再会した幼馴染
乗りきれない人を駅員が体をはって中に押し込む。無理矢理しめられる扉。次の駅で吐き出される人たち。
そんな光景を見ながら、――あああたし普通電車に乗っててよかった――などと咲子は思う。そして、むかいのホームにとまっている急行車両に無理矢理乗り込もうとする人たちを見ては――そんなにあせらなくてもいいのに――と優越感のひたるのだ。
咲子が乗っているのは京王線。車体にピンクと青でラインが入っているはず。でなかったら、都営新宿線に直接乗り入れている車両――だとしても、緑のラインが入っていなければならないのだ。
なのに、むかいのホームにとまっている車両は、どう見てもロマンスカーで、そうであるなら小田急線の路線を走っていなければならないはず。慌ててホームの駅名を確認すれば「新宿」の二文字。
たしかに新宿には小田急線も京王線も乗り入れているけれど、それぞれの私鉄は駅の場所からしてぜんぜん違うし、京王線のホームにロマンスカーがいるのは間違っているし、それはともかくとして咲子は新宿で降りなければならないわけで。
「すみません、おりますー!」
そう声を出しておりようとしても、周囲の人たちはいっこうに咲子をおろしてくれる気配はない。
「おります、おります、おりますってば!」
咲子のわめき声にかぶせるようにぶおんぶおんという音が響いてくる。
何この音。電車の音とは全然違う。どちらかというと車――違う。
ようやく咲子の目が開く。見上げた天井はいつもの光景。慌てて枕元に置いている携帯電話を確認する。九時を回ったところ。
「……夢、か」
ありきたりな台詞を口にして、ベッドに転がる。咲子の目をさましたぶおんぶおんという音は、すぐ近所から聞こえていた。
「朝早くから迷惑だなぁ」
日曜日の九時が早朝かどうかはともかくとして、パーマをかけたばかりの髪をぐしぐしとかき回して咲子は思い出す。
以前は毎週のようにこの音が隣の家から聞こえていたことを。それももう六年も前のことだけれど。
がらりと窓をあければ、見えるのは隣家のガレージ。何年も前に聞こえなくなった音がもう一度、同じ場所から聞こえていた。
見覚えのある黒いバイクの傍らにかがみ込む若い男。周一じゃないのなんてわかっている。彼は六年前に亡くなったのだから。
「ねえ――何してるの?」
まだパジャマのままだとか、寝起きだとか、化粧もしていないとかそんなことはすっかり咲子の頭から飛んでいた。
「よう――さきちゃんか? でっかくなったなあ」
エンジン音を響かせたまま、咲子の方に向きなおった男は悪びれずに笑う。
「さきちゃん――ってあんた誰?」
「ひでぇ」
彼は顔をくしゃくしゃにした。
「この家にはもう一人息子がいたろ」
「息子……って」
咲子は絶句した。
「まさか……たかちゃん?」
「おう。てーか、そんな格好、俺に見せてていいわけ? 一応若い男なんだけど」
ぴしゃりと窓をしめて、咲子は勢いでカーテンも引く。
たかちゃん。
幼なじみ。周一の弟。
最後に会ったのは何年前になるか。彼が父親について引っ越していったのは、小学校にあがる直前だった。
以来隣家には母親の祐子と、咲子より六歳上の周一だけが残っていた。
幼い心に、きっと隣家では何か不幸なことがあったのだろうと引っ越しした理由はきけないまま。いつの間にか貴也の存在は頭から消え失せていた。
それにしても、と慌てて身支度を整えながら咲子は考える。
あんなにでっかくなるとは思わなかった。
六年前に亡くなった周一は、どちらかというと華奢な人だった。アイドルっぽい可愛らしい顔立ちの男性で、咲子の記憶ではそれほど背も高くなかった。
子どもの頃の記憶では、六歳という年齢差を考えれば当たり前なのだけど、咲子よりも背が高くて頼もしいお兄ちゃんだった。
一方の貴也といえばひよひよとしたひよっこで、幼稚園でも咲子の後ろをついて歩いているような臆病な子どもだったような気がする。
遠くの島に行っちゃうんだよと聞いて、やっていけるのかと心配していたのだけれど――。
今バイクの隣に座っていた男は、どう少なく見積もっても180cmは越えていそうだった。よくいえばワイルドな美形なのだろうけれど、濃い顔立ちの中で目だけがぎょろりとしていた印象しか残っていない。
細身のジーンズにシャツ、ピンクのニットを合わせる。メイクは省略した。どうせ家にいる休日にメイクすることなんてめったにないのだ。出かける予定があれば別だけど、ここ一年ほどデートするような相手もいない。
「お母さーん、隣、若い男がいる」
リビングでコーヒーを飲んでいる母親の典子に言うと、
「ああ、貴也君でしょう? 男前になったわねぇ。ああいうのお母さん、好みだわ」
「お母さんの好みでもしょうがないでしょうよ」
咲子はコーヒーメーカーに作りおきのコーヒーを飲んで一言。
「お父さんは?」
「散歩。深大寺まで行ってくるって」
典子は歩いて三十分ほどのところにある寺の名前をあげた。
「好きね、深大寺」
「ねぇねぇ、さっさとコーヒー飲んでお隣行ってきてよ」
典子はわくわくしたように、咲子をせかす。
早く隣の家を偵察してきてほしいのだ。自分で行けばいいのに。
咲子はダウンコートを羽織って家を出た。
伊達、と書かれた隣家の表札の前を通ってそのままガレージに顔を出す。
「いいバイクだろ?」
今は二月だというのに真夏のようなぴかぴかした笑顔だ。白い歯がまぶしすぎる。
「それ、周一さんのバイクだよね」
「ああ。兄さん死んでからずっとほったらかしだったんだけどな。母さんが時々バイク屋呼んで面倒見てもらってたらしくて状態は悪くはないんだ」
愛おしそうに貴也の手が、周一のバイクの上を滑る。黒いタンク、シート。
「――乗ってみるか?」
咲子の目が丸くなる。バイクになんて乗ったことない。
いつかは周一の後ろに乗せてもらいたい。そう願ったこともあったけれど。
「でもメットないなー。メットないとだめだわ。俺、自分の分は持ってるんだけど」
貴也は黒いヘルメットを右手であげて、咲子に見せた。
「じゃあいずれ、そのうちに」
あいまいに濁して咲子はバイクに視線を落とす。最後にこのバイクを見たのは――ちょうど六年前だっただろうか。
華奢な背中も、ライダージャケットを着ると少し大きく見えたものだった。ガレージから響くエンジン音に窓を開けると、黒いバイクにまたがった黒いジャケットの背中が遠ざかっていく。
当時咲子は大学受験が終わったばかりで、第一志望校の結果が出るのを待っていたところだった。
たぶんそれが最後で――次に周一を見たのは、彼の葬儀の日だった。彼の棺に花を投げ入れたその時。
ちょうど第一志望の大学に合格が決まった数日後、次に会ったら合格を報告しようと思っていたのに。
「あら、さきちゃん」
貴也の母親の祐子が顔を出す。
「今度、貴也がここに住むことになったのよ。仲良くしてやってね」
「ここに住むって――」
「勤務先が新宿なんだよ」
祐子の言葉を貴也が補足した。
「ああ、そうなの」
偶然ね――とか何とか言ってやった方がいいのだろうか。咲子の勤務先も新宿だ。
「んで、仕事何やってるの?」
「営業」
営業……咲子は驚いて貴也を見る。
「何だよ?」
「いや、たかちゃんが営業、だなんてねぇ」
「大人なりゃ多少は変わるだろうがよ」
そう言って笑うと、
「んじゃちょっと行ってくるわ」
ガレージから引き出したバイクにまたがって貴也は二人をふり返る。
「昼飯はいらない。三時くらいまでには戻ってくる。夕飯は――そうだな、肉がいい」
「はいはい」
にこやかに笑って、祐子は貴也を見送った。