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たぶん。
他の女子が騒ぐほど、ファーストキスにこだわりはない。
そして。
それは甘酸っぱかったり、切なかったりするものらしいのだけど。
「気持ち悪っ……」
いわゆる「キス」をしてしまったことに、正直、心拍数が異常に上昇したことは認める。
でも。
「なんでアレが、愛情表現なわけ?」
あれから、力の抜けた身体をなんとか立て直してトイレに戻り、何度も口を濯いだ。
ついでに頭も冷やそうと顔も洗ってみたものの、それなりにショックを受けて動揺したまま、私は指示通り結人の部屋に向かった。
その動揺も、唇を奪われたことに対してじゃなく、そうされてしまった自分の無防備さと、されたあとの、とても冷静になれずにうろたえてしまったことについて、だ。
いつだって、余裕で女の子を誘惑していたはずの私が、現実にこれじゃ、格好悪い。
「なんてこと、考えてる場合じゃないよね」
部屋の大きな扉の前で独りごち、金色のドアノブを回す。
ここに来るまで、数人の女子メイドと使用人とおぼしき男子とすれ違ったけれど、言いつけどおり、うろたえることもなく無事に部屋に入りドアを閉めた。
そして息つく暇も無く、部屋の内装に衝撃を受ける。
きらめくシャンデリアの下には、シングルベッドなんかよりも大きいソファ。画面の大きな液晶テレビに、ゲームのソフトが散乱してる。
奥にある天蓋付きのベッドは、たぶんクイーンサイズか……誰かがキレイにメイクしただろうことがうかがえた。
「何、このアンバランスさ」
見上げれば、天井に絵はないものの、古代西洋風の模様がちりばめられているし、だけど近代文化の匂いがぷんぷんする家電が並んでいるのも確かで。
私は部屋中を見渡しながら、バルコニーへ続く大きな窓の前に立ち、レースのカーテンを開いた。
雨はまだ降り続いていて、もうすぐ日が落ちるのか、随分と薄暗くなっていた。
「すごい……」
ガラス越しに見える光景に、自然とそんな言葉が口をついた。
本来の学校であれば、目の前にはグラウンドがあって、その先に住宅街が広がっていたはずだ。
でも、ここにあるべきはずのものはない。
私は窓を開け、濡れるのもおかまいなしでバルコニーに出た。
そして身を乗り出し、眼下に広がる緑色の海に圧倒される。
「鈴葉、何やってんだ?」
「これ何? 森、なの?」
雲が随分低く、まるで校舎ごと霧に包まれているようだった。
校舎を囲んで広がる樹木は、どこまでも果てしなく続き、白い雲の向こうに霞んで消える。
本当に、私は違う次元にきてしまったのだ。
諦めと共に急に肩の力が抜け、空しいような、今まで味わったことのない虚無感と、不覚にも涙がこみ上げてくる。
身体が小刻みに震えだしたのは、空気の冷たさや、雨のせいじゃない。
「風邪引くぞ」
よく知っている声。
けれど、振り返ったそこにいるのは、私の知らない岩城結人だ。
「シャワー、一緒に浴びるか?」
「は!?」
「冗談だよ。だから、いちいちそんなに赤くなるなって言ったろ」
「……だ、だって、フツーそういうこと、言う!?」
「言うだろ」
言わないわよっ!
なんて、正直に言い返したら、さらに見下して笑われそうな気がして、悔しいけど口をつぐんだ。
つい今、感傷的になってしまったことが馬鹿馬鹿しくなって、私は大きく息を吐き出した。
「ほら、これに着替えろよ」
悪魔のように微笑む結人から、きちんと折りたたまれた服を受け取り部屋に戻ると、そのままバスルームまで案内される。
ベッドの横、開けっ放しのドアの向こうには、広いドレッサールームがあり、左側にはトイレ、そして反対側にはガラス張りの広々としたバスルームがあった。
うっかり足を滑らせれば、大理石の階段に頭をぶつけて死にそうだ。
なんともゆっくりできなさそうな雰囲気に、ごくりと息を飲む。
「何か足りないものがあったら言えよ」
「あ、うん。ありがと」
私をドレッサールームに残してドアを閉めようとする結人に、本当にさっきの言葉は冗談だったのだとほっとする。
けれど、ドアは閉まる寸前で、再び開いた。
「ところでさぁ」
「……何?」
私は着替えを胸の前で抱きしめて、何かヘンな要求でもされたらどうしようと頬が引きつった。
顔だけのぞかせていた結人は、ほんの少し考えをめぐらせるような仕草をしてから視線を合わせる。
「お前んとこにも、俺、いるんだよな」
「……うん」
「鈴葉は、俺……っていうか、そっちの俺と付き合ってんだろ?」
真面目な顔してそんなことを聞くから、私は思わず何度も瞬きして結人を見た。
そして、ぶるぶると首を横に振ると、とたんに結人の顔色が曇る。
「何で?」
「何でって……別に」
「じゃあ、俺のこと、好きじゃないわけ?」
「好きとか付き合うとか、そんなんじゃなくて、良い友達だとは思ってるけど」
今度は結人の頬が引きつって、次の瞬間にはゲラゲラ声を上げて笑い出した。
「良い友達だって? 何だよ、それ。マジで?」
腹を抱えて笑いながら近づいてくる結人に、訳もわからず私はやっぱり距離をとった。
「じゃあ、鈴葉、他に彼氏いんの?」
いないと素直に言うべきか、それともいると言って白を切るべきか。
迷ってる場合じゃないとわかってるけど、どう答えていいかわからないまま、あくまで冷静を装いつつ結人を睨みつけた。
「いや、いないよな。あのキスの仕方は、絶対に初めてって感じだったし、な」
「だったら、何だっていうのよ。アンタには関係ないでしょっ」
「まぁ、関係ないか」
私を壁に追い詰めて、再び近づく結人の唇に、反射的に顔を背けて目を閉じた。
「言っとくけど、俺はオトモダチでいる気なんか、ないからさ」
内容は聞き捨てならないけれど、その声は低く優しい。
うっかり結人と目を合わせると、すぐさま唇が頬にそっと触れた。
「だけど、すぐ喰いつくほど餓えてもないから、安心しろよ」
そんなの、この今の状況から信じられるわけがない。
だけど、じっと目を見つめられると、別人であるはずの岩城とシンクロして頭の中が混乱する。
「そうやって無防備でいたら、またキスするよ」
「イヤっ!!」
顎を押し返そうと伸ばした手を逆に取られて、私はバランスを崩して結人の胸の中に頭を埋める格好になってしまう。
結人はコドモをあやすように私の頭を撫でて、はいはいと笑った。
「じゃ、俺は晩飯食いに行って来るから、くれぐれも部屋から出ないで大人しくしてろよ。鈴葉の分は、あとから夜食として持ってこさせるから少し我慢しろ」
命令形の語尾も、ただ念を押すような静かな口調で、反発しようにも調子が狂う。
たとえ私が絶対服従の立場であったとしても、余裕綽々な結人からこんな扱いをされるなんて。
こっちの私とこの結人とは、一体どんな関係なんだ?
想像する前に、しちゃいけないような気がして、頭の中に浮かび始めた景色をぶるぶる振り払った。
「シャワー、ごゆっくり」
同じ岩城結人とは思えない色っぽい視線で私を一瞥すると、ドアが小さく音を立てて閉まり、彼の姿は向こう側に消える。
すかさず私はノブの下に鍵を見つけ、それを回しかけると、大きく肩で息をした。
ドアを背にして顔を上げると、アイツに対して全く余裕のない私が鏡に映っている。
自分自身と向き合うと、急にホンモノの岩城のことが脳裏をよぎった。
「岩城、どうしてるかな」
付き合ってるつもりはないし、結人に言ったとおり良い友達のひとりだけど、いつからかほとんど毎日一緒に帰るようになって。
私がいなくなって、アイツ、ちょっとは心配してくれてるだろうか。
岩城のことを考えていたのに、不意にこっちの結人の顔が浮かんで顔が熱くなる。
見た目は一緒だけど、全く別人の結人とキスしたなんて知ったら、岩城のヤツ、どうするだろう。
私は頭を抱えて溜息をついた。