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頭の中は、混乱を通り越して真っ白になった。
頬がぴくりと引きつって、ふと我に返る。
『キミは死刑』
ゲーテと名乗ったネコ男の台詞が、何度も脳内でリフレインする。
冷静になれ、私。
とにかく、私は居てはいけない場所に来てしまった。
そして、それがこの世界の誰かにバレたら、『死刑』?
「有り得ない」
「有り得ねぇな」
ひとり言のつもりがどこからともなく返事をされて、私は恐る恐る声のする方を見た。
「岩城……」
だけど、本当の岩城じゃない。
ゲーテの説明から考えれば、この世界の、岩城結人だ。
「まさか、今の話」
聞いていたんじゃ。
だとすれば、私は即刻、死刑!?
青ざめる私の手を掴み、岩城は私を見下ろした。
「侵入者、はっけーん」
「なっ」
逃げようともがいても、両手首を掴まれ引き寄せられる。
「らしくないから、おかしいと思ったんだよな」
「は、離してっ!」
「ヤダね」
「お願い、私、絶対どこかに隠れて見つからないようにするからっ。だから、見逃して」
完全アウェイである立場を忘れ、岩城を睨みつけて私は強い口調で言った。
いつものあの岩城なら、わかったよとすぐに手を離してくれるはずだった。
「アンタ、どういう目的でこっちに来たわけ?」
「え……?」
「女王陛下の暗殺、とか?」
「まさか!」
「あ、そ。なーんだ。異世界から来た救世主とか、そういうヒロインじゃないのかよ」
つまんね、と息を吐いて手を解いてくれるのかと思いきや、ただじっと瞳を見つめられ、気まずくなって視線を逸らした。
「じゃあ、何でこっちに来たんだ?」
「何でって、私もよくわかんないの。気がついたら、あの中庭にいて……私だって、好きでこっちに来ちゃったわけじゃないし、早く帰りたいのっ」
「じゃあ、どこからどうやって帰るつもりだよ」
「それは……」
わからない。
だいたい私はここがどんな世界でどんな場所なのかも、よくわかっていないのに。
「訳ワカンナイまんま、いつまでひとりで隠れてられると思ってんの?」
岩城の言葉に、急に不安が込み上げてきた。
いつまで、だろう。
一体、いつまでこんな場所にいなきゃいけないんだろう。
「ま、俺がかくまってやってもいいけど?」
逸らしていた視線を岩城に戻すと、いかにも何か企んでいそうな顔で私を見下ろしてる。
「本当に……?」
「信じないなら、このまま女王陛下に突き出して、アンタを牢獄にぶち込むまでだ。俺はアンタが死刑になろうとどうなろうと、正直どうでもいいからね」
「そんな」
「さぁ、どうする?」
答えは、決まってる。選択肢なんか、ない。
生きて帰るためには、とにかくなんとか今の状況をしのぐしかない。
「本当に、その……かくまってくれるの?」
なんとなく、この岩城のことを信用できないけど、とりあえず、だ。
岩城はそうこなくちゃと、ますます怪しげに微笑んだ。
「そのかわり、条件がある。俺の言うことに、すべて従ってもらう」
「は!?」
「そして、アンタにそれを断る権利はない。いいな?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それ、どういうこと?」
「日本語は通じるんだろ?」
「茶化さないでよっ」
「俺は、いたって本気ですが?」
いつまでたっても離してくれない手が、その証拠と言わんばかりに、痛いほどの強い力で私の手首を掴んだままだ。
無駄な抵抗だと判っていながら、私はもがいて顔を歪ませる。
理不尽な条件には納得できないけれど、仕方なく私は口を開いた。
「じゃあ……私は、どうしたらいいの」
「え? 声が小さくて聞こえないんですけど」
「だからっ、まず何をしたらいいのよっ!」
「んじゃ、交渉成立ってことで」
彼の力から急に放たれて、私は勢い余って数歩後ずさる。
ひりひりする痛みとうっすら赤い痕の残る腕をさすり、私は唇を噛んだ。
「とりあえず、その服、だよな。それは、女王陛下しか着ることを許されてない制服だ。鈴葉と同じものをメイドに用意させるから、俺の部屋で待っててくれ」
「アンタの、部屋?」
こっちを向いた岩城は、すぐさま口をへの字に曲げて、ふっと息を吐いた。
「アンタ、じゃねぇよ。俺のことは結人って呼べ」
それに似たような台詞、さっき中庭で聞いた気がする。
この程度のことなら簡単、さらりと従えるけど。
「で……結人の部屋は、どこなの」
「三階の北側、右の一番奥だ」
「ちょうど音楽室の真下ってこと?」
「あぁ、そう。三階の南側は女王の部屋で、扉の前にはボディーガードがふたり常駐してるから、あまり近づかない方がいい」
「わかった」
「その並びに鈴葉の部屋もある。他のやつらは誤魔化せたとしても、本人に会うのは絶対タブーだから気をつけろ」
「うん」
あのピアノを弾いていた『私』を思い出して、すぐにかき消した。
他人から私はあんなふうに見えているのかと恥ずかしい一方で、とにかく気持ちが悪い。
自分の他に、もうひとりの自分がいるなんて。
それが意図的に動いてくれるならまだしも、まったく別の存在なのだから。
肩をすくめたところで、岩城、いや結人が目の前に立ちはだかった。
そして次の瞬間には腰を抱き寄せられ、顎をくいと持ち上げられる。
「じゃあ、これから仲良くやろうぜ。鈴葉姫」
まるで馬鹿にしてるみたいな台詞に、何か言い返そうと口を開いた。
だけど、そこにあるのは、岩城の優しい笑顔で。
妙な錯覚に胸を突かれ、とたんに顔が上気していくのがわかる。
顎を持ち上げる指を振り払おうとするよりも先に、私の頬、かぎりなく唇に近い場所に結人のやわらかい唇が触れた。
「なっ……」
何すんのよ!
そう叫ぼうと開いた口を、結人の唇に塞がれる。
抗おうとするのに、口の中で繰り広げられる今まで知ることのなかった感覚に、ぐるり、目が回って指先に上手く力が入らない。
何だ、何なんだ、コレ!?
ようやく開放された口で、私は何度も息をした。
「まさかオマエ、キス初めて?」
頭上からの結人の声に、私は返す言葉もなく、たぶん、異様に赤くなってるだろう顔を上げるわけにもいかず。
情けないことにがくがく震える身体を、どうすることもできなかった。
「すげー可愛い」
「わーっ!!」
今度は耳の輪郭を何かでなぞられて、私は絶叫して結人を突き放すと、猛スピードで三メートル以上の距離をとった。
「ち、ちょっと待って! こういうの、ナシっ」
「今更何言ってんだよ。鈴葉は俺の言いなりになるって、交渉成立したじゃん」
「言いなり……!?」
「あ、今エロいこと想像しただろ」
「してないっ!」
一体、コイツ、何考えてんの!?
白い歯を見せて、岩城と同じように笑顔を見せたって、その中身はまるで別人だ。
「それじゃ、俺の部屋で待ってて。検討を祈るよ、鈴葉姫」
ひらひらと手を振って、結人は私に背を向けると、何か思い出したようにまたこっちを向いた。
「あと、もし誰かに会って話しかけられても、とにかくクールにやり過ごせよ。こっちの鈴葉は、今の姫のように可愛らしく赤くなるなんてこと、絶対にないからな」
「わ、わ、わかったわよっ」
結人の背中が廊下を曲がって見えなくなると、私はがっくりと力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「何なんだ……この世界は」
場所は学校、だけどそれは中世ヨーロッパの城を思わせるように姿を変え、同じく見知った顔ばかりの登場人物も人格やスタイルが全く違う。
そんな世界が存在したってかまわない。
だけど。
どうして私がこんなところに、迷い込まなきゃいけないわけ!?