願い
翌日は快晴だった。やや酒の残っている頭を熱いシャワーですっきりさせて、咲子は隣家へとむかう。
ガレージでは、もう貴也が待ちかまえていた。
「いいか?」
野川に行った日以来、彼と顔を合わせるのは初めてだった。やりとりはずっとメールで、気まずい空気になるのではないかと心配していたのだけれど、そんなこともなかった。
後部シートによじ登るのもだいぶ慣れた。バイクにまたがった貴也の腰にしっかりと腕を回す。
「今年は、車とまってないな。昔はずいぶんとまってたもんだけど」
「最近警察の取り締まりが厳しいみたい」
バイク前後の会話は、信号待ちの時に限られる。
多摩川沿いの桜並木の下を、貴也はゆっくりめのスピードで走った。ほかの車も、この場所を通るときは少しスピードが遅くなる。車内から桜を見ているのだろう。
土手にはもう人がたくさんいて、中にはBBQセットを持ち出している家族もいた。
「車をとめないでください!」
と、巡回している警察の車が注意をうながしている。
桜並木が切れるところで左に曲がる。ここからは多摩川住宅に沿うように走っている道の両側に桜が植えられている。
土手の桜は満開を過ぎかけていたが、ここの桜はちょうど満開だった。
適当なところでまた土手沿いの道に出て、同じルートを二周する。
それから貴也は、土手の入り口から少し入ったところにバイクをとめた。
「ここからでもよく見えるな」
「……子どもの頃、毎年そこの土手で花見したよな」
「そうそう、団地の子の家族が場所取りしてくれて」
「母さんは何回参加したっけ? けっこう仕事とかぶったりしてたんだよな」
兄弟二人の会話を、咲子は土手に腰をおろして聞くともなしに聞いていた。
貴也はバイクに寄りかかり、周一はそのすぐ側に立って二人同じ方向を眺めている。
その花見には咲子も参加していた。もう昔の記憶でだいぶおぼろげになってしまっているけれど。
土手を駆け回っている子どもたちの中に、自分もいた。二十年近く前は。
「やっぱ、日本人は桜だよなぁ」
そう小さな声で言った周一は、帰ったら聞いて欲しいことがあると深刻な顔になった。
「何飲む?」
「コーラ」
今日は、祐子の仕事は休みだ。伊達家のリビングで話をするわけにもいかず、三人はガレージに腰を落ち着けた。
「――んで、話って?」
ペットボトルのキャップをひねって、貴也はたずねる。
「……」
ふぅ、と周一は大きく息を吐き出した。それから、
「……俺の部屋って今どうなってる?」
「……手つかずのまま、のはずだ」
小学生になる前に、家を離れた貴也の部屋も手つかずのままだった。周一の部屋も、祐子が時々掃除に入る以外は、誰も手をつけないままとなっている。
「押入の右上。天井裏に隠してあるものがある。探してもらえないかな?」
「――今?」
こくりと周一はうなずく。
「あたしも一緒に行こうか?」
「いや、いい」
貴也は立ち上がり、家の中へと姿を消す。貴也が階段をのぼる足音が聞こえてきたと思ったら、周一の姿も見えなくなった。
限界の十メートル――咲子は唇を噛みしめる。
どれだけ願っても、周一には近づくことができない。出現の条件に貴也の存在がある以上。
それに近づいたところでどうなる? 周一はもうこの世にいないというのに。
今、姿を見せてくれて会話できるのは奇跡でしかない。世の中に霊能力者というものが存在するとして、彼ら以外には幽霊を見ることなんてできないのだから。
あと六年なんて贅沢はいわない。せめて二年早く生まれたかった。
高校生と社会人ならつり合わなくても、大学生と社会人なら――きっと何か伝えることができていた。
周一は何を持ってこさせようというのだろう。頭の中に心当たりの品を探しては、次々に打ち消す。
「これか?」
ジュエリーショップの紙袋をぶらぶらさせて、貴也が戻ってくる。
考えていた中でも最悪の結末に、おもわず咲子は目を閉じる。このまま耳も塞いで、この場から逃亡したかった。
「これって……」
中から貴也が取り出したのは、小さなケース。指輪か、ピアスか……ケースの形状からすればそんなところだろう。
「……つきあってる子がいたんだよ」
ぎゅっと咲子は拳を握りしめた。
きっとあの人だ。
耳慣れたバイクの音に何気なく見た窓から外。午後も遅い時間で、夕方近かったかもしれない。
周一のバイクの後ろにまたがっていた小柄な姿。ジャケットを着ていても、体型から女性だとわかってしまった。
目をそむけて見なかったことにして、そのままそっとカーテンを引いた。
心の中から追い払おうとしていたけれど、あの人。周一がここに残っていた理由は。
「指輪?」
貴也がたずねる。こくりと周一はうなずいた。
「でも、にーちゃんいなくなって六年だろ? 相手だって今さら困るだろうがよ」
なあ、と同意をもとめられて咲子は唇を引き結ぶ。ガレージの中を沈黙が満たす。
「知らなかったんだよ、俺と彼女がつき合っているのを誰も。一応携帯に番号とかは入れてたけど、かあさん携帯なんて使えなかっただろ?」
今でこそ、皆携帯を使いこなしているが、当時の祐子はかけるのがやっとといったところだっただろう。アドレス帳の使い方も知らず、毎回手帳を見ながらいちいち電話していたはずだ。
息子の携帯のアドレス帳を調べるなんてことも思いつかないまま解約していたとしてもおかしくない。
「共通の友人ってのもほとんどいなくてさ。俺が死んだことすら知らなくてもおかしくない」
たぶん、彼女は知らないはずだと咲子は思う。もし、彼女が周一の死を知っていたとしたら、葬儀に来ただろう。来られなかったとしても線香の一本くらいはあげにきただろうし、そんなことがあったなら必ず咲子の耳に入っただろうから。
「頼むよ。彼女を探して欲しい。今、幸せならそれでいいんだ。でも……」
彼女からしてみれば、急に連絡が取れなくなって自然消滅させられたと思っているはずだ。
たかが六年。されど六年。
新しい道を歩いているのならばよし。そうでなければ、事実を伝えて欲しいと周一は言った。
「……でも、どうやって探すの?」
ようやくしぼりだした声がしわがれている。喉が乾いていたというようにペットボトルのキャップをひねって中身を喉に流し込んだ。
「……それなんだけど」
しゅんとして、周一は言った。
「彼女の名前と当時の勤務先しか知らないんだよ」
「ああ――」
貴也と咲子は顔を見合わせた。当時の勤務先。転職が珍しくない今、彼女が今でもそこに勤めているとは限らない。
正面から勤務先にたずねたとしても、名前しか知らない相手の連絡先を教えてもらえるとは限らない。いや、教えてもらえないだろう。彼女の方は貴也のことも咲子のことも知らないのだから。
せめて彼女の実家の住所がわかればとも思う。けれど、二人ともまだそこまでは話をしていなかった。
彼女は一度だけこの家を訪れたことはあるけれど――自然消滅したと思われていたのなら、わざわざ実家まで訪ねてはこないだろう。連絡が取れなくなってから、一度でも来ていれば知ることができただろうに。
二人の出会いは、合コンだったという。学生時代よく集まっていた仲間たちだったが、卒業してからは疎遠になってしまっていた。
だから、彼女が周一の死を知らない可能性は高い。彼女を探して――そして伝えて欲しい。それが周一の願いだった。