吐き出されていくのを見るともなしに見ているうちに電車は新宿駅へと滑り込む。
それじゃ、と手をあげて二人はそれぞれの方向へと別れていく。
職場についてからは、いつもの仕事をてきぱきとこなしていく。ミスなどして、残業にならないようにしなければ。
「今日、ずいぶんはりきっているんじゃない?」
隣から青木さんが声をかける。
「今日、食事に行くことになっているんです」
「デート?」
「違いますけど」
少なくとも、咲子の方は違うつもり……なのだけど。貴也が咲子に好意を示していることに気がつかないほど、鈍くはないつもりだ。
ふーん、とにやにやしながら青木さんは仕事へと戻る。何事か忙しくキーボードを叩いていると思ったら、咲子のメールソフトが受信メールの到着を告げた。
『今度、総務部と交流会をすることになりました。
総務部の人が、野田さんに接触したいらしいんだけど、どうしますか?
それと、交流会の会場探しをお願いします』
仕事中になんでそんなメールを送ってくるんだ。とは思ったものの、先輩にいきなりそう返すわけにもいかない。
咲子が独り身なのは青木さんは知っている。特に彼氏募集中というわけでもないということも。でもまあ機会があるなら、受け入れるのも悪くはないと認識している、というところだろうか。
総務部との交流会というのは、一応業務の一環でもあるのだろうしここは引き受けておくのがよさそうだ。
『会場探しは、午後やります。座敷の方がいいですよね。人数は三十人くらいでいいでしょうか。総務部の人とは、当日お話します』
座敷の店もいくらでもあるだろう。給湯室でコーヒーをいれてくると、咲子は頭を仕事へときりかえた。
社会人になったら、仕事だけしていればいいのだと思っていた。けれど、現実はなかなかそうもいかなくて、次から次へと難題が押し寄せてくる。主に人間関係の。
母親お手製弁当を食べ終えて、トイレで歯を磨いていたら総務の女子社員が話しかけてきた。
「今度、飲み会やるって本当ですか?」
「来週あたりにやるみたいですよ」
口をゆすいで、丹念に歯ブラシを洗ってからしまう。彼女は、咲子より一年後輩。つまり今年入ったばかりの若手社員ということだ。
それから油取り紙を取り出して、メイクを直し始める。あたかも会話は終わったというように。
「野田さんって、高橋さんとつき合ってるんですか?」
ふいに、隣で歯を磨いていた彼女がたずねてきた。
口紅を引きなおしていた手が止まる。咲子は総務の女子社員を見つめた。鏡越しに。
「誰がそんなこと言ったの?」
「総務でそういう噂が流れてて……確かに高橋さん、よく野田さんのこと気にしてるからそうなのかなって思ったんです」
「……それは間違い。今誰とも付き合ってないし、彼氏募集中でもないし」
「どうしてですか?」
無邪気に問いかけてくる彼女の視線がまぶし過ぎた。
「ん、ちょっとね。前の失恋引きずってるって感じで」
塗りなおした口紅を確認して、咲子はにっと笑ってみせる。
「だから今は……誰ともそういう気には慣れないってわけ」
露骨に彼女の表情が安堵したものへと変化する。なるほど、高橋氏狙いなわけだ、この子は。青木さんの言っていた総務部の人が高橋さんだったら全力で逃げることにしよう。
高橋さんじゃなかったら……やっぱり逃げよう。そう決めて、咲子は化粧ポーチの中にメイク道具一式を放り込んだ。
定時とともに駆け出して、新宿駅南口からサザンテラス方面へと出る。紀伊国屋で文庫を何冊か購入した。父親の書棚にはない、最近の若手女流作家の恋愛小説ばかりだ。自分の選んだ本が以前と傾向の変わっていることに驚きながら、貴也との待ち合わせ場所に向かう。
ふわふわ感が売りのドーナツ屋の斜向かいのホテル。そこに咲子の指定した店はあった。店に入ると陽気なイタリア語が飛び交っている。
ホテルの中の店とはいえ、それほど格式ばった店ではない。値段もどちらかといえばリーズナブルで、咲子の気に入っている店だった。
「何飲む? ワイン? それとも?」
咲子にメニューを押しやって、貴也はたずねた。
「ワインいいね。じゃあそうしようか。ボトル……は二人じゃ無理だよね? デキャンタでいいかな。それともたかちゃん違うの頼む? それなら、グラスで頼むけど」
「デキャンタでいい」
それから料理を選び始める。春野菜とサーモンのマリネ、キャベツとアンチョビのパスタ等適当に咲子が口にしたものを、貴也は反対せずに全て注文した。迷ったのはパスタを一皿にするか二皿にするか程度で、それも
「デザート食べるなら一皿にしておけば?」
という貴也の一言にそれもそうだと咲子が納得して、注文はあっという間に完了したのだった。
それから、貴也はテーブルに小さな包みを滑らせる。
「誕生日、おめでとう――会社の子に付き合ってもらって選んできた」
本日何回目の「おめでとう」に続く一言は、思っていたよりも咲子の胸を鋭く射抜いた。