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それから続いた私の空想遊戯は、平和で穏やかで、ほとんどが私の望むままに物事が進み、昼休みには兄とピアノを弾いた。
岩城と結人の勝負は、その兄によって厳重に監視され、私も私で迂闊にどちらかとふたりきりにならないようにしている。
春日さんと林田さんは、いいコンビで仲が良いし、この世界に来て、やっと安心した毎日を過ごせているような気がした。
「こんな日が、ずっと続けばいいのに……」
ずっと、ずーっと。
夢と同じ世界だとわかっていても、何かと引き換えにこのままでいられるなら。
「そう、思うでしょ」
放課後、HRが終了してざわめく教室の中で、つい口を吐いたことを聞いていたのか、林田さんが私を振り返って笑う。
彼女は現実の『楽しかった記憶』を引き換えに、自分の世界を続けていた。
「林田さん、もし私が現れなかったら……まだ、ずっと続けていたと思う?」
「うん。たぶん。私には、そうするほかに、何もなかったから」
現実への、未練も、何も。
どこか遠いところを見つめながらそう言うと、私の前の席に座り、こちらを向いた。
「有川さんのお兄さんって、カッコイイね」
「……そう、かな」
「うん! またひとつ、私の妄想ネタが増えちゃった」
「……林田さん」
「何?」
「これから先、どうする、つもり?」
数日前から、聞いてもいいかどうか迷っていたことだったけれど、私は思い切って尋ねてみた。
この空想遊戯保護区の次なるプレイヤー。
すでにどこかに控えているのか、それとも。
ゲーテにはずっと会っていないし、状況はわからない。
私の希望で林田さんはここにいられるわけで、私たちと何の関係もないプレイヤーが現れたとすれば、おそらくその世界に彼女は存在できない。
林田さんは首を傾げ唇を尖らせ、おどけたように、さぁね、と呟いたあと、ふと真顔に戻る。
「自分が消えるのは、すごく怖いけど……だけど、現実に帰るつもりは、最初からないから」
「今でも、そう思ってるの?」
「うん。死ぬことより、現実に戻ることのほうが、やっぱり怖い」
ずっと願い続けていた元の世界に戻りたいという気持ちは、いつしか逆の思いに変り、私もまた、彼女と同じように現実に戻ることが怖くなっていた。
家族団らんの暖かな夕食。
兄と同等に扱ってくれる、明るく元気な母親。横で話を聞きながら、微笑む父親。
そしてその団らんの中心である兄が『存在』する。
兄と違うことで褒めてほしくて始めたバスケも、思い描く通りに身体が動き、シュートも決まる。
あと数日で戻る現実には、何も、ない。
あるのは、喪失感から抜け出せず……互いに抜け出すことを許さずにいる家族と、本当の主を失くしたピアノだけ。
ふと林田さんが私の瞳を覗きこんできた。
「現実のこと、思い出して暗くなってる」
彼女も通り過ぎた心境なのか、ずばり言い当てられて、私は溜息を吐いた。
「でも、深入りしないうちに、まだ戻れるうちに戻ったほうが、きっと良いんだと思う」
今度は林田さんが大きく息を吐き出し、私の机に肘をつく。
「……後悔、してるの?」
私の問いに、しばらく考えて、林田さんは否定するように首を振る。
「今だから、いろんなことを考えるけど。戻っても、居場所がないんだもの。……まぁ、元々たいした居場所なんて、なかったし。女王陛下でいられた間も、今のこの状況も、向こうに比べたら、断然楽しいし。でも、有川さんは、岩城くんだっているし、その……家庭の事情はよくわからないけど、戻れるうちに、戻ったほうがいいよ」
視線を机の上に落とし、上がっていたはずの口角は緩み、わずかに眉根を寄せた。
彼女の曇った表情に、私は口を開いた。
「やっぱり、一緒に帰ろう。居場所なら、一緒に作ろう。私はこうして林田さんのことを覚えてるんだし、春日さんも、岩城だって、仲間だよ」
唖然と私を見つめた林田さんの表情が、くしゃりと歪んで口元に笑みを浮かべる。
「ありがとう。でも……それは、私がまだ……食べて、ないから」
おもむろに制服のポケットを探り、銀色の紙に包まれた小さな丸いものを手のひらにのせ、林田さんは私に見せた。
まるで、チョコレート菓子が包まれているような……。
「まさか」
「これ、私の作った世界に居た、有川さんだよ」
林田さんの世界から、岩城の世界に変わったとき、ただ消えてしまったのだと思っていたもうひとりの私は、彼女の世界の仕組みどおり、チョコレートに変化してそこにある。
林田さんは手のひらを、その上にあるチョコレートを握ると、再びポケットにしまった。
「私は、私の世界の幕引きをしなきゃいけないの。中途半端なところで終わっちゃったけど、契約は、契約なんだって」
「でも、そんな……」
「いいの、いいのよ。平気。大丈夫。最初から、わかってたことだから」
ゲーテの顔を思い浮かべると、いくらこの世界のルールだといえども、どうしようもなく腹が立つ。
逆らえないだろうことを考えると、尚更だ。
「明確に、いつ、どの瞬間から私のことを忘れちゃうのかわかんないけど、一緒にいられる間は、食べたくないって思ってる。でも、有川さんの世界が終わってしまう前に、食べるつもり。せっかく有川さんが助けてくれた春日さんも、それから……」
……結人様も。
彼の名前が語られて、はっと顔を上げた。
自分がどんな表情をしているのか想像できずに、それでも困惑しているような林田さんに何か言葉を返さなきゃいけないと逡巡する。
隠し切れないくらい、動揺している。
「有川さん、ごめんね」
私は黙って首を横に振る。
「もちろん、ふたりには、何も言わないつもり。でも、有川さんには、知っておいてもらおうと思って」
「うん……」
「もしかしたら、私を誰だかわからなくなる瞬間があるかもしれないってことと、あのふたりが、急に消えてしまうかもしれないってこと」
「………」
頷きたくなくて、そんなこと、想像したくもなくて、私はただ黙っていた。
だけど、おそらくその瞬間は、間違いなくやってくるのだ。
「今、林田さんの話を聞くまで、自分がこの世界からいなくなるのは、仕方ないことだって思ってた。でも、私がいなくなるよりも先に、ふたりが消えちゃうとか、林田さんのことを忘れるなんて聞いたら……急に、すごく、不安になってきた」
ずるい、思考かもしれない。
けれどまた、そばにいた存在が消える。
もう二度と味わいたくなかった感覚が蘇り、私は瞼を閉じて、気持ちを切り替えようとした。
すると、林田さんがふと笑う。
「なんだか、変だよね。私が作ったふたりなのに、そんなに有川さんが気にとめてくれてるっていうか……ふたりを好きになってくれて、私、ちょっと嬉しいな」
私にとって、初めてこの世界に来てかかわりを持った彼らは、特別だった。
現実とこの世界の区別がつかずに、必死に春日さんを助け、そして現実の岩城とこっちの結人のギャップにハラハラして。
「私も、あの結人に会えて、良かった。この世界に来て、良かったよ」
ずっと先送りにしていた岩城とのことも、結人が背中を押してくれたから、前に進めた。
「もっと、林田さんとも、話したかったな。この世界じゃなく、現実に戻ってからも」
もう、名前しか知らないクラスメイトじゃない。
林田さんの想像する世界や、好きなこともなんとなくだけど知ってるし、彼女も学校じゃ見せられなかった私の姿を知っている。
くっと喉に詰まるような声がして、私は顔を上げた。
「林田さん……」
唇を強く噛んで、林田さんはぼろぼろと泣いていた。
「ごめんね……後悔してないなんて、嘘。もしかしたら、もっと早く現実の世界で私が勇気を出して行動してたら、こんなことにならなかったのかもって、思ってる。こんなふうに有川さんと話せるなら、頑張って、話しかければ良かった……」
目を閉じ、何度も指で涙を拭う。
涙がこみ上げては零れ落ちる瞳をこちらに向け、懸命に微笑んだ。
「でも、過去のことは、覆すことはできないし、私がこの世界を選んだことも、もうどうしようもできない事実だし。だから……有川さんには、戻って、ちゃんと現実と向き合って乗り越えてほしい。きっと、有川さんだったら、それができるはずだから」
目を背けないで、恐れないで、向き合うこと。
「……うん」
林田さんは、この世界で、自分自身のしてきたことに、決着をつけようとしている。
私も、立ち止まるのをやめて、前に、進まなきゃ。
そのためにも、彼の存在が消えてしまったという事実を、本当の意味で受け入れなくちゃいけない。
二日後、最後の日の放課後までに。